アメリカの航空博物館をはしごして、各々女流飛行士のコーナーがあったので、
それをもとにいくつかのパイロットを取り上げてみました。
アメリア・イヤハートに始まって、映画女優になったルース・エルダー、
スタント飛行のパンチョ・バーンズ、そしてフランスの「女性将軍」ヴァレリー・アンドレ。
黒人飛行士のベッシー・コールマンや、ソ連のエース、リディア・リトヴァク。
「女性だから、美貌だから」
というカテゴリーから 抜け出して純粋にパイロットとして有名だったのが
全員というわけではありませんが、少なくとも「黎明期に逆境をはねのけて挑戦した」
という女性たちであることは確かです。
いずれも女優さんのような雰囲気をお持ちの美女ばかりですが、
冒頭写真を含め彼女らは有名パイロットというわけではありません。
ここベイエリアには、今でも99s、ナインティナインズという女性パイロットのための
飛行クラブがあって、奨学金で後進の育成をしたり、互いの交流を深めたりといった活動をしているのですが、
この女性たちはその99s黎明期の創設メンバーだそうです。
冒頭画像はマリアン・トレース、下二人左からアフトン・レヴェル・ルイス、そして
フィリス・ゴダード・ペンフィールドのみなさん。
もしかしたら容姿端麗であることも入会条件だったのか?と思いましたが、
そういうわけではもちろんありません。
フィリス・ゴダード・ペンフィールドは、この会の創設メンバーですが、
わたしが昨年の夏滞在していたCAのパロアルトで飛行学校を経営していたゴダードと結婚後、
そのゴダードが飛行機事故で死亡したので彼の遺志を継いで
本格的に飛行の世界に脚を踏みいれたという女性です。
しかしどうでもいいですが、このころのアメリカ女性は今と違ってスマートですね。
やっぱり食べているものが全く違ってたのかしら。
このベイサイドには小さな飛行場がそれこそあちこちにあって、自家用車のように
飛行機を所有している人が利用していますから、女性のパイロットも多いのでしょう。
冒頭画像に描いたマリアンは、このクラブにいた関係で、初めてアメリカが
旅客機運行を始めたときに客室乗務員となった最初の女性となりました。
つまり、キャビン・アテンダント第一号です。
パイロット資格を持っていながら仕事がスチュワーデス?とつい思ってしまいますが、
昔はアメリカでも敷居の高い職業でしたし、「最初の」となるとなおさらです。
今の「Kマートのレジよりはちょっとマシ」程度の、アメリカにおける
航空会社客室乗務員の地位の低さからはとても考えられませんが。
さて、というところで本日の主人公です。
”空飛ぶトムボーイ” ブランシュ・スチュアート・スコット
(1885−1970)
昔むかしの少女漫画ではこういうメガネをかけたオバサンは、かならず
「そうなんざーます」
としゃべる金持ちマダム(あるいは教育ママ)と相場が決まっていました。
んが、このざあますマダムが若かりし日「トムボーイ」(おてんば娘)と
呼ばれていたことがあろうとは・・・・。
男子三日会わざれば括目して見よといいますが、女性は数十年もたつと
別の生き物のように雰囲気が変わってしまうものですね。
「変わった」の意味はまったくちがいますけど。
それはともかく、このブランシュ・スコット、こう見えてアメリカで
単独飛行を成し遂げた最初の、ってことは世界でも最初ですが、
女性というすごい人なんざあます。
1910年、彼女はあの、グレン・カーチス(もちろんカーチスの創業者ですよ)に
採用されて、彼の飛行グループに加わり、宣伝のためのエキジビジョン飛行を行いました。
グレン・カーチスはもともとオートバイの分野でのエンジン製作の先駆で、
そのエンジンを航空機に生かすことを思いつき、ついでに飛行機の操縦を習い、
ちゃっかり
「史上初めての飛行機免許を取ったアメリカ人」
の地位を獲得しています。
ライト兄弟の初飛行は「公認」ではなかったからですね。
ライト兄弟は不満だったでしょうが、彼らが免許を受けたのは、史上
「4番目と5番目」
だそうです。
兄と弟どちらが先だったのかまではわかりませんでしたが。
そのせいだけではもちろんありませんが、カーチスとライト兄弟の係争は
その後飛行機の開発を巡って、法廷にまで持ち込まれたりして泥沼化します。
病気で兄を失った弟のオーヴィルは、その死因を
「心労によるストレスで、これはカーティスのせいだ」などと言ったりしたそうですが、
ここでは関係ないので割愛します。
ただ、第一次世界大戦がはじまり、その後当人たちが一線から退くと、
カーチス・エアロプレーン・モーター社とライト・マーチン社は合併して、
呉越同舟会社、カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。
ちょっといい話ですね。そうでもないか。
さて、スコット嬢はもともとパイロットであるカーチス本人に飛行機の操縦を習っていました。
カーチスは、女性である彼女を表に出せばさぞ宣伝になると思ったのですね。
彼の読みは当たり、スコットはたちまち「トップ・セラー・パイロット」となり、
週に当時の五千ドル(50万円)稼ぐ「稼ぎ頭」となりました。
彼女のスタントの中で最も人気のあったのが”デス・ダイブ”、死のダイブで、
4000フィート(1.2km)上空からほぼ直角にダイブして地面ぎりぎりで機首を上げるという
非常に危険な技でした。
今の性能のいい航空機と違って(それでも危険ですが)、このころはバイプレーンですからね。
”Tomboy in the air"のあだ名はだてではありません。
ブランシュ・スコットが生まれたのは1885年。
彼女の父親は特許薬を製造販売して成功した実業家で、超資産家。
つまり彼女は正真正銘お嬢様だったんざあます。
当時、車を所有できる人間はアメリカと言えどもそういなかったという時代に、
しかも免許取得年齢に達してもいないころから、彼女は
娘に甘かった(に違いない)パパに買ってもらった自家用車を乗り回していました。
当時のおぜうさまですから、当然フィニッシングスクール(花嫁学校みたいなもの)に
通ったりもしているんですが、どうも彼女は根っからの「おてんば」だったようです。
それも、その辺を乗り回すというような可愛いものではなく、ニューヨークからサンフランシスコまで、
アメリカ大陸を自動車で横断した史上二番目の女性になったといいますから、筋金入りです。
ちなみにわたくし、東から西海岸に引っ越す機会にアメリカ横断を計画しましたが、
クルマそのものに不安があったのと、時間がなく、どう考えてもスケジュールが
一日中走り続けて、それ以外は寝て食うだけの一週間の強行軍であることがわかり、
運転するのがわたし一人で、息子がまだ二歳児だったため断念しました。
今にして思えば、あのときが気力的にも年齢的にも、時間的にも
そんな無茶をする最後のチャンスだったので、残念と言えばいまだに残念に思っています。
彼女の乗った1900年当時自動車の性能と比べれば、5年落ちのカムリとはいえ
現代の車はスーパーカーみたいなものですからね。
さて、そんな彼女が当時の「はやりもの」であるところの飛行機に目を奪われないはずがありません。
で、その辺の飛行学校ではなく、カーチス直々に操縦を習っていたわけですね。
さすがはお嬢様、きっとパパが財界のつてでカーチスに
「ああ、きみ、うちんとこのはねっ返りがねえ、
飛行機乗ってみたいと言っておるんだが、ひとつ教えてやってくれんかね」
と頼んだりした経緯でもあったのではないかと思われます。
日銭を稼ぐ必要など全くないのですから、彼女がこの後スタント稼業に飛び込んだのは、
ひとえにおてんば娘の血がスリルそのものを求めたからでしょう。
カーチスが宣伝パイロットにスカウトしたのは彼女が美人だったから?と最初思ったのですが、
これを見る限り失礼ながら富豪の令嬢にしてはもっさりしていて、
あまり・・・・・・うーん・・・・・・・・・。
アメリカで最初に飛行機を操縦した彼女ぐらいしか他に適当なのがいなかったので
カーチスとしては選択の余地がなかったのか・・・・(失礼だな)。
そのへんは、航空黎明期ゆえ女性専用のお洒落な飛行服がなかったせい、
ということにしておきましょうか。
馬子にも衣装ということですし、その逆もまた真なりってことで。
まあとにかく、当時は「女性」というだけで珍しがられ、それだけで価値があった、
そういうことにつきると思われます。(さらに失礼だな)
しかし若い時はともかく、マダムになってからの彼女って、結構美人の面影ありますよね?
それに、
アメリカの切手になったこの肖像だって、結構な美人に見えなくもありません。
さらに最近こんな画像も見つけました。
まあ、こんなものを着ていたら大抵の女性はきれいには見えますまい。
6年スタント稼業を務めて彼女はあっさりと引退しますが、その理由は、
主に世間の彼女に対する「いつ事故を起こすか」というような好奇の目、
そして航空界の女性に対する排他的な体質に嫌気がさしたためだといわれており、
その時にこんな自嘲的な言葉を残しています。
「当時航空の世界に女の居場所なんてなかったわ。
エンジニアも、メカニックも、もちろん飛行家もよ。
多くの観客はわたしの首が折れる瞬間を観るためにお金を払ってたのよ。
『飛ぶフリーク』を見るためにね」
フリーク、という言葉は訳すといろいろと問題がありそうなので、
そういう言葉狩りに与するつもりはありませんが一応そのまま記します。
裕福すぎるほど裕福な家庭に育ち、さらに人のうらやむような「玩具」を手に入れて、
彼女は空にはばたくことで、より自由になるはずだった・・・。
ところが、実際は「空を飛ぶ女」というのは、彼女がかつて花嫁学校である
「フィニッシングスクール」で教え込まれた「あるべき女性の好ましい姿」とは正反対なもの、
というのが世間の、そして航空界にいる男たちの認識で、一歩中に入ってみるとそこには
「道を踏み外した女」への好奇と揶揄、そしてなにより反発が渦巻いていることに、
お嬢さんであった彼女は初めて気づき、その育ちゆえ一層傷ついたのではなかったでしょうか。
飛ぶことをあっさりやめた彼女は、その後脚本家として、ワーナーブラザーズや
ユニバーサルスタジオの仕事をします。
あっさりとこんな仕事に就けたのは、彼女の家の力だったもしれませんが、
むしろこれは飛行家として売った名前が実質役に立ったということかもしれません。
そして、1970年、彼女、ブランシュ・スチュアート・スコットは85歳の・・・、
おそらく本人も満足であったに違いないドラマチックな人生を閉じました。
ところで、彼女はもう一つの「初めての女性」のタイトルを持っています。
「ジェット機に乗った世界最初の女性」
というのがそれで、その初飛行は1948年。
彼女を乗せたジェット機を操縦していたのはあの!名テストパイロット、
音速を超えた男、チャック・イェーガー。
イェーガーはその際、同乗者を63歳の女性ではなく、かつてのスタントパイロットとして扱い、
遠慮なくロールや急降下を繰り返したそうです。
彼女がそのあとどんなことを言ったか、残念ながら資料には残されていないようですが、
わたしとしてはTF-80Cから地面にすっくと降り立った彼女には、メガネをかけなおしながらこう言ってほしい。
「わたしが乗っていた飛行機なんかより、ずっと安定していて退屈だったざますわ!」