一年ほど前、横須賀の軍港巡りツァーに参加しました。
この軍港ツァーはここのところHPによると
「おかげさまで連日満員御礼」
状態の超人気となっているそうです。
この「おかげさま」というのは一体何のおかげなのか
わたしはつい考えずにはいられないのですが(笑)それはともかく、
一年前参加したときにわたしがこのツァーデスクでこのような
海軍仕様のドンブリ復刻バージョンを買い求めたのをご記憶の方は
おられませんでしょうか。
このたかがどんぶりに5000円という破格の値段がついているわけは
有田焼の名窯である深川製磁の製品であるとそのときも書いたのですが、
それではなぜ深川製磁が海軍どんぶりを作ったのか。
それにについてはこの販売会社の説明に曰く
第二次世界大戦中、金属不足に陥った大日本帝国海軍は、
発足当時から使用していた金属食器を取りやめ、
日本一の硬度を持つ陶磁器「有田焼」という観点から、
宮内庁御用達であった深川製磁社を中心に、
有田焼で製作させました。
今回弊社がその当時の丼を入手し、その当時のレプリカを
深川製磁販売株式会社に制作依頼をし、
復刻版として販売する運びとなりました
となっており、わたしもそうブログに書いたのですがこれ、
実は微妙に違っていたんです。
なぜそれがわかったか。
それはわたしが今回の旅でその深川製磁を訪ね、深川製磁社長深川氏に
直接お話を伺い、会社の資料館を見せて頂いた結果、このドンブリが決して
上の説明にあるように
「金属不足に困ってその代用品として選ばれた」
というようなものではないことがまずわかったからです。
だってそうでしょ?
普通に考えたら「代用品」を作らせるのにわざわざパリ万博で名を馳せ、
宮内庁の御用達を代々引き受けている高級陶磁の会社に頼むなんて、
いくらハイカラ好みの海軍でもそんなもったいないことをすると思いますか?
もちろん「金属不足」というのもある時点では間違いではありませんでした。
しかし、この深川製磁と海軍のつながりはそんなものではないのです。
ところで、冒頭のデミタスカップ、どうですか?
これは海軍ドンブリのような企画会社を介したものではなく、
深川製磁直販の、「桜に錨」の入ったオリジナル製品です。
海軍カップの復刻版 ?
それが違うんだな。
実はこれ、深川製磁が海上自衛隊の接待用に受注し、
一定数大量に製作して納入した余剰品。
自衛隊に必要な分だけ納めたあとは、この深川製磁本店、
あとは自衛隊直属の売店に納品して、無くなれば次に作るのは
「また自衛隊からの注文があったときだけ」
つまり、これを手に入れることができるのはごくごく限られた期間です。
まあ、興味がなければ全くどうでもいい話ですが、とにかく
「桜に錨」に多大なるこだわりをもっている方には垂涎の一品。
それにしてもこれはどういうことかというと、深川製磁というところは
昔海軍、そして今は海上自衛隊と非常につながりが深いということです。
伝統墨守の海自が海軍時代からの付き合いを絶やすことなく
現在も海上自衛隊にこういったものを注文しているということでもあるのです。
話を個人情報の関係で大幅に省略せざるをえないのですが、
今回わたしが有田に深川製磁を訪ねていくことになったのは
たまたま得たご縁で知り合った深川社長が会社訪問を快諾され、
海軍とのつながりについても資料をお見せ下さることになったからです。
ところでですね。
有田、即ち佐賀県というところは昔から
「軍人にあらずば人にあらず」
の風潮のあるところで、何と言ってもそこからほど近い佐世保というのは
昔鎮守府、今海自の基地があるところです。
ついでに海軍の基地だったところなので戦後からは米軍基地ももれなくあります。
というわけで有田に行くことが決まったとき(といっても二〜三日前に急に決まった)
「それでは艦艇見学並びにセイルタワー見学を」
とほくそ笑んだエリス中尉です。
それは後半のお楽しみに、まずは羽田から飛行機で福岡空港まで向かいます。
福岡空港が近づき降下態勢に入ったとき、下に見えた景色。
海保の基地発見。
救難ヘリ、小型飛行機が止まっており、格納庫には
何機かが駐機してありました。
福岡空港は新幹線の駅に地下鉄でたった二駅。
国内でもトップの至便さではないでしょうか。
わたしたちが乗ったのは新幹線ではなく、ハウステンボス号。
ハウスというのはこの時まで知らなかったのですが、
HUISと書き、意味はやはり「家」です。
Huis Ten Boschで「森の家」だそうで。
行きはハウステンボスではなく有田で降ります。
途中の駅はまるで「想ひ出ぽろぽろ」に出てきた東北の路線みたいな風情。
着きました。有田駅です。
一週間前は陶器市が行なわれており、全国から
有田焼の愛好家が詰めかけて大変なことになっていたようです。
しかしこの日は土曜日でありながら人っ子一人いませんでした。
こんな町の駅前にパチンコ屋を作るかな。
案の定流行らなかったらしくかなり昔に閉店して廃墟になっています。
廃墟マニア(?)としては結構ワクワクする眺めですが。
駅舎は小さいですがちょっとこだわりを感じる作りとなっています。
さすがは有田、有田焼の町。
駅の階段の手すりが有田焼仕様になっています。
巨大な招き猫ももしかしたら有田焼?
このあたりは戦災も受けず、自然災害もほとんどないことから
古くからの建物がいまだに町並みに多く残されています。
まっすぐに続く道の両側にはせいぜい二階建ての低い建物が並び、
鄙びた、そして、からんと明るく空の広い町、そんな印象です。
町の小さな医院の壁には薔薇が見事に咲いていました。
薔薇は手入れが大変な花ですが、個人でここまで咲かせるのは
よほどの熱意を持ってやっているに違いありません。
(この反対側にも同じくらい薔薇の壁ができていた)
ちなみにハウステンボスでは今シーズンの薔薇をモチーフに
「ローズフェア」をやっているという話でした。
ちょうどお昼時間だったので、カード会社おススメのレストランで
ランチを頂くことにしました。
レストランで、カフェでもあり、有田焼の陶磁も買うことができます。
お店の三方の壁はコーヒーカップの棚になっていました。
コーヒーを頼むと、好きなカップで飲むことができます。
こだわりのコーヒー店ではときどきあるサービスですが、
ここのカップはこの中からどれでも、ということなので大変。
というかこれだけあるともうどうでもよくなるというか。
横のテーブルの主婦がカップを選んでいましたが、
自分の近くのものをおそらく適当に(笑)指差していました。
小物も勿論有田焼。
鯉に乗ったネコさん、前にはネズミもちょこんといます。
「ごどうふランチ」というのを頼んでみました。
「ごどうふ」というのはごま豆腐のこと。
「ま」がどうして無くなっているのかは謎です。
もしかして「ま」を抜いて「まぬけ」みたいなシャレでもあるのかと。
普通のごま豆腐よりは柔らかくてまるでわらび餅のような食感で、
しかしごまの風味はしっかりと生きているといった感じ。
わたしは自分でも作るくらいごま豆腐が好物なので、あまりの美味しさに思わず
「これ、お持ち帰りできないのかな」
とつぶやきましたが、あとで深川社長にお聞きしたところ(何聞いてんだ)
「あれはやめた方がいいです。味が落ちますから」
とのことでした。やっぱり。
さて、美味しい昼食が済んで、タクシーで向かったのは
「チャイナ・オン・ザ・パーク」。
チャイナ、というのは普通名詞で言うところの磁器のことです。
因みに「ジャパン」というと漆器のことですね。
ただし先々代の深川忠次は彼の名を有名にしたパリ万博への出展の際、
自分の作品を「チャイナ」ではなく「フカガワポースレイン」と名付け、
それで 最高名誉のメダーユドールを獲得しています。
「チャイナ」と認識されるよりあくまでも「日本の磁器」であることを
強調する意味があったのかもしれません。
ここは深川製磁の製品を少しだけお手頃な値段で買うことができます。
ウサギの取っ手がついたシリーズ。
可愛いですね。色も素敵です。
これは深川社長の奥様の作品だそうです。
深川忠次が賞を取ったときの関係資料も少しありました。
うさぎの磁器が「奥様の作品」ということを書きましたが、
深川社長は「うちの事業は女がやってきたようなもの」と言っていました。
深川忠治は世界に有田焼の名を知らしめた人物ですが、
その次男に嫁いできたのが「敏子さん」でした。
「有田に嫁いできた薔薇の貴婦人」
そんな名で讃えられる敏子夫人。
深川製磁はこの貴婦人の血が入ることによって艶やかに花開くごとく
その美意識が隅々にまで生きるようになったということです。
ちなみに伊藤緋沙子著「華の人」には有田に生きたそんな彼女の生涯が
描かれているそうです。
伊藤緋沙子さんはファッション誌ではおなじみの美容評論家(だったかな)
ですが、伝記も書いていたとは知りませんでした。
わたしはまだ読んでいませんが、今TOが読んでいるので終わったら借ります。
ちなみに深川社長に「ファッション誌では有名な方ですね」と云うと、
「先代と先々代が気に入っていてね。綺麗な人だから」
とのことでした。
どういう風に自分の身内が書かれるかよりも書き手が美人だからOK、
ということですかそうですか。
美に携わる男はやはり女性に関しても耽美派なんでしょうか(笑)
チャイナ・オン・ザ・パークにはラベンダー畑がありますが、これも
「敏子好み」で、確か彼女は富良野の近くの出身だったとか何とか。
階段を上っていくとモダンなレンガ作りの建物があります。
「忠次館」と言われる資料館です。
小さな噴水(水は止まっていました)。
底には「CHINA ON THE PARK」とあります。
ここは吹き抜けになっており、一階では物販、
二階では広々とした空間でお茶を楽しむことができます。
わたしたちはここで深川忠次の子孫である深川社長にお会いしました。
香蘭社、という磁器会社の名前を皆さんは勿論ご存知でしょう。
有田焼(伊万里)の技術を生かして日本で最初に絶縁がいしを製造したのが
深川栄佐エ門という深川の8代目でした。
この人物が1879年に起こしたのが香蘭社です。
その息子がパリ万博に出店した忠次ですが、忠次は1894年、
香蘭社から出て深川製磁を設立するのです。
香蘭社の社長は今でも深川家の人間であり、深川製磁の社長とは兄妹だそうです。
さて、この吹き抜けの風がとても気持ちのいいティールームで、
わたしたちは美味しいコーヒーを頂きながら深川社長の話を聞きました。
今回のご縁をつないでくれたのが某N新聞のTさんという方で、
東京から佐賀支局に転勤になっておられたので、このときもご一緒しました。
「わたしは終戦後3年に生まれましたから、いわゆる時代のせいで
学生運動の盛んな時代を経験していますし、やっぱり
若いときにそういうことがあると・・・」
海軍と縁が深かった深川製磁ですが、深川社長は海軍の話が出てきたときに
まずそんなことを言われました。
団塊の世代まっただ中で、いやでもその熱に浮かされた口、
とわたしはその言い方から内心そのように判断しました。
時代によって刷り込まれ、インプリンティングされた感覚的な「軍的なもの」
への忌避感は頭では分かっていても「国防」への理解にすら支障を来し、
なかなか拭いがたいものでもあったようです。
しかし青年時代の考えはそれとして、国を護るということの尊さ、
それを実際に命を削ってそうした人々に対する感謝の気持ちはお持ちなのです。
磁器作りの名門の家にたまたま生まれ、伝統を受け継ぎ次世代にわたすという役目を果たす中で
氏はこの世に存在する意味のあることは少なくとも認めようという域に達せられたのではないか、
お話を聞きながらそのように(勝手に)解釈していたわたしです。
さて、話がひとしきり終わり、社長は皆を伴って
階下に降りていきます。
階段の上からこうして見えるのが・・・・、
そう、深川忠次がパリ万博に出品し「金賞」を取り、
世界に有田焼の素晴らしさを知らしめることになった作品、
「大花瓶」でした。