前回に引き続き、飛行黎明期の二人の女性パイロットについてお話しています。
前回のタイトルでエリノア・スミスのキャッチフレーズを
「フライング・フラッパー」
としたいきさつからお話ししましょう。
フラッパーFlapperとは、もともと「羽をパタパタさせる(鳥)」のイメージからの造語で、
1920年代に髪をボブカットにし、短いスカートをはいてタバコやお酒を嗜み、
退廃的な雰囲気でジャズに耳を傾ける若い女性を揶揄する言葉でした。
濃いメイク、自動車の運転、そして当時の保守的な人々が眉をひそめる奔放な性道徳。
決して肯定的な響きではなかったにもかかわらず、そこは大衆に膾炙する
「流行」の威力とでもいうのか、いつのまにか彼女たち本人が「フラッパー」を自称し、
ファッションにも、ヘアスタイルにもその名が使われました。
この二人が飲酒喫煙をしていたかどうかは知りませんが(していそうですが)、
フラッパーの条件である「ボブカットに自動車ならぬ飛行機の操縦」を満たす二人は
「飛ぶフラッパー」と世間に呼ばれる資格があったわけです。
実際に「フライング・フラッパー」というあだ名があったのはエリノア・スミス。
彼女は前回もお話ししたように、まだ10歳の時に操縦を始め、
史上最年少で飛行機免許を取得した人間(女性、でなく)と なりました。
彼女の父親は俳優で、彼女に真っ赤なWACO9を買い与え、
パイロット兼インストラクターを雇って彼女には安全のため離着陸はさせないこと、
とインストラクターにも厳命していたのですが、彼女が15歳のある日、
ーそれは父親が不在のときでしたがー母親がインストラクターに許可をだし、
彼女は離着陸どころか、初の単独飛行をやってしまいます。
・・・・・・・・・カーチャン・・・・・・(;・∀・)
この、当時にしてははっちゃけた母ちゃんあらばこそ、
飛行家エリノア・スミスは誕生したともいえます。
しかも母が母なら娘も娘。
この強烈な初単独飛行の10日後、彼女はいきなり、これまで誰も・・・、もちろんのこと
父親の雇ったインストラクターでさえも達したことのない高高度を目指して飛び、
皆が息をのんで見守る中、あっさりと到達して無事に帰還してきたそうです。
彼女と彼女の家族は彼女の操縦スキルが一定のレベルに達するまで、
その広報活動を最小限に行ってきましたが、あるとき、勝負に出ます。
なんと、ニューヨークはイーストリバーにかかる橋のうち有名なブルックリンブリッジ始め
四つの橋の下を飛行機でくぐるという派手なパフォーマンスでした。
このあたりはさすがにブロードウェイの観衆を体一つで納得させてきた
芸人である父親の血という気がします。
事前に彼女が橋の上を飛んで偵察したときでさえ、
彼女はいくつかの船舶を避けて飛ばなくてはなりませんでしたし、
しかも彼女はその時まで知らされていませんでしたが、各々の橋の上からは
ニュース映画のクルーが彼女の飛ぶのをフィルムに収めようと待ち構えており、
人々の間では彼女が成功するかどうかで賭けが行われていました。
ほとんどが天候条件で彼女が挑戦をやめることに賭ける中、
この世にプレッシャーなど全くないかのようにウェイコ10を駆る彼女は、
完璧に愛機をコントロールし、このスタントを成功させました。
大衆は喝采しましたが、この無許可のスタントに対してニューヨーク市は
市長名義で「ニューヨーク市における飛行停止10日を命じる手紙をよこし、
米国商務省は15日の飛行免許の停止を彼女に命じています。
いずれにせよ、こんなお上のお沙汰は彼女にとって名誉の負傷のようなもので、
彼女はこの向う見ずな飛行スタントのおかげで一躍セレブリティの仲間入り。
この時に奉られたあだ名が「フライング・フラッパー」だったというわけです。
さて、今回のタイトルの一部「サンビーム・ガールズ」。
これは、エリノアと前回ご紹介した彼女の同年代のライバル、
やはり流行のボブカットにした「フラッパー」のボビ・トラウト二人に
与えられたキャッチフレーズです。
光線少女ってなにかしら、とわたしも最初はいぶかしく思いました。
ヒラー航空博物館で二人の写真に付けられたこの「サンビーム・ガールズ」
というキャッチコピーには、しかしながら何の説明もなく、
何を以てこの二人を「サンビーム」と呼ぶのかが当初はわからなかったのです。
「うーん・・・・・・サンビームというと・・・・『あれ』しかないけど・・・・・・」
Sunbeamというと、 アメリカに住んでいたりよく訪れる人には
「光線」よりぴんとくるものがあります。
キッチンに置いてあるコーヒー沸かしやトースター、あるいはフードプロセッサー。
そんな小物がSanbeam社製である確率は非常に高く、このロゴは
いつの間にか目にしているなじみの深いロゴなのです。
もしや、と思って英語で手当たり次第検索してみると、
ビンゴ。
Commercial C-1 Sunbeam
これがどうやらコマーシャル・エアクラフトという航空機会社製の
「サンビーム」。
間違いなく、このキッチン用品の会社の宣伝目的で作られた飛行機でしょう。
この「サンビーム」に、ボビとエリノアが乗って耐久飛行と空中給油に挑戦し、
それでこの二人のあだ名が「サンビーム・ガールズ」になったと。
この話が来るまでの1929年、二人はそれこそ「宿命」と言っていいほどの
ライバル関係で、耐久記録をお互い破りあっていました。
こんな風に。
●ボビ、女性初の耐久時間12時間を達成
●一か月経たないうちにエリノアが17時間達成
●すぐさまボビ、同じ17時間達成しタイにつける
●エリノア、こんどは26時間達成
完全にお互いを意識して飛んでいたようです。
記録を見ただけでは何とも言えませんが、この「女の戦い」は
少なくとも純粋に『互いの技量を高めあう正しいライバル関係』
というものではなかったか、という気がしないでもありません。
この二人の熾烈なライバル争いを見ていた、
カリフォルニアの一人ののビジネスマンが二人にスポンサーの申し出をしました。
「好敵手どうしての二人で協力して、
わが社の名前を付けた飛行機で耐久飛行記録を作りませんか?」
今まで耐久飛行で記録を競い合っていた二人を「サンビームガールズ」
として使えば、凄い宣伝になる、と彼は踏んだわけです。
そして1929年の11月、ロスアンジェルスのメトロポリタン空港から、
この二人の「宿命のライバル」同志を同じキャビンに乗せて、サンビームC-1は離陸しました。
このときの機長はエリノア・スミス。17歳の年下のスミスに機長を任せ、
23歳のボビは副機長を務めています。
「やるのはわかったが・・・・・どちらが機長になる?」
「ボビ、あなたがやってください。年もあなたが上だし」
「いやそうはいかない。耐久レースはいまのところ君の勝ちに終わっている。
レースで負けた私が君の上に立つのは私の気持ちが許さないんだ」
「ボビって、思っていたよりずっとオトコマエですね」
「な、何を言う。この後君を追い越すつもりだからな」
「ボビ・・・・」
「エリノア・・・・・」
という展開があったのに違いありません。多分、というか妄想ですが。
そして、このとき二人は女性で初めて空中給油を行いながら耐久記録に挑戦しました。
空中給油の第一号の称号は、ボビに譲られました。
サンビームに給油のホースを伸ばしたのは男性ペアの乗ったカーチス・ピジョンで、
エリノアが慎重に操縦する間ボビは カーチスからホースを受け取り給油をしました。
しかし、この二種類の航空機は必ずしも同時に飛んでこのような作業をするのには
向いていたとはいえませんでした。
まずカーチス・ピジョンは貨物を運ぶのに使われていた機で、
このときも燃料を空輸できるというだけで選ばれたものの、時代遅れのエンジンで
しかも、機体の構造上給油中のサンビーム号が見えず下で何が起こっているのかわかりません。
おまけに通信方法のない当時では全く意思疎通できないという始末。
対するサンビームも、これがなかなか安定しない機体で、エリノアは
「操縦中は一瞬たりとも気を抜くことができず、集中を強いられた」
とその不安定さを述懐していたそうです。
給油の最中は、基本性能が違う二機の速度を合わせるのに、
カーチス・ピジョンが全速力で飛ばなければならず、逆にサンビームは
失速寸前まで速度を絞って飛ばなくてはなりませんでした。
一般に航空機はゆっくり飛ぶ方が難しいので、これはエリノア・スミスだからこそ
できたことだったといえるかもしれません。
最初の挑戦が12時間経過したとき、事故が起こります。
何度目かの給油中、突風によるタービュランスが、ボビの手からホースを奪い、
彼女はホースから流れ出る燃料を頭からかぶってしまいます。
ホースの逆側では給油機の副操縦士ピート・ラインハルトが切り口でけがをし
出血するという騒ぎになっていました。
しかし両機とも無事で空港に戻り、次の挑戦では、この時を大幅に上回る
42時間の滞空記録を作りました。
二人同時の記録挑戦はこのときだけです。
この時以来二人に交友が生まれた、という風にはどこの資料も書いていないので、
もしかしたらお互い、ビジネスライクに仕事を務めたけど、こんなことでもなければ
一緒に飛ぶなどまっぴらごめん、と思っていたのかもしれません。
二人はその後も順風満帆な人生を送り、ボビは2003年に97歳、
エリノアは2010年に99歳と、どちらも天寿を全うして同じような年齢で亡くなりました。
まるで最後までこの世の滞在時間を競ってでもいたかのようです。
かつてのフラッパー同士の長寿対決は実際の滞空時間と同じで、
エリノアがわずか2年の差で勝利をおさめました。