Happy 4th!
この時期街に出るとそこここでこんな会話が交わされます。
今日7月4日はジュライ・フォース。独立記念日です。
毎年この日にはアメリカに関することをお話しするのが常ですが、
今年は先週までいた古い町と息子のキャンプのことを書いてみたいと思います。
夏の間、我が家は1ヶ月をボストンで過ごします。
今年も6月下旬から10日間の間ボストンの西部にある
ウェストボローという古くて小さな町に滞在しました。
ここはもう10年以上夏になると訪れており、第2の故郷というくらい
なじみの深い一帯です。
滞在していたキッチン付きスイート。
安いので前半は必ずここに泊まっていますが、
来るたびに経費縮減の痕跡があちらこちらに見え、
なかなかアメリカのホテル業界も大変そうだと窺い知る
基準のようになっています。
たとえばコインランドリーの値段。
最初に来た年はクォーター3つ、75セントで洗濯できたのに、
だんだん25セントずつ上がって行き、今年はついに2ドルになっていました。
洗濯して乾かしたらそれだけで4ドルです。
しかも、3つあるうちの洗濯機の2つは「アウトオブオーダー」
の貼り紙が10日間貼られたままでした。
キッチンに備えられた食器は最初に比べると半分以下になり、
鍋に蓋も付いていないありさま。
キッチンのコンセントから電気は来ないし、インターネットは
無料だけど(アメリカでは必ず無料)異常に遅いし、
1ヶ月いるのなら気が狂いそうなところですが、所詮
何日間と割り切っているので、わたしはそれも含めて楽しんでいます。
車はこのときボルボでした。
当初オンラインで「GPS付きのプリウス」と頼んだのに、
やってきたプリウスにGPSが付いていません。
「プリウスにはGPSは付けられない」
というのが向こうの言うその理由。
そんなこと言われなかったら分からないんだから、
配車のときにちゃんと説明してくれるかな。
「1日14ドルプラスでこれを貸します」
と、携帯用の玩具のようなGPSを持ってきたので、
「いや、GPS付きの車にスウィッチしてください。
アップグレードでいいから」
(こういうときにはチェンジではなくスウィッチというようにね)
と可能な車種を聞いてみると、
「ニッサンアルティマ(ティアナ)、トヨタカムリ、シェビー、
ボルボってとこですかねー」
「ボルボは乗ったことがないから、じゃあボルボで」
「へいボルボ一丁!」
という流れでボルボに乗ることになりました。
インテリジェントキーだし、走りも悪くはないけど燃費が悪い。
1週間でガソリンが無くなってしまいました。
おまけにアメリカでもガス代の高騰は凄まじいもので、
20ドルいれても3割くらいしかタンクを満たせません。
これは失敗だったかも。
ちなみにこれがアメリカのいわゆる「ETC」、
E・Zパスの機械。(一応説明しておくとイージーパス。
先日雷蔵さんに聞いた84=AT−4みたいなノリ)
ゲートを通過するときにはこの引き出しをスライドして
このように開けた常態で通過します。
わたしが最初にアメリカに来た頃には、料金所には
大きな籠があって、そこにクォーターを2枚投げ込むシステムでした。
一度手元が狂って入れ損なったまま通過したとき、
後ろからパトカーが追って来るのではないかと怯えたのは
もう遠い昔の想い出です。
無人ゲートは紫です。
ボルボにスイッチして最初にゲートを通ったとき、
信号が黄色に点滅したので慌てました。
何と、引き出しの中にリーダーが入っていなかったのです。
車をUターンさせわざわざもう一度ハーツに戻し、そのことをいうと係員は
だまってダッシュボードからリーダーを出して取り付けました。
・・・・・・すみません、は?
ごめんなさいもなしですか?
接客業としてどうなのよその態度は。
まあ、アメリカ人は絶対にこういうとき謝らない、
というのは知っていますが、(本当に謝らないよね)
やっぱりこういうことがあるといらっとせずにはいられません。
でも、取り付けて「これでOKだよ」にっこり笑った係員に、
ついついサンキュー、などと条件反射で言ってしまう、
美しい日本のお人好しなわたしです。
さて、高速に入りました。
前を走っているのは「ペン助」という名前の(漢字は当て字です)
トラックレンタル会社のトラック。
アメリカでは引っ越しのときにトラックだけ借りて
あとは全部自分たちでやってしまう人が多いのです。
走っているのはマサチューセッツターンパイク、通称マスパイクです。
今日は1ヶ月だけ借りられるシステムでチェロをオーダーしたので
それを取りにいきます。
しかし、合流地点で急に渋滞が始まってしまいました。
週末渋滞です。
アメリカでは金曜になると皆午後の仕事を適当に切り上げて
そのまま週末のバカンスに出かけてしまううちが多いので、
この時間(3時過ぎ)になると幹線の高速はどこも大渋滞になります。
もしかしたらアメリカ人は金曜の午後、全く仕事をしないのではないか、
そう思われるくらいこの現象は全米どこにいっても同じで、
サンフランシスコなどは皆が同じ時間にブリッジから外に出ようとするので
街中にまで渋滞の尻尾が出来てしまうくらいの阿鼻叫喚となります。
そんなにしてまでバカンスに行くのかアメリカ人・・。
何時間か走れば保養地や海岸やキャンプ場など近隣にいくらでもありますから、
週末はとにかく町を出てそこで過ごすもの、とみんなが思い込んでいるようです。
合流地点の先はさらに渋滞が激しくなりました。
こんなとき大抵前に追突して事故を起こす人がいるのは
車社会のアメリカでもよくある話。
「脇見渋滞」で対向車線が混むのも日本と同じです。
高速を降りると、ちょっと気になる通りの名前が(笑)
到着しました。
このジョンソンミュージックという弦楽器専門の楽器屋は、
去年まで小さいところにあったのですが、引っ越しして
広いスペースで営業を始めたようです。
雰囲気のあるれんが造りの家は、おそらく築100年は超すでしょう。
地震のないボストンではレンガの古い建築物が多く残っています。
アメリカ人の常として、建物は決して取り壊さず、中だけを
リノベーションして使い続けるのです。
テレビの番組には、古いうちを購入し、全てを取り壊して
まるで新築のように内装を変えてしまう(階段さえも壊す)
「ビフォーアフター番組」が毎日放映されています。
チェスナット通り。
名前もおしゃれです。
商談室や練習室、楽器調整室などがいくつも設けられていました。
チェロは息子が小さくて分数楽器だったときには持っていき、
飛行機ではクローゼットに入れてもらっていましたが、
フルサイズになってそれが不可能になってから、夏の間だけ
月単位で借りています。
アメリカならばこのようにオンラインで簡単に、
しかも楽器のグレードも「マスター」「エクセレント」「スタンダード」
と松竹梅とお好きなものを選ぶことが出来るというわけ。
こういうのがアメリカと言う国の合理的かつ文化的なところです。
ちなみに日本は文化的な国なので楽器を借りることは出来ますが、
お値段は大変高く付きます。
こちらで2ヶ月上級チェロを借りても140ドルくらいですが、
日本で2ヶ月借りればある楽器屋のサイトによると7万円くらいだそうです。
さて、楽器も手に入ったし、息子を迎えにいかねばなりません。
渋滞も始まったことだし早めに出発せねば。
信号待ちで停まったときの前の車。
よくメッセージを後ろの車に向けて貼っている車がありますが、
この人のメッセージは
「予防注射を強制しないで」
だそうです。
日本でもよくいわれていますね。
子供を持つ親なら一度は悩んだことがあるのではないでしょうか。
予防注射で子供を亡くした親が中心になっているグループと思われます。
この日の渋滞は、対向車線で事故を起こした人がいて、
その脇見渋滞でもありました。
隣の車から視線を感じてふとみると、見られていました。
まさか、シートベルトしている?
高速を降りるところにボーズの本社があります。
ボーズはボストンのMIT出身の科学者が作ったそうです。
武器製造会社のレイセオン(ファランクスを作っている)と並んで、
ボストンの企業としては最も有名です。
渋滞していたので道路脇の「不要品ポスト」を
撮ってみました。
アメリカにはところどころにこういうポストがあり、
洋服と靴だけを入れるようになっています。
わたしも過去このポストに買い替えて不要になった息子の靴や、
Tシャツ等を入れたことがあります。
教会等を通じてホームレスや施設の子供たちに配られるようです。
日本でもそうですが、いつも混雑する場所は同じです。
ここはこの先で2車線になるのでいつも混んでいます。
この辺りは湖が多いのですが、湖畔にこんな看板があります。
宗教団体だと思うのですが、自殺志願者に向けて
「自暴自棄ってやつですか?」
と聞いた上で(ちょっと違うかな)あなたの悩みを聞かせて下さい、
わたしたちが聞いて差し上げます、とあるのはいいのですが、
すぐその下で
「ボランティア求む」
悩みを聞く人、足りてないのかいっ!
「あの〜サマリタンズですか?」
「はいこちらサマリタンズ。声が暗いですね。お悩みですか」
「はあ、いや、仕事を首になって・・」
「気を落とさないで下さい!早まらないで!」
「じゃなくて暇になったからボランティアでもしようかと・・」
同じ電話番号だとこんなやり取りにもなったりして。
はい、というわけで学校に到着。
ここは下級生の送り迎えに使われるロータリー。
息子も昔はここでした。
屋根のあるガゼボのような建物は、ロータリーを親の車が
ピックアップのために通り過ぎるのでそれを待つ場所です。
遡ること一週間前の写真。
キャンプ開始の前の週末には恒例のバーベキューが行われます。
土曜日のお昼に学校に行けば、キャンプのスタッフが名簿を確認し、
その年の特製Tシャツが配られます。
息子はもうすっかりキャンプのディレクター(校長先生)とも
顔見知りで、むこうから声をかけてきてくれました。
アメリカ人は日向が平気なのですが、わたしたちは
迷わず日陰のベンチに場所を取ります。
日本のように湿気はないので、日陰に入るとひんやりしますが、
陽射しが強烈なので日向にいると肌がいたく感じるほどです。
向こうに見えている建物は、前にも一度このブログで紹介しましたが、
1867年に建てられたもの。
日本で言うと江戸末期ですね。
勿論今でも現役で学校の施設として使われています。
ここはボストンの中でも特に歴史があり、
全米でも最も古い学校の一つです。
この前で生徒達がカウンセラー(バイトの先生)と一緒に
親の車が来るのを待っています。
この学校に行くのは今日が最後。
最後のピックアップになります。
手前のアフリカ系は去年からのおなじみ。
車の中を覗き込んで、親のわたしにも「良い一日を!」
というのを欠かさない感じのいい青年です。
最後なので、息子にこの町の史跡を見せてちょっと歴史の
話(わたしが知っていることだけ)をしてやることにしました。
学校の裏には、この町の創設者の記念碑があります。
1727年にサウスボローは町として成立したという碑があります。
向かいに見えているのは学校の校舎。
これについても前に書いたことがあります。
「ハウイッツァー」と読むのだと思い込んでいたところの
「ハウザー砲」(Howitzer)。
日本語で言うところの榴弾砲です。
学校と教会の間にさり気なく置かれています。
教会の前には町が出来たときからの古いお墓がそのまま。
アメリカの13独立州の☆がついたの国旗が立てられている墓石は、
独立戦争で亡くなった戦士のお墓で、墓石には
ヴェテラン、と書かれています。
もう字がすり切れて、読めるものの方が少なくなっています。
この一帯には墓所がたくさんあるのですが、そこに
新たに葬られる人はいても、この場所には
死者をふやすことはないようです。
200年前の死者の霊を祀るため、この一角は
おそらく永遠にこのままなのに違いありません。
学校のあるところはサウスボローという町で、
アメリカでも古い町の一つですが、この町のヴェテラン(戦争従事者)が
独立戦争の戦死者を顕彰して建てた碑です。
1778年、というのは独立戦争も終結に向かっていた年ですから、
この近くの「レキシントンの戦い」や「タイコンデロガ」
で亡くなったのではないことは確かです。
こういうとりとめのないわたしの説明を、
実に気のない様子で聞いていた息子ですが、
「じゃ、最後だからウルマンズのアイスクリーム食べて帰る?」
と聞くと、急に元気になって
「食べる食べる!」
学校からホテルまでの道中においしいアイスクリーム屋さんがあるのです。
最後の食べ納めをしたいということで、お金を持たせて買いにいかせました。
この日はミントチョコと無難な選択でしたが、
別の日に買ってきたアイスクリーム。
なんなんだよこのいろいとりどりの物体は・・・。
文句の一つも言いたいところですが、我慢です。
お金を持たせて一人で買いにいかせたからには選択を尊重してやらねば。
ちなみにこれは「キディサイズ」つまり一番小さい子供用で、
4ドル25セント。
サイズも大きいですが(大人用はこれの2倍くらい)
結構お値段もアメリカにしては高いことに気づきました。
でも、このアイスクリーム屋さん、いつ行っても大繁盛。
ちなみに、現金しか使えないのでATMがあります。
しかしトイレはありません。
テイクアウトも出来ません。
皆、車で食べるか、ここにあるテーブルに座って食べます。
ゴミ箱がホルスタイン柄ですが、
隣の牧場にいる牛はニュージャージー種です。
町創設以来建っている町の教会。
アメリカの歴史とともに、あらゆる祈りが捧げられてきました。
独立戦争に始まり、あまりにも多くの戦争を戦って来た国。
その度、その戦いに身を投じる「ヴェテラン」を生み、
その度、碑石の言うところの
『Supreme Sacrifice』
最高位の犠牲、つまり命を賭けて戦った者への栄誉が与えられてきました。
その栄誉の影には、常に愛する者を失った涙と祈りがあり、
この古い教会は、200年以上もの間、それらの人々の祈りを受け止めてきたのです。
それを今現在、目のあたりにしているという不思議・・。
こういう瞬間、わたしは今立っているまさにその場所を行き交う
いにしえの人々の姿を想像し、感慨に耽ります。
そして今、このときも、いずれは誰かの想像の中にのみ存在する過去となるのだ、
という想いに、しばし呆然と立ちすくむのです。
学校の近くの家ですが、去年は見なかったこのポスト、
白地に赤い丸がつけられ、玄関から見えるポーチには
漢字の額が飾ってありました。
新しく越してきた住人は日本人かもしれません。