昔の(2010年11月)エントリから絵をリサイクルしてきました。
この絵を出して来るたびに苦労自慢を聞かされた古くからの読者は
「また始まった」
と思われるかもしれませんが、これは靖国神社の図書室で見つけた
40cmX50cmくらいの巨大な画集をそこでコピーしてもらい、
持って帰って模写したものです。
しかもこのころは絵画ソフトをまだ持っておらず、gooブログに付属している
「お絵描きツール」を使い、マウスパッドに指をすべらせて書いたもの。
gooブロガーのみね姉さん、みゆみゆさんならあのツールでこれだけ描くのが
いかに大変なことか、わかっていただけるでしょうか。
本文とは全く関係ないのでこの辺にしておきます。
さて、本稿はカテゴリで言うと三井造船の資料館なのですが、表題の
「ぶら志''る丸」
は三井商船が保有してはいたものの三菱長崎で建造されたもので、
こことは全く関係ありません。
なぜ三井造船資料館での見学が「ぶら志’’る丸」にたどり着いたかと云うと、
それはこの写真がきっかけでした。
写真の説明にはただ
「大量建造の規格型戦時標準船」1943年(昭和18年)
とあります。
名前くらいはついていたであろうに、それも今日では判明しないくらい
三井造船では「大量に」建造されたということでしょうか。
この「戦時標準船」という聞き慣れない言葉の意味から説明しますと。
まず広義には
戦争中の海上輸送力増強を目的に、構造を簡略化し大量建造された船舶
となり、第二次世界大戦に参加した主要国で建造されました。
たとえばアメリカでは
リバティ船
という戦時標準船を大戦中粗製濫造しました。
「粗製濫造」と言い切るのは、あまりにも大量に、迅速に、
とにかく数を稼げばいいとばかりに建造されたためで、これらの船は
案の定就航後事故が多発したからです。
その即製建造ぶりはたとえば
起工後4日と15時間29分で進水
するという珍記録も生まれたほどで、大型船の最短建造時間としての
そのレコードは今日に至るまで破られていません。
リヴァティ船について調べていて初めて知ったのですが、わたしは現在アメリカに
2隻だけ現存しているリバティ船のうちの一隻、
「ジェレマイア・オブライエン」
を実際に目撃しています。
昨年の夏、サンフランシスコの潜水艦「パンパニト」を見学したのですが、
「パンパニト」の岸壁の後ろ側に停泊していた妙に不格好な船がそれで、
こちらもやはり博物館となって一般公開されていたのです。
この「ジェレマイア」某が、どういう人物かは分かりませんでした。
というのも、リヴァティに船は当初『著名な亡くなったアメリカ人の人名」
をつけていたのですが、あまりにもたくさん建造しすぎて名前が足りなくなり、
そのうち外国人名や生きている人や、ルールがぐちゃぐちゃになってしまったからです。
おそらくどさくさに紛れて自分の名前をちゃっかりつけた人もいたに違いありません。
この「ジェレマイア」は世界に現存する3隻のリバティ船のうちの一隻で、もう一隻の
「ジョン・W・ブラウン」はボルチモアに、もう一隻は外国にあって、
なぜかギリシャに「ヘラス・ビクトリー」が動態保存されています。
動態保存、とは船が運用されないような状態において、機械類が本来の用途としての動作、
あるいは運用が可能な状態で保存されているので、機関部は稼働可能です。
映画「タイタニック」の撮影にはこの「ジェレマイア」の機関室がCG素材として
撮影され、加工されて使用されているそうです。
タイタニックは巨大船であったため、そのまま使えなかったのでしょう。
さて、それでは日本の戦時標準船はどのようなものだったでしょうか。
戦時には船腹の需要が平時に比べ増大するのに加え、敵国の行う
通商破壊活動によって船舶が撃沈され消耗するため、いずれの国も
「戦時標準船」なる「簡単にできる規格化された船」が必要となってくるわけです。
「標準」とはつまりこの「規格化」を意味します。
日本ではこの規格化された大量生産の船は第4次計画に亘って造られ、
その大まかな経緯を記しておくと、
第1次・・・戦後にも利用しようとしたため建造に比較的時間がかけられた。
185隻建造され、終戦時残ったのは11隻だった。
第2次・・・敵の通商破壊活動のため船の消耗に生産が追いつかなくなる。
粗製濫造は輪をかけて進み、中には「轟沈型」とあだ名されたものも。
殆どが着工から1ヶ月ほどで進水しており、419隻建造された。
第3次・・・制空権、制海権が失われていたため 、わずかしか建造されなかった。
第4次・・・敵の勢力下を強行突破するための速力、防御力の高い船が計画された。
しかしすでに日本には造船能力がなかったため、計画だけで終わった。
この経緯には日本の負け戦ぶりが如実に表れており、中でも第3次から第4次の実情は、
戦局とともに経済状態の悪化が窺えて、読むだけで涙が出そうです。
さて、戦時標準船がこのように濫造されなければいけなかったのであれば、
当然、それまでの民間船を戦時様に改造することも行われたに違いありません。
やはりここ三井造船で建造されたこの「報国丸」については
一度お話ししていますが、姉妹船の「愛国丸」とともに
「民間船として一旦は就航したが、実は有事の場合には
徴用されることを前提でそのために建造されていた」
という船であるわけです。
海軍に徴用された後は、特設巡洋艦と呼ばれ、「愛国丸」とともに
連合艦隊第24戦隊に編入され通商破壊活動に従事しました。
そして・・・、
おいおいこれは救難潜水母艦の「ちよた」じゃないか。
そうなんですけど、この「ちよた」の先代である空母「千代田」は
「千歳型水上機母艦」の2番艦なんですね。
せっかくなので覚えていただくために写真を出してきました。
その千歳型のかつての姿。ご覧のように、この時点では水上機母艦です。
ミッドウェーで空母がいきなり4隻失われたので空母になった「千代田」。
上部構造物を取っただけにしか見えませんが何か?
という感じです。
こののっぺらぼうのような痛ましい改造のされ方を見ても、
いかに当時の日本が切羽詰まっていたかというのが窺い知れるのですが、
このときに空母に改造されたのは「千代田」だけではありませんでした。
海軍はミッドウェーで無くなった分だけ、つまり4隻の空母を
何らかの形で造ることにし、この「千代田」をいれて
「あるぜんちな丸」「シャルンホルスト号」「ぶら志’’る丸」
の4隻を何と空母に改装する予定を立てたのでした。
そんな無茶苦茶な。
「あるぜんちな丸」はもともと三井商船所有の貨客船で、
南米への移民輸送に活躍した船でしたが、この改造により
空母「海鷹」
として、ドイツから日本が買収していた客船「シャルンホルスト号」は
空母「神鷹」(しんよう)
に、そして「ぶら志’’る丸」は空母に改造されることが決まったため
輸送任務に就いていたトラックから横須賀に戻る航海中、米軍潜水艦
「グリーンリング」の魚雷を受け、戦没したのでした。
ここでもう一度、沈み往く「ぶら志’’る丸」の絵をご覧下さい。
この絵を描いたとき、「ぶら志’’る丸」が戦時徴用船であることは知っていましたが、
この後空母に改造される予定だったとはわたしは全く知りませんでした。
舳先に立つ船長は民間人です。
もしこのまま「ぶら志’’る丸」が無事に日本に回航することができていれば、
その後は軍艦となり、大野船長はこの船を降りたはずなのです。
民間人船長として、徴用船が軍所有に変わる最後の航海で戦没した場合、
軍艦とその艦長に与えられるような死後の栄誉は与えられたでしょうか。
わたしにはそうは思えません。
「グリーンリング」の砲撃によって 「ぶら志’’る丸」は機関室が使用不能となり、
まず艦体は左舷へ傾斜し、やがて船首が45度の角度で持ち上がりはじめました。
伝わるところによると、大野仁助船長は最後の瞬間ブリッジに立って
三度「天皇陛下万歳」を高唱して万歳をしたあとまもなく、
「ぶら志゛る丸」は海中に没した、とされています。
救命ボートには乗員が全部で149名移乗し、その最後の瞬間を目撃した人々が
生還したため、その話を元に三井商船ではこのような絵を制作したのでした。
大野船長は「仏の仁助」と呼ばれるくらい 温厚な人物でしたが、トラックに
回航したとき、現地の司令官に着任の挨拶をしようとしたところ
司令官が遊びに行っているということを聞き激怒したそうです。
戦地の司令官も遊びに出ることはありましょうが、大野船長はトラック到着まで
トイレ以外はずっと持ち場を離れずに任務を果たしたばかりでした。
民間人であっても海の男の挟持を持って任務に当たったと自負すればこそ、
それに引き換え肝心の海軍軍人がそんなことでは、と憤ったのでしょう。
このとき大野船長は日頃の温厚さからは考えられない激しい調子で
「帝国海軍が日本を滅ぼすぞ」
と言い捨てたと云われています。
そして海軍との間に起こったこんな事件も大野船長の憤りを
さらにあおったに違いありません。
ルオットに「ぶら志’’る丸」が回航したとき、現地の第6戦隊から
「貴船にパンを買いにいく」
といきなり打電がありました。
「もう客船でないのでパンはない」
と返事したところ、
「貴船は客船だから是が非でも焼いて欲しい」
と食い下がられたというのです。
仕方なく「ぶら志゛る丸」わざわざは船内から小麦粉とパン焼き器を探し出し、
その無理難題に応えたということですが、そんなことのために奔走させられ、
大野船長以下船員たちの腹の中はさぞ煮えくり返ったことでしょう。
そのような扱いからは、戦時徴用された「軍属」たる船に対する、
ともに外敵に対して戦う海の同胞への敬意というものは全く感じられません。
前にも一度書いたことがありますが、一般に帝国海軍の民間船、
および一般船員への扱いは、つねに格下に対する軽んじた、
時として侮蔑に満ちたものであったといいます。
戦時に徴用されたもと豪華客船だった「ぶら志’’る丸」の船長は、
舳先に立ちながら自分の運命をどのように振り返ったでしょうか。
海軍に徴用されながら栄誉どころか敬意も払われず、護衛も付けられずに
制海権の失われた海にたった一隻でその舳先を進めていった
戦時徴用船「ぶら志’’る丸」。
日本の船として敵艦の砲撃を受け、その艦体が傾き沈んでいく瞬間、
声高らかに天皇の御名を叫びながら、もしかしたら大野船長は一人の船長として
海軍のものにならず、民間船としてのままの船と運命を共にすることを
あるいは以て瞑すべしと考えていたのではないかと思えてなりません。