ブログを開設してからもう少しで4年半が経ちます。
わたしが海軍に興味を持ち出したのとこの年月はほぼイコールですが、
いつの間にか海軍というより自衛隊と国防問題が主なテーマとなっている
当ブログでございます。
今過去のエントリを調べたところ、最初に自衛隊について言及しているのは
開設して半年後の秋。
陸上自衛隊主催による観閲式についてでした。
単にYouTubeの動画を見て、菅総理をおちょくっただけのエントリでしたが、
このエントリ作成のときには、実際にこういった行事を見に行くことなど、
まるで遠い世界のできごとのように思っていました。
ところがいつの間にか、自衛隊の中の方やら賛助団体やら、
芋づる式にご縁が(あまり適切な表現ではないかもしれませんが)でき、
自主的に参加するのは勿論、ときおりはご招待で行事に参加することが
増えて来たきたここに至って、主に「対自衛隊」としての正式な身分、
つまり「役職」=「肩書き」が向こうから歩いてやってきたのです。
社会人となっても自由業で組織に属したことがなく、
学校の委員以外は「役」というものに無縁であったこの人生において、
まさか自分が「自費製作でない名刺」を持つことになろうとは
夢にも思っておりませんでした。
そのタイトルとは、
「地球防衛協会日本支部顧問」(仮称)
地球防衛協会とは、地球の防衛意識の普及を図るとともに、
自衛隊の健全な育成発展に協力することを目的とする団体で、
その事業内容は
1 防衛に関する意識を高揚する事業
(講演会、映画会、音楽会、見学、機関紙、パンフレットの発行等)
2 自衛隊の諸行事等に対する協力
3 隊員に対する激励、慰問ならびに除隊者の就職援護
4 自衛隊関係団体の行事等に対する協力
5 地球防衛協力連合会の事業に協力
6 その他、目的にふさわしい事業
となっています。
とにかく、わたしはこのタイトルと名刺・・・はまだ出来ていないので、
「名刺を切らしておりまして」
という堂々たる言い訳を引っさげて、地方総監部に乗り込んだのでした。
その目的は・・・・、
「地方総監を表敬訪問」(T_T)v
これも4年半の読者の皆さまの御指導ご鞭撻の賜物です。
というのも、当ブログをやっていなければ、
この流れはまずありえなかったからです。
このブログを通じて学んだこと、教えて頂いたこと、
その興味に導かれるうちに、向こうからやってきた色んな偶然とご縁が、
いつの間にかわたしをこのような場所に連れてきてくれました。
面会当日、朝6時台の新幹線に乗って広島へ。
約束の20分前に呉に到着という、実にスリリングなスケジュールです。
海将との面会時間は、わずか30分と決められていますから、
万が一どこかで事故があったら、もう一巻の終わり。
しかし、この日は何事もなく、優秀なJRの鉄道は時間通りに
わたしたちを呉に運んでくれました。
何度も来ている呉駅ですが、いつもと違った眺め。
どうも改装工事中のようです。
駅構内に海曹が何人かいたので、後ろ姿を写真に撮りました。
戦前も戦後も、この駅にはいつも「海軍さん」の制服姿があります。
駅構内を走り抜けながら、色々と突っ込みどころが多い光景に
なぜかシャッターを切ってしまいました。
◎はっぴを着、うちわを腹に差したた仮面ライダー的な人形。
(このライダー、ブーメラン戦隊ジミンガーの参考にしたやつだ)
◎巨大なくまモン。ここは広島です。
駅前からタクシーに乗って、呉地方総監部に向かいます。
「関係者以外立ち入り禁止」
と書かれた立て札がありました。
非常に風情のある、古いレンガの門柱のようなものが見えるので、
もしかしたら昔は海軍関係の建物があって、現在もこの奥には
自衛隊の官舎があったりするのではないかと思われました。
車止めは左だけが稼働可能です。
などと相変わらずどうでもいいことを観察しながら、正門前に到着。
海上自衛隊呉地方総監部の金文字も重厚な門、
どうやら最近塗り替えたりしましたか?
映画などでおなじみの赤煉瓦の建物が奥に見えています。
エントランスの両側にある街灯は、実に趣のあるアンティーク。
車が止まったときから、左の、自衛隊にはどこにも同じようにある
警備隊の詰め所に立っていた海自迷彩の隊員は、こちらに注目しています。
朝霞駐屯地のように、受付で名前を書いて札を貰うのかと思ったら、
すでにそこにはわれわれの名前は告知されており、
「お待ちしておりました。どうぞ」
とだけ言われて、わたしたちは奥に向かって歩き出しました。
当時からあるらしいよどんだ色の池があります。
大きさといい形といい、なんだか意味不明な池です。
途中にあった駐車場。
ノーズに桜のマークを付けた公用車もスタンバイ中。
ー後で自分自身がこれに乗ることになるとは、
このときのわたしには知る由もなかったのであるー(ト書き)
それにしても、こちらもそれなりに古そうな建物ですね。
しかし、こちらの風格に敵うものではありません。
この建築物は何と1890年(明治23年)、海軍が呉鎮守府を
ここに置くことが決まった年に起工式を行い、
17年後の1907年(明治40年)に竣工しました。
地下1階、地上2階建て、延べ1,990?。
レンガと御影石で造られたレンガ構造物です。
外壁はイギリス積みと呼ばれるレンガの積み方で造られ、
2階には柱頭に桜を彫刻した石柱が両側に見えます。
海軍を描いた映画には時々出て来る建物で、
近いところでは
「聯合艦隊司令長官山本五十六〜-太平洋戦争70年目の真実-」
(長すぎるんだよこのタイトル)のロケがここで行われました。
その際、エキストラには海自隊員が出演したのだそうです。
http://www.mod.go.jp/msdf/kure/info/facilities/img/isoroku3_L.jpg
陸軍の兵が銃を構えるシーンが撮影されたため、やはり一般人よりも
そういう扱いに慣れている隊員が、駆り出されたということみたいです。
ところでたった今知ったのですが、海外の映画祭で上映されたとき、
この映画のタイトルは
”ISOROKU”
だったんですって。
・・・まあ長過ぎる日本のタイトルよりはましかもしれませんが。
同じ建物ですからなんら変わるところはないのですが、
一つだけ大きく違う部分があります。
そう、ファサードに取り付けられた海上自衛隊のマークですね。
昔は菊の御紋章も海軍の徴も付けられていませんでしたが、
戦後になって初めて「桜に錨」が掲げられたのです。
しかし、この平成12年の写真を見たところ、この時点でも
ファサードには何もありません。
どうやらここ最近、このマークはここに付けられたようです。
ところでなぜかネットで調べても全く出て来ないのですが、
実はこの庁舎、一度「焼失」した、とここの説明には書いてあるのです。
昭和20(1945)年7月 米軍機 呉を空襲
庁舎焼失 ドーム破壊
このようにはっきりと。
アメリカ軍は戦後の占領を視野に入れて、こういった歴史的な
洋風の建物は一切爆撃しなかった、という通説があります。
現にそのおかげで、この呉鎮守府の管轄下であった江田島の
海軍兵学校の校舎は、全くダメージを受けずに残りました。
てっきりこの庁舎もそういう配慮があったから、現在に至るまで
その姿を留めているのだ、とわたしもまた思い込んでいたのですが、
どうやらそれは違ったようなのです。
呉地方総監部が開庁したのは、サンフランシスコ講和条約で
日本が独立した昭和27年の2年後です。
大戦末期、米軍が瀬戸内海などに投下した機雷を除去する掃海作業が
敗戦後からずっと、掃海部隊等によって続けられていたので、
呉の「海軍」は常に機能し続けていたことになります。
しかしその間、この焼失&破壊された鎮守府庁舎はそのままだったようです。
改修工事が完了したのはなんと戦後54年経った
平成11(1999)年11月
でした。
ちなみにわたし以外には何の意味もない話ですが、
わたしが息子を出産したのと全く同時期のことです。
何となく縁があるように思えて、ちょっと嬉しかったりします。
もしかしたらそれまでは、さきほどの建物が呉地方総監部庁舎として
使われていたのかもしれないのですが、
何処を探してもわかりませんでした。
さて、わたしたちが建物に向かって歩き出したとき、
霧雨が降っていたのでわたしは傘を差していました。
入り口に近づくと、なんと警備から連絡が行ったらしく、
本日のエスコートをしてくれる2佐はじめ、警備の海曹たちが
整列注目しているではありませんか。
「なんだかおおごとになってるんですけど」
「・・・・傘、他になかったの」
「まずいすか」
「色がね・・」
天気予報を見て、朝適当に軽そうなのをバッグに入れた結果、
よりによって間に合わせで買った派手なピンクの傘。
傘の色くらいどうでもいいだろーと思われるかもしれませんが、
制服の自衛官たちが直立不動でこちらを見ているこの状況では、
ちょっとというかかなり恥ずかしかったです。
そう思いながらも入り口の脇にこんなものを見つけ
つい指が動いて写真を撮ってしまうエリス中尉。
ええい、自衛官の皆さんが整列してこちらを見ていると言うておろうが。
えー、これは旧海軍の砲には違いありませんが、
説明がないので何か分かりませんでした。
後ろには夜間のライトアップのためのライトが見えます。
本年4月から、ライトアップは夜10時まで毎日行われているそうです。
「どうも本日はわざわざありがとうございました」
「遠いところをよくおいで下さいました」
ご挨拶の後、2階の応接室に案内されました。
部屋に通されてびっくり。
廊下に沿って横に長く、ドアが二つあり、低い一人用ソファが
コーヒーテーブルを挟んで2列に並べられている配置。
この春、護衛艦「ふゆづき」の引渡式に出席したときに通された、
三井造船の貴賓室に瓜二つの部屋だったからです。
三井造船の迎賓館が建てられたのがおそらく1917年。
ほぼ同時期の西欧風建築においては、配置やインテリアにも
一定の法則があったものと思われました。
そしてわたしたちはあらためて2佐と海曹長に挨拶し、名刺交換の儀式を。
「名刺ができあがるのが間に合いませんでしたので・・」
名刺を頂く度、律儀に同じことを繰り返します。
そしてあらためて部屋を見回すと、そこには・・・、
聯合艦隊が開戦前の最後の打ち合わせを行った後の、
有名な記念写真が額に入れられて飾ってありました。
ここに写っているのは、有名な軍人だけでも
山本五十六
南雲忠一(山本の二人隣)
塚原二四造(南雲の右隣)
井上成美(前列右端)
草鹿隆之介(二列目左から3人目)
宇垣纏(その一人置いて隣)
大西瀧治郎(その右隣)
黒島亀人(3列目右から4番目、顔半分)
などなど。
このうち南雲忠一は、呉鎮守府の長官として、
この建物で執務にあたっていたことがありました。
また、呉鎮守府の長官として
中牟田倉之助、加藤友三郎、伊地知季珍、
鈴木貫太郎、野村吉三郎、山梨勝之進、
嶋田繁太郎、豊田副武
などの歴史に残る海軍軍人がその職を務めています。
ということはこれらの人物が生きて歩き、座り、日本の
戦況について語ったのであろう全く同じ空間に(改装したとはいえ)
今、わたしは時空を超えて存在しているということなのです。
夏前に陸上自衛隊の駐屯地を訪問しましたが、そこは全く
「戦後自衛隊」そのものでした。
敷地内の記念館や当時の池など、旧陸軍のゆかりも勿論あるのですが、
それはあくまでも史跡として残されているのみ。
江田島の幹部学校も、この後訪れた呉音楽隊も、ここ地方総監部も、
(横須賀の米海軍もそうですが)旧海軍の建物をそのまま維持し、
しかも現在も機能し続けているのです。
この歴史的な建物で行われた、わたしにとって初めての正式な表敬訪問は、
海上自衛隊がまさに「海軍の末裔」であることをあらためて思わせました。
続く。