前回最後のお話ししたPS-1は、対潜哨戒機という用途でありながら、
肝心のレーダーにおいて採用した手法が陳腐化していたため、
大量導入されず、そのうち技術が進歩して航空機にレーダーを装備する
ことができるようになったため、その役目をP-3Cに譲って姿を消しました。
しかし、新明和はPS-1の製造打ち切りに先立って、この機体を改良し、
救難救助艇として開発することを決めていました。
新明和は自社の飛行艇製造の歴史をつなぎとめ、
「エミリーの系譜」を後世に伝えるべく方向転換を図ったのです。
そして、その結果生み出されたのが日本初の水陸両用飛行艇、
「US-1型救難飛行艇」でした。
対潜哨戒を目的とされたPS-1との大きな違いは、
水にも陸にも降りられることでした。
救難が目的なので、陸に降りられること(医療機関へのスムーズな搬送が可能)が必須だったのです。
US-1開発に当たってはランディングが可能な脚を取り付けることが、
なんといっても大きな山となりました。
技術者は足の形状と取付け部分についての試案を数十通りも出し、
苦心の末、ランディングギアと、それを収納するバルジを開発し、
1974年には試飛行を完成させます。
そしてその努力実って1975年に防衛庁の納入をすることになったとき、
公開飛行をしたパイロットは関係者の前でエプロンを「脚を出したまま」低空飛行しました。
「皆の苦労の結晶であるこの脚を見てくれ」
と言わんばかりに。
技術者がそれを見て胸を熱くしたのはいうまでもありません。
通常の任務では、出動要請を受けたUS-1は
P-3Cなどの哨戒機とペアを組んで基地を出発、
現場で救助対象を特定すると、それをカメラで撮影し基地に送ります。
同時に目印のマーカーを海面に投下します。
US-1の利点は海上は勿論のこと、
飛行場のない離島にアクセスできること、
さらにヘリコプターよりはるかに長い航続距離、
(我らがエミリーが長い航続距離で米軍を驚かせたことを思い出してください)
そしてヘリや船舶よりも圧倒的に速いことです。
US-1が防衛庁に納入された次の月の1976年には、
海上自衛隊の救難飛行艇部隊、第71航空隊が新編されました。
そして開隊からわずか2週間後、救難第一号となったのが、
右手首を切断したギリシャ船員の救助でした。
それから数えきれないほど貴重な人命の救助に、
時には自らの危険も顧みず携わってきた第71航空隊、US-1。
世界中が報道した、(しかし日本ではほとんどニュースにもならなかった)
第71航空隊救難艇のある救出劇を書いておきます。
1992年1月。71空は
「米空軍戦闘機が銚子東方海上で墜落した」
との知らせを受け、出動します。
墜落機はF-16ファイティング・ファルコン戦闘機。
現場では遭難したパイロットはパラシュートで脱出後、
ラフト(小型浮船)で漂流中でした。
パイロットは米空軍のジョン・ドラン大尉。
三沢からハワイに向け飛行中にエンジントラブルに見舞われ、
イジェクトしたものです。
ドラン大尉はまだ28歳で、子供が一人。
妻のお腹の中には当時赤ちゃんがいました。
万全の準備を整え、遭難海域に到達したクルーは、
荒れる波の合間に、わずか10分でラフトを発見しました。
スモークを投入後、US-1がバンクをしながらラフトの上を
超低空でパスすると、ラフトの中からこれに応えて
手を振っているのが見えました。
着水し、激しい動揺の中、機上救助員がボートに乗り込み、
ドラン大尉を引き上げ、機内に収容し、離水。
この間、わずか20分ジャスト。
この時のストーリーは、アメリカのエア&スペースというHPで
観ることができます。
when he was barely conscious,
Dolan saw a large, four-engine aircraft
—a ShinMaywa US-1A bearing the Rising Sun
of the Japanese military—slowly circling his raft.
意識ももうろうとして来たとき、
ドランは巨大な、四発エンジンの飛行艇を見た。
―日本軍の日の丸を帯びた新明和US-1Aが、
ゆっくりと旋回しながらラフトに近づいてくるのを。
“From ejection to rescue was a whole series of miracles.”
No other aircraft in the world inventory
could have gotten to him in time in the sea conditions
he was experiencing.
「脱出から救助までは奇跡の連続だった」
あの状況下で時間内にかれを救助できたのは世界中の全ての種類の
航空機を探しても有り得なかった。
この救出に対して、US-1A9081号機のクルーに米空軍から勲章が授与され、
勲章授与式でドラン大尉と隊長の喜田秀樹三佐は固く抱き合いました。
今日に至っても彼らの交流は続いているそうです。
ちなみにこの英語サイトでは二式大艇の歴史にさかのぼり、日本の
飛行艇製作技術について詳しく述べられています。
さて、話はいきなり先日のニュースに飛びます。
政府が、海上自衛隊に配備している水陸両用の救難飛行艇
「US−2」をインドに輸出するための手続きに着手したことが
23日、分かった。
インドは日本側に救難活動や海賊対策で
US−2を導入する方針を伝えてきており、
製造元は現地事務所を設け、インド政府との交渉に入った。
US−2は機体から特殊な装甲や電波などによる
敵味方識別装置を外せば「武器」とは認定されないが、
自衛隊が運用する航空機だとして輸出はタブー視されてきた。
だが、一昨年12月の武器輸出三原則の緩和で
「平和貢献・国際協力」に合致するものであれば
「武器」も輸出を容認したことに伴い、政府はタブーを取り払い、
防衛産業の発展と防衛費の効率化を図る。
輸出にあたり、製造元の「新明和工業」(兵庫県)は
防衛省以外に納入するための
「民間転用」の手続きをとる必要がある。
インド政府は3年ほど前から日本政府に
US−2を購入したいとの意向を伝えていた。
昨年6月に海自とインド海軍が相模湾で初めて共同訓練を行った際、
海自はUS−2も投入、
インド海軍幹部は性能の高さを直接確認したという。
冒頭写真はエリス中尉が昨年参加した観艦式でのUS-2の勇姿。
このときはなぜか海面着水はしませんでしたが、別の日の訓練展示においては、
この巨体がわずか数秒で軽々と海上に浮き上がる様子に、観客の嘆声が飛んでいました。
「その気になれば不忍の池にも着水できる」
というこのUS-2、開発名称US-1改。
改、はそのまま「KAI」と読みます。
まさにその昔川西航空機が生んだ紫電「改」の改です。
この「改」造にあたって、新明和は
「離着水時の操縦性改善」
「搬送者の輸送環境の改善」
「洋上救難能力の維持向上」
という、新開発をするにも等しい苦労を重ねたそうです。
そして8年の開発期間ののち、2003年に完成したUS-2は、
世界のどこにもない性能を持つ飛行艇として、
今やあちらこちらから熱いまなざしを向けられているということです。
そして、武器輸出三原則の緩和後、初めて日本から海外に輸出される運びとなり、
その第一号がこのインドへの輸出となったわけです。
ところで先日安倍総理が戦没者慰霊のために父島を訪問しましたが、
それを報道するこのyoutube画像をぜひ見ていただきたいと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=t55z4GYhx18
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20611477
総理はこのUS-2に乗って父島まで行きました。
冒頭着水から滑走、スロープを上って地上に上がるまで、
結構長時間にわたって観ることができます。
ニコニコ動画のアカウントをお持ちの方は下をどうぞ。
US-2のシーンでコメント欄が「二式大艇だ!」と大騒ぎになっています(笑)
この飛行艇の人気がおわかりになるでしょう。
二式大艇、エミリーがこの世に生まれておよそ70年後。
戦火の中に生まれ、戦闘のために飛んだ偉大な彼女の系譜は、
彼女を愛した技術者たちの手によって人の命を救うための救難飛行艇、
US-2に姿を変えながら、その栄光の血脈を受け継いで今日に至ります。
参考
Air & Space
http://www.airspacemag.com/military-aviation/giant_amphibian.html
新明和工業株式会社ホームページ
http://www.shinmaywa.co.jp/guide/us2_history05.htm
帰ってきた二式大艇 碇義朗 光人社
産経新聞ニュース