旧海軍兵学校の生徒たちを乗せたバスは、
大和ミュージアムから一路旧海軍墓地に向かいました。
海軍墓地は明治22年7月1日、呉鎮守府開庁に伴い、
戦没などによる海軍軍人ならびに軍属の埋葬地として、
翌年の明治23年に、用地8,503坪を海軍が買収して設置したものです。
戦前戦中は毎年一回秋に慰霊祭が執り行われてきたのですが、
大東亜戦争終結により廃止になってしまいました。
終戦直前の7月には戦災に遭ったうえ、終戦後の9月に台風がこの地を襲い、
無惨に荒れ果てていたのですが、その後復員局や有志、近隣の人々、
団体などの奉仕により、修復と清掃、そして供養は絶やさず続けられたのです。
昭和46年には「呉海軍墓地保存協力会」が組織され、
それからは環境整備と慰霊の式典が欠かさず行われることになりました。
パンフレットより、綺麗に虹のかかった海軍墓地。
周囲には普通に民家が建ち並んでいますが、
ここに住む人たちは昔から海軍墓地への清掃奉仕などを
地域の取り組みとしてずっと続けて来られたということです。
墓石、慰霊碑は、整地された傾斜の石段に並び、
坂を頂上に向かって上がっていく道沿いにそれらを見る形です。
わたしもこの道を上ってみましたが、非常に整備が行き届き、
墓石慰霊碑が整然と斜面に並ぶ様は、いかにも整理整頓規律を重んじる
旧海軍の墓地に相応しいと、妙に納得してしまいました。
パンフレットで知る処によると、平成9年から3カ年計画で
整備を施し、擁壁の石積みと参拝道があらたに拡充されているそうです。
現地に着いたら、バスから公園内にある建物に案内されました。
入り口で配っているのは冷たい缶コーヒーです。
事務所に併設された展示室では、この墓地に慰霊碑のある
軍艦の写真が壁の一面に貼られていました。
反対側の壁には開戦時の艦隊編成が毛筆で書かれた巨大な紙。
よくぞ筆でこれだけ狂いなく全艦隊の艦船名を書けたものです。
貴重な当時の写真も。
これは宮崎県で昭和16年に行われた「日本最後の特別大演習」。
おそらくこの海軍墓地に墓石がある戦死者でしょう。
葬儀のときの様子、嶋田繁太郎や古賀峯一から寄せられた
弔辞とともに、海軍旗の前に置かれた水兵帽、
寄り添うように置かれた桜の花・・。
なぜか本人の遺影はどこにも見えませんでした。
全員が集まったところで、当墓地の係員であり、どうやら今回訪れた
兵学校生徒と同期であるらしい方が、
(わたしも明日江田島に行きます、と言っていた)解説を始めました。
当墓地の来歴に始まり、ペリリュー島の慰霊、そこでの戦いの逸話など。
ペリリューでの激しい戦いは、スピルバーグが監督をしたテレビ番組
「ザ・パシフィック」でも描かれていましたが、アメリカ軍の戦死者は
1,794名、負傷者の8000人余り、精神に異常を来したもの数千名。
日本軍は戦死者 10,695名、捕虜202名、生存者、34名。
「どちらの国にとっても意味のない戦いだった」
と解説の方は言いつつ、前にここでも書いたこの話をしてくれました。
【日本兵と親しくしていた島民たちが、戦況が日本に不利となってから、
「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが、
「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と一蹴された。
日本人からそんな目で見られていたのかと落胆しつつ、
船に乗り込んだ島民たちが島をいざ離れるときに見たのは、
その隊長を含め手を振って浜へ走り出てくる日本兵の姿だった。
彼らはその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。】
この話は、船坂弘の著作「サクラサクラ」に書かれたもので、
信憑性については定かではありませんが、いずれにしても
この逸話は、これだけ激しい戦いがありながら現地人の被害が
僅少であったことをあらわしています。
これもかつてお話ししたことのある、チェスター・ニミッツの言葉の碑。
日本軍の洞窟陣地は次々と陥落され、更に食料や水もなくなります。
ついに司令部は玉砕を決定、幹部が割腹自決した後、玉砕を伝える
「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝「万歳突撃」が行われました。
ニミッツの碑についても解説がありました。
「敵将がこのような言葉で我が軍の犠牲を称えてくれています。
『 旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし。
ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』」
「英国水兵の墓」についての説明もありました。
1907(明治47)年、香港駐在の英国船「アラクリティー」が
戦艦「安芸」進水式に参列のため呉に回航中、その2ヶ月前に
乗り組んだばかりの18歳の2等水兵、ジョージ・ティビンスが
宮島沖を航行中海中に転落し、そのまま行方不明になりました。
日本政府と海軍は、後日見つかった水兵の遺体を
この海軍墓地に礼式に準じて葬ったのですが、その十字架を
戦中、心ない者が「敵国兵の墓だ」と損壊したため、
海軍は墓を鳥かごのようなケージで保護しました。
現在もそれは、そのまま歴史を語るものとして残してあるのです。
ここには日英同盟100周年の記念樹もあり、英国からは
駐在武官や国会議員などもしばしば訪れます。
ある国会議員が数年前に訪れたとき、英国水兵の墓の説明を聞いた彼女は
涙を浮かべて
「Thank you bery much indeed!」
と繰り返し礼を述べた、ということでした。
戦後の海軍墓地の慰霊は、戦友会、墓地顕彰保存会などが中心となって
絶えることなく行われてきましたが、慰霊祭は必ず自衛隊が執り行います。
海上自衛隊は海軍の血を濃く受け継ぐと自負するが故、
先達の慰霊には必ず海軍の礼式を以てこれを鎮めることになっているのです。
海自は、たとえば練習艦隊がかつての激戦地を航行する際には、必ず
洋上で慰霊祭を執り行うのですが、去年の11月、フィリピンの台風被害に際し
緊急援助活動のため派遣された護衛艦「いせ」の甲板では、
ご覧のようにレイテ湾において洋上慰霊際が行われたようです。
当ブログではこの派遣に際し「戦艦伊勢の物語」という一項を
この派遣部隊の活躍に対してアップさせていただいたのですが、
そのときに、
瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田という空母が一度に失われるというこの海戦で、
「伊勢」は敵航空機の集中攻撃を「弾幕射撃」と操艦で悉くかわしただけでなく、
戦闘の最中にエンジンを止め、
海面に漂流する「瑞鶴」の乗員を救助しているのです。
という風に、レイテ湾沖の戦いについて、つまり同じ名前を持つ
護衛艦「いせ」が、戦後の永きを経て今、人命救助の尊い任務を帯びて
そこにあることの因縁についてお話ししました。
海自の派遣部隊はその海で洋上慰霊祭を行い、先達の霊を顕彰したのですが、
そのときの様子を記した写真が、ここ海軍墓地に奉納されていました。
年に一度、秋分の日に行われる海軍墓地の追悼式は、
「合同」と銘打って、ここに弔われる全ての海軍軍人たちの霊、
そして一人の英国軍人の鎮魂を行います。
先日表敬訪問をさせていただいた呉地方総監も、
着任して最初の海軍墓地追悼式において献花を行っておられました。
にこやかで闊達、ユーモアたっぷりにお話していたあのときとは
全く違う、厳粛で儼乎たるご様子です。
海軍墓地での追悼式典は、海上自衛隊呉地方総監部に取って
大変重要な任務であるということなのでしょう。
こういった公式の行事のほかにも、自衛隊員はここでの
清掃奉仕なども定期的に行っているそうです。
解説を聞いた後、少しの自由時間があり、一行は集合写真を撮りました。
しかし、
♪ わたしを~お墓の前で~探さないで下さい~
そこに~わたしは~いません~写ってなんか~いません~♪
そう、この瞬間、不肖エリス中尉、後方に見える墓地の斜面沿いに付けられた
参道を、一つでも多くの碑を写真に収めるべく
全力疾走していたのでございます。
というわけで、次回、その碑石の写真を中心にお送りします。(ぜいぜい)
続く。