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海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「海軍生徒の墓」

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今回、この海軍兵学校生徒だった80歳台の「元青年」たちと
一泊二日の行程を共にして彼らを見て思ったのは、
本当に人間、80年も生きていると足腰がまず弱るということです。

かつて江田島でカッターをこぎ、棒倒しに水泳に武道と、
若々しい肉体を謳歌していた同じ人々が、杖をついていたり、
車いすだったり、一人で歩けても足元がおぼつかないのが殆どで、
たまに普通に歩いている人がいると目を引いてしまうくらい。

全員の移動はですから大変時間を要するものになりましたし、
ここ海軍墓地で、小高い斜面沿いの参道を上がろうとする人はゼロでした。

もっとも、その夜行われた懇親会で聞いたところによると、
この学年の同期の半分がすでに物故したとのことで、
つまり今ここに来て歩いていられるだけでも、同期生の中では一握りの
「健康優良爺」(けんこうゆうりょうじ)であるということになります。



わたしは皆が集合写真を撮り、全員がバスに乗り込むまでの時間、
意を決して斜面を駆け上がり、ほとんど小走りに移動しながら
碑石を写真に納めてきたわけですが、そんなことができるのも
まだ若く健康な肉体を持っているからだと、墓石に近づくこともままならず
ふたたびバスに乗り込む元海軍生徒を見てあらためて思いました。


さて、冒頭写真は軍艦日向の慰霊碑。
昭和44年に建立されました。
ここにある碑は一部を除いて、戦後、生存者や遺族ら有志が
建てたものが殆どです。



航空母艦「信濃」の碑。
「呉と海軍墓地」という当地で配られた小冊子には、「信濃」について
幾ばくかの記述があります。
それによると・・・・、

「信濃」は「大和」型の三番艦でしたが、ミッドウェーで空母を
4隻喪失した海軍は、これを急遽空母として建造しました。

横須賀空襲が想定されたため、建造の途中で呉に回航したのですが、
その途中、米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷を受け沈没しました。

乗員1965名のうち885名が死亡。
生存者は戦後ここに白木の墓標を建てましたが、その後
有志の協力によりこの碑が建立されました。 



空母「雲鷹」の碑。
「雲鷹」は、日本郵船の客船「八幡丸」を改造した空母でした。
1944年、船団護衛任務の途中で、米潜水艦「バーブ」の魚雷により
撃沈されました。
艦長の木村行蔵大佐も戦死しています。

碑石の揮毫は、

「参議院議長 徳永正利」

となっています。
徳永正利は日本遺族会の議長を務めていました。



「男たちの大和」をご覧になった方は、この「大和の碑」が
映画のシーンに登場していたのを覚えておられるでしょうか。

 

ひときわ立派な自然石を使った碑の根元には、
在りし日の大和の姿が写真に刻まれています。
飲み物が二本供えられていますが、遺族が訪れたのでしょうか。



大和の死者は2736名。
「大和」とまさに運命を共に、水漬く屍となって散華しました。

大和の生存者で作った「戦艦大和会」の会長だった
細田久一氏は、いつも口癖のように

「私だけが生き存えて申し訳ない・・・命ある限りは」

と沈痛な面持ちで語り、やはり生存者の石田直義氏と二人で、
毎日のように墓石の管理をし、毎年4月7日には欠かすことなく
慰霊祭を主宰していたのだそうです。

細田氏が亡くなった後は、世話人会が遺志を継いでいます。



戦艦「伊勢」の碑。
「大和ミュージアム」に、米航空機に停泊中攻撃され、
着底してしまった姿が大きなパネルにされていましたね。



これです。
「音戸沖」とありますが、今回のツァーでは「音戸海峡」を渡ってきました。 



その向こうに見えていた重巡洋艦「鈴谷」の碑。
ミッドウェー海戦のときに『鈴谷」艦長であったのは、
キスカ救出作戦で有名になった木村昌福大佐でした。
沈没を免れたフネが「熊野」の「我に続け」の信号を揚げ西進離脱する中、
「鈴谷」だけは「我機関故障」と伝達して、艦長独断で「三隅」の生存者の
救出に向かったという経歴を持ちます。

「鈴谷」は1944年10月のレイテ沖海戦で米軍機の攻撃により航行不能になり、
「雪風」「沖波」が見守る中、沈没しました。

生存者はこのあと総員「雪風」らに救出されたものの、
戦死、行方不明者、合わせて654名となっています。

 

軽巡洋艦「天竜」の碑。
第一次ソロモン海戦にも参加した小型の軽巡で、
1942年、マダン上陸作戦のときに米潜水艦アルバコアの雷撃を受け
沈没しました。 



特務艦「間宮」戦没者慰霊碑。
給糧艦であった「間宮」では18,000人の3週間分の食料補給、
艦内での加工食品の製造などが可能でした。

そんな給糧艦であらば、もしものことがあった場合、
前線の将兵たちに与える士気の低下は計り知れないものがあることから、
駆逐艦も厳重に援護を行ったといいますが、
防御機能がその分食料の搭載に回された給糧艦は狙われやすく、
1944年、「間宮」は米潜水艦「スピアフィッシュ」の雷撃により戦没しました。

 

軽巡洋艦「阿賀野」慰霊碑。

ミッドウェー海戦を経て、日本が戦況のターニングポイントを過ぎた頃、
「阿賀野」 を旗艦とする水雷戦隊、第十戦隊が組成されました。

しかし 軽巡洋艦が水雷戦隊を駆使しての戦闘はほとんどなく、
最前線で戦う機会は訪れませんでした。

1943年、輸送任務についていた「阿賀野」に、ブーゲンビル島沖海戦への
出撃が命じられますが、「阿賀野」は米潜水艦「スケート」の魚雷を受け、
阿賀野型軽巡の最初の戦没艦となってしまいました。


”水雷戦隊旗艦として建造された阿賀野型軽巡洋艦は、
結果的にその本領を発揮する場を与えられず、相次いで戦没することとなった。
その高性能とは裏腹に時代に合わぬ用途を背負わされてしまった艦の悲劇とも言える”
(Wikipedia)


写真を見て初めて気づいた、海軍生徒の墓。

兵学校在学中に死去した人たちということになります。
手持ちの「海軍兵学校沿革 海軍兵学校編」で調べたところ、
右の二つの墓石の主は、いずれも明治41年に死去しています。
このことから、明治40年入学の第38期生徒を探したところ、
ドンピシャリで「柏原静登生徒」、続いて36期に「飯島清生徒」が
在籍していることが分かりました。

学校史によると、 このころ(明治41年)、校長は島村速雄少将、
11月17日には

「成績優秀にして学術優等章を受けたる者」
「品行善行章を受けたる者」 

のどちらにも、井上成美という名前が見えます。 

同年9月23日、墓石にも書いてあるように、

「第39期生飯島清呉海軍病院にて死亡す」
(25日午後三時呉海軍練兵場にて海軍葬儀教官は
過半生徒は特殊の代表者54名会葬)

さらには9月27日、

「飯島清死亡に付きその補欠として愛知県平民
三輪成美入校す」

とあります。
生徒が一人死亡したからと言って補欠を入学させるとは・・。
入学した方もなんだか複雑な気持ちにならなかったでしょうか。


そして、12月22日、

「第38期生柏原静登大阪府下浜寺に転地療養中死亡す」

とあります。
このころの青年の死亡原因はその殆どが結核だったのです。
そして12月30日、

午後4時故生徒柏原静登の海軍葬儀を江田島教法寺に於て執行、
(呉海軍墓地埋葬)

となっています。 


兵学校在学中の病没や事故による殉職を逃れたとしても、
戦線に赴き大半が戦没してしまった学年もありました。

兵学校に在学中戦争が終わったこの期生は、辛うじて戦線に往くことなく
戦後の平和と日本の繁栄を享受し、その半数が齢80を半ばも越すまで
元気で過ごすことができたのです。

まことに人の運命とは紙一重だと思わざるを得ません。
 



続きます。


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