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海軍兵学校同期会@江田島~呉海軍墓地「大東亜戦争と太平洋戦争」

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在学中に終戦を迎えた兵学校の最後の同期会旅行に同行し、
そこで見たことをご報告しています。

大和ミュージアムに続いて訪れたのは呉市長迫町にある、
呉海軍墓地でした。
ここには明治年間からの慰霊碑が11、個人の墓が158基、
そして戦後になって建立された慰霊碑が90あまりあります。



墓地の正面にはこのような案内板があり、何処に何があるか
示してくれていますが、個人の墓に関しては資料は出しておらず、
たとえば佐久間大尉の墓にお参りしたければ、事務所で場所を聞かねば
どこにあるかはわかりません。

これは、ここに顕彰されているのが我が国の繁栄、安泰を祈願して
悠久の大義に殉じた海軍軍人戦没者の英霊、御霊であり、
その魂に上下はないという考えから来ているものと思われます。

艦艇艦船のみならず陸上部隊や航空基地、事変や事故による犠牲者、
このような戦没者を合わせると13万余の御霊が祀られていることになります。 



階段を上がっていったところに見えるひときわ大きな碑は

「大東亜戦争戦没者之碑」。

昭和22年に戦後初めて建てられた慰霊碑です。
碑にはそのように書かれているのですが、案内板にはなぜか

「太平洋戦争の碑」

と記されています。
呉海軍墓地は、明治23年(1890年)に海軍軍人の戦没者、殉職者の埋葬地として
建立され、以来、海軍呉鎮守府の管理のもと、毎年、
慰霊祭が丁重に行われてきましたが、我が国の敗戦により
慰霊行事は総て廃止となってしまいました。

折からの台風の被害と相まって荒れ果てていたこの墓所を、とにもかくにも
再生し、「大東亜戦争」戦没者の慰霊碑を建てたのですが、
その後日本を席巻した贖罪史観のせいで「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と
言い換えることが無言の圧力の結果浸透してしまいました。

碑銘が「大東亜戦争」なのにもかかわらず案内板の表記が
「太平洋戦争」となっているのはこの風潮に対する配慮かと思われます。

碑文の揮毫は戦艦「大和」の艦長も務めた森下信衛。

天才的な操艦技術を持っていたと言う森下は坊の沖海戦、
即ち大和特攻にも参謀長として乗っており、そのあまりの格好良さに
最近はイラスト業界を中心とする神格化現象もあるくらいです(笑)

森下は大和沈没後、気を失って海を漂っていたところを救出された、
数少ない将官クラスの生存者で1960年まで健在でした。


画面右下に見える小さな石碑は

「大東亜戦争海軍戦没者柔道部員の碑」

です。



ここにはその他にも

「呉所管海軍看護合同碑」

とされている、「呉所管看護長・看護師・看護手・看護」の
慰霊碑があります。
「看護婦」という書き方は当時からこのような場合には
行われなかったのでしょうか。




「軍艦高砂戦死下士卒墓」

この慰霊碑も明治年間に建立されたものの一つ。
防護巡洋艦「高砂」は日清戦争後に日本が英国から購入したもので、
旅順攻略作戦、黄海海戦にも参加しています。

1904年、旅順港で哨戒中触雷し、副長以下273名が戦死。
なぜここに「下士卒」の慰霊碑しかないのかは謎です。



「軍艦吉野戦死者之碑」

これも戦前(昭和13年)に建てられました。
「高砂」とは同じ設計者のイギリス製でこれも防護巡洋艦です。

日露戦争時、濃霧の中「春日」と衝突し、艦長以下360名が犠牲になりました。
僚艦同士の衝突事件ではありますが「戦没」扱いになっています。

ちなみに、イギリスから回航時の「吉野」には秋山真之も乗り組んでいました。
「坂の上の雲」でも確か描かれていましたよね。



「駆逐艦早蕨(さわらび)殉職者之碑」

戦前建立の碑が続きます。

「早蕨」という駆逐艦の名前をわたしも初めて知ったのですが、
若竹型駆逐艦の8番艦として1923(大正8)年建造されたものの、
昭和7年台湾海峡付近を荒天下航行中、行方不明になりました。

重量を追加されトップヘビーで複元できなかったための
転覆事故だと見られています。



個人の墓だと思うのですが、不思議だと思いませんか?
「旅順港沖強行封鎖中」ということは、閉塞作戦のことだと思うのですが、
戦死の年月日が明治37年12月13日なのです。

旅順港閉塞作戦の第一次行動が行われたのは明治37年2月。
第三次作戦は同年5月2日です。

12月13日というのは作戦が終了して半年以上経っています。

この三次作戦ではロシア軍の陸上砲台からの攻撃を受け、
多数の将官下士官兵が亡くなっているのですが、もしかしたら
この作戦時行方不明扱いになっていて、12月になってから遺体が見つかり、
このときを以て戦死と認められた乗員だったかもしれません。

墓碑の戦死者氏名を写真に撮っていれば調べられたのですが・・。




日米戦争の転換期となったミッドウェー海戦では、日本軍は
4隻の航空母艦を喪失しました。
その一つが「加賀」です。
この個人墓石の主は「加賀」の機関長であったようで、ということは
海軍機関学校を卒業した士官であったということになります。

このときの同期会は舞鶴、つまり機関学校のコレスも一緒でした。
兵科士官と機関科士官の間には「機関科問題」と呼ばれる
根深い対立の構図があったわけですが、機関科士官の不満の一つに

「艦上勤務が機関長どまりであることから、
乗艦の際に号笛の栄誉が受けられない等の礼式上の格差」

があったこと、というのがありました。

この日同期会を行った学年は人数が多く、いくつかの分校に
分かれていたせいもあり、戦後の集まりにおいても
舞鶴(機関学校)もその一つという風に捉えていたのか、
少なくとも「機関科問題」は全く影を落としていないようでした。



殆ど参道を走破しながらシャッターを押していたので、
いい角度を探して写真を撮ることがこの辺になると全くできていません。
分かり難いのですが

「軍艦衣笠慰霊碑」。

青葉型重巡洋艦の2番艦です。
開戦から約一年後の1942年11月行われた第三次ソロモン海戦で
空母「エンタープライズ」の艦載機の攻撃により沈没。

艦長始め511名が戦死しました。



その「青葉型」一番艦の重巡「青葉」。

「青葉」はルソン沖で潜水艦の攻撃により大破し、
曳航されて呉に繋留され、防空砲台として使われていたのですが、
昭和20年、終戦まであと三週間というときに空襲を受け
呉沿岸で大破着低しました。



「軍艦矢矧殉職者之碑」。

軽巡洋艦「矢矧」は前回お話しした「阿賀野型」の3番艦です。
坊ノ岬沖海戦において大和と運命を共にしたフネなのですが、
この慰霊碑は意外なことに大正9年の建立となっています。
調べたところ、その「矢矧」ではなく、
明治45年に建造された「筑摩型防護巡洋艦」の「矢矧」でした。

しかし、「矢矧」が大正9年ごろインド洋の通商保護任務にあった、
ということしか今回はわかりませんでした。
その間乗員が多数「殉職」するような事故があった筈なのですが・・・。



第15駆逐隊 夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎慰霊碑

開戦時第二水雷戦隊の編成によると、「陽炎」は最新鋭駆逐艦で
第18駆逐隊所属だったのですが、ルンガ沖夜戦のときから
「陽炎」は15駆逐隊に編入されました。
(一つだけ名前が『潮』でないのはそのためです)

戦後の自衛隊潜水艦の命名は駆逐艦隊からきていたのですね。 




大東亜戦争においては南洋諸島防衛を目的に編成された艦隊、
それが第4艦隊でした。

この慰霊碑も実は戦前に建てられたものです。
この「遭難殉職者」が何を意味するかと言うと、有名な

「第四艦隊事件」

事件などというから何事かと思ったら、これ単なる

台風の被害

のことなのです。 

つまり昭和10年の台風の際引き返すことをしなかった艦隊の
全艦艇が何らかの損害を受けたという「事件」という扱いです。

この「事件」以降の艦艇設計の思想に大きな変更があった、
というくらいの大きな損害で、沈没・転覆したフネはありませんでしたが、
「初雪」はこのときに艦首を切断され、54名が殉職しています。

この慰霊碑は、その54名の殉職者のためのもので、
事件から1年後の昭和11年11月に建立されました。



さて、ここまで写真を撮りながらきましたが、窺うとすでに全員が
バスの中に戻っていった様子です。
上の段には今までお話しした倍くらいの墓石や碑がありましたが、
今日はここまで、とあきらめ、車に戻りました。

すると、戦艦「大和」の碑の前でかつての生徒が
写真を撮り合っている様子が目に入りました。(冒頭写真)

彼らは在学中に終戦になったため、実際の艦艇には
練習艦でしか乗艦していません。
それでも練習艦から「大和」を目撃し、70年経った今日も
その威容をはっきりとまぶたに留めているのだ、と彼らの一人は語りました。



続く。





 




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