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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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日系アメリカ人~442部隊・「アメリカによる」ダッハウの虐殺

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歩兵第100大隊は442部隊に編入され、イタリアのヴェルベデーレの戦闘に
参加しました。



なんと、従軍牧師も日系アメリカ人のようです。
イタリアのオーチアーノで行われた礼拝。
この24時間後には彼らは戦闘に入り、何人もの命がそこで失われました。



イタリア人の捕虜を引率して歩くサム・ヨシハラ。



左からウォラース・ヒガ、ジェームス・イシモト、ジツオ・コガ。
イタリアの山中で、迫撃砲を敵に向けてセットしているところ。 



「想い出のアルバム」的なもの。
皆が洗濯や掃除をしている写真のキャプションには

「いつも掃除ばかり」

と書かれていて、これはもう日本人のDNAなんだとおかしくなります。



戦後になって明らかにされた話ですが、442部隊隷下の野戦砲兵大隊が、
ドイツ軍との戦闘の末、ダッハウでユダヤ人強制収容所を発見しました。



実際に解放を行ったのは彼らではなく、白人の部隊です。
日系人部隊は、そこに至るまでの掃討作戦でドイツ軍を倒しました。



因みにこの収容所でもガス室によるユダヤ人の殺戮があった、
と陸軍は発表していますが、実際にはガス室はダッハウにはありませんでした。

ユダヤ人の大量な死亡の原因は殆どが餓えとチフスによるものです。



本当の虐殺はアメリカ人の手によって行われました。

アメリカ人部隊はダッハウに乗り込み、所長を始めとするドイツ軍人を
拷問・リンチの末裁判なしの処刑によって多数を殺戮し、これは

アメリカ陸軍によるダッハウの虐殺

という事件になっています。
日系人部隊は、勿論この虐殺には参加していません。

アメリカがこの事件を糊塗するために言い出した「ガス室」が、
戦後一人歩きし出して事実化した、という疑いもあるのです。



彼らがダッハウ付近の戦闘によってドイツ軍を駆逐したことは
戦後長らく秘匿されていました。
このことが明らかになったのはなんと40年経った、1992年、
ジョージ・W・ブッシュ政権でのことです。



終戦後、イタリアでリー将軍の閲兵を受ける442並びに100大隊。
彼らの持つ旗には

「GO FOR BROKE」

という彼らのモットーが書かれています。
意味は「やるしかない」「撃ちてしやまん」といったところでしょうか。
文法的に全く間違っているのですが、これは日系人の「ピジン原語」で、
賭けのときに

「やるっきゃない!」「全財産突っ込め!」

といったニュアンスで使われた言葉なのだそうです。


 

U.S.O、というのは横須賀の米海軍ベースツァーに参加したときに

United 
Service 
Organizations

米軍内部へのサービス組織であることを知りました。
いやー、本当に見学したものが知識となって役立ってます。

この「ウソ」が、なぜハートマウンテンの収容所にあるかというと、
それだけこの収容所には出征兵士が多かったということでしょう。
なんと、強制収容所の中に、米軍軍人用の施設を作っていたってことなんですね。

軍人の家族もこのサービスを受けられるということで、
彼女だか奥さんだかも、喜んでその恩恵に浴しているところです。

米軍軍人になったとたん、扱いがガラリと変わったということですが、
しかし、そこは依然として鉄条網に囲まれた強制収容所の中なのです。


なんという皮肉な特権なのでしょうか。



日系二世のWAC(女性兵士)もいました。
ミネソタのフォートスネリングで、和やかなひとときのワックたち。



「アメリカの勝利のために」志願した日系アメリカ人たち。
レイを首からかけているのはハワイ出身でしょうか。



しかし、彼らの多くが戦いにたおれました。
イタリアで戦死したカズオ・マツダ軍曹に贈られたメダルを
スティルウェル将軍から掛けられているのは、妹のメアリー。



ハワイから出征した歩兵第100大隊の兵士も多くが戦死しました。
しかし、彼らの戦闘の証は、多くの差別的な法律の撤廃の動きを
加速させる結果となります。

まず、アメリカ国籍が取れなかった彼らの両親たちが、
アメリカ市民になることが出来たのです。



強制収容所の中で何度も行われた「おなじみの」光景。
442大隊で出征し、名誉の戦死を遂げた息子に、
オナーメダルと共にその報せを持ってやって来る陸軍軍人。

リサク・カナヤ夫妻に、従軍牧師であるオールズ大佐が
シルバーメダルを授けています。



彼らの息子、ウォルター・E・カナヤ上等兵は、
1944年10月17日、フランスのブリュイエールの戦いで戦死しました。

この戦闘でドイツ軍からブリュイエールを解放した442部隊への
感謝の式典は今日も続けられ、村には「442大隊通り」があるそうです。

オールズ大佐が強制収容所にメダルを持ってやってきたのは、
終戦後の1945年8月25日のことでした。



トルーマンは戦後442部隊を閲兵し、その際

「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。
(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」

とその功績を讃えました。



ここまで日系アメリカ人の解説員の解説を聞きながら観終わりました。

「よかったら感想を書いていって下さい」

とノートを指されましたが、わたしは見ただけです。
ほんのときどき日本語による記述もありましたが、殆どが
英語での感想で、書き込んでいる名前も日系ではなさそうでした。

たとえばこの11歳のホセ・レゼンディスくんは、ヒスパニック系ですね。

「クール・ファクツ&ピクチャーズ」

という感想がいかにも11歳と言う気がしますが(笑)

マイノリティがアメリカ人として同等に生きる権利を持つ
現在のアメリカに生きる彼らにとって、そう遠くない昔に起こった
これらの悲劇はどのように映ったでのしょうか。


サンフランシスコ上空

シリーズ終わり。


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