ふとしたきっかけから海軍に興味を持って4年半。
不詳エリス中尉、自分が海軍軍人とともに「同期の桜」を歌いながら
感極まって涙ぐむというようなことが起こるとは、4年半前まで
夢にも思っていませんでしたが、人生、何が起こるか分からないものです。
兵学校在学中に終戦を迎えた、この学年の最後の同期会に
縁あってご一緒し、懇親会で感動の宵を過ごした次の日のこと。
泊まったホテルは真ん前に広島城がありました。
一日目も二日目も呉での予定だったのにもかかわらず、
宿泊地が広島だったのは、これだけの大人数を収容できる
ホテルが呉になかったからだと思われました。
朝ご飯を昨日の宴会場で頂いた後、ロビーに集合し、
割り当てられたバス6台に分乗して江田島まで行きます。
この江田島行きだけに参加する人もいたとのことで、
総員は200人くらいになりました。
途中広島市役所の前を通ったのですが、その敷地に
何やら遺跡のようなものを発見。
これは被曝した当時の市役所庁舎で、地下室への入り口であり、
そこは今でも保存されて、資料展示室となっているそうです。
今まで広島から江田島までは呉まで電車で行き、
大和ミュージアムの横の港から船に乗って行ったのですが、
宇品港からバスごとフェリー船に乗り込みました。
さすがに年配の方が殆どのツァーなので、極力脚を使わせません。
出発の時間までターミナルに行ってみました。
ロビーにはドイツ人らしき団体観光客がたむろしていました。
平和記念公園を見学し、この後、松山で温泉というコースでしょうか。
彼らが眺めている綺麗な形の山は、
宇品の前にある似島の「安芸小富士」です。
「コフジというのはクライン・フジ・バーグという意味である」
なんてガイドから聴かされたかもしれません。
通勤用のフェリーが到着しましたが、接岸と同時に係員が
外に飛び出してきて舫をかけ、次の瞬間にはもう車が
次々と艀を渡り始めたのには驚きました。
日常の移動手段というか、電車やバスのような感覚で
フェリーはこの辺りの人々の生活に溶け込んでいるようです。
我々の乗ったバスがフェリーに乗り込んでいます。
前に3台、さらにその前の2台のバスは全て兵学校ご一行様のもの。
ほんの20分くらいの航行中、車内で過ごしてもいいと言われましたが、
フェリーでは車から降りるものと思っていたので、これも驚きです。
エンジンをかけてクーラーを入れなくても中で過ごせる季節なので、
歩行や階段の上り下りが億劫な方は、車内に残っていたようでした。
フェリー後部から広島方面を臨む。
似島の近くにある峠島という無人の島の横を通り過ぎます。
明らかに廃墟となった建物と、なぜか鳥居がありました。
車内に残る人もいましたが、殆どの方達はバスから降りて
船内で立ったまま、写真を撮ったり談笑して過ごしていました。
とても80歳半ばの人たちの集団とは思えません。
こういう人たちだからこそ、今まで元気で来られたということなのかも。
その後バスは江田島の切串港に到着しました。
切串は、呉からフェリーの到着する小用港とは別のところにあり、
上陸したバスは今まで見たことのない道を走って行きます。
これは元兵学校生徒たちにとっても同じだったらしく、
「なんか見たことのない道だねえ」
と彼らの一人がつぶやいていました。
兵学校生徒たちは、必ず小用から江田島に出入りしてきたため、
他に港があることを知らない人もいるのかと思われます。
そして海上自衛隊第一術科学校、旧海軍兵学校跡に到着。
思えば江田島には過去三回()来ているわけですが、そのいずれも
一般見学者としてであったので、受付を経ず、しかも車のままで
こんな内部まで入ってこられたのは初めてです。
一般見学者が待機する建物の向かいにあるこの古い校舎。
建物上部に、当時使われていたらしいスピーカーが今も残ります。
この建物の由来についてはわかりませんでしたが、
戦前からの建物であることは間違いなさそうです。
ただし台湾の成功大学にある日本統治時代の建物などと違い、
手入れが行き届いて、どこもかしこも清潔にしてあるので、
実際の経年数よりは新しく見えるのだと思われました。
一行がここにまず案内されたのは、簡単な歓迎レセプションのためです。
テーブルにはペットボトルのお茶と江田島の案内パンフが用意され、
わざわざ歓迎の大きな横断幕が掛けられていました。
ここが普段何に使われているスペースなのかはわかりませんが、
部屋の隅には記念絵皿やスポーツ大会の楯を納めたガラスケース。
右の皿は「さみだれ」と「きりしま」の銘入りです。
一行は大人数のため、一旦ここからツァーを始めるのですが、
二手に分かれ、午前と午後で見学場所を交代する仕組みです。
ここでは設えの割に実に簡単に、案内の自衛官がツァーの説明を
するだけでした。
旗を持っている海曹は、
「グループはさらにバスごとにFまで別れるので、
グループごとに旗についてきて下さーい」
などと説明しています。
一般ツァーでは入り口から最後まで歩きっぱなしですが、
このツァーは高齢者が多いので、そんなことは断じてさせません。
敷地内の移動はすべてマイクロバスで行います。
まずグループAの人たちから立ち上がって、出発です。
我々のグループは午前中は教育参考館の見学です。
いつ見ても立派で壮麗な教育参考館のエントランス。
石段を上って行ったブロンズの扉の後ろに、東郷元帥のご遺髪が
納められた部屋がありますが、一般には公開されていません。
説明の自衛官は
「よっぽど特別な人でない限り見学はできない」
と言っていました。
実は今回、見られるかと少し期待していたのですが、
兵学校の卒業生でもだめだったようです。
というか、誰なら見られるんだろう。
扉の左手にはドアがあり、そこは特別展示室につながっていて、
ご遺髪は、分厚い金属の球体の中に納められているそうです。
昼ご飯をいただいた向かいの建物二階から見た教育参考館。
館内では、僭越ながらTOの音声ガイドを務めさせてもらいました。
何度目かの訪問ですが、行くたびに新しい知識が増えているため、
前回には目にも留まらなかった展示に新たに気づかされます。
どんなことでもそうなのですが、いくら色々とわかったつもりでも、
この世界、知らないことばかりだといつも思い知らされるのです。
一階を右に行った部分に、全卒業生の卒業写真が見られるようになっている
コーナーがあるのをご存知でしょうか。
この学年は卒業していないので、在学中に撮られたものになりますが、
ちゃんとこうやって全員の写真が残されています。
ここに来た人たちは皆、自分の身内の若き日の姿を探し求め、
あったあった、と普通にカメラや携帯に納めています。
教育参考館の中では写真撮影禁止、と建前上はなっているのですが、
ここだけは治外法権のようになっていました(笑)
わたしがこの写真を撮ったのは知人の義父上が写っている、
と聞いたからですが、どういうわけか改めて探しても
相当する名前の生徒は見つかりませんでした。
手前は「三景艦砲弾」。
みなさん、三景艦って聴いたことあります?
艦これ関係のかたは「三景艦娘」なんてのをご存知と思いますが、
聴いたことないという方、それでは日本三景ってどこだか覚えてます?
松島(宮城県)
厳島(広島県)
天橋立(京都府)
ここから名前を取った「 防護巡洋艦」、つまり
「松島」「厳島」「橋立」
これを「三景艦」と呼んだのです。
砲弾は共通だったということですね。
ちなみに3番艦の「橋立」は国産艦です。
向こうに見えるのは「大和」の
「九一式鉄甲弾」。
言わずと知れた46サンチ砲の砲弾で、直系46cm、
艦載砲弾として現在でも世界最大のものです。
そのうしろにあるのが真珠湾攻撃に参加した
5隻の特殊潜航艇のうちの一隻です。
教育参考館の見学を終えた後、全員が参考館向かいの建物の
2階に案内されました。
要所要所には自衛官が立ち、案内と手助けなどをしています。
お手洗いには左の建物に行かねばならないため、そこにも
ちゃんと一人配備されています。
隊員の集合にも使われるらしい大変広い部屋に、一行
総員200名ほどが一時にお弁当を食べる用意がしてありました。
席は決まっていませんが、だいたいグループごとに座るので、
周りはほとんどバスの中で一緒だった顔ぶれです。
仕出しのお弁当は大変な量で、わたしは勿論のこと
周りのの誰一人として全部食べきった人はいませんでした。
ところで、わたしのお弁当の向こうに、前に座っていた方の
ベースボールキャップが見えていますが、わたしはせっかくなので
この方にも何か想い出をお聴きしようと思い、
「お話を伺ってもよろしいですか」
と断ってから、
「終戦の勅をお聴きになったときのことは覚えておられますか」
と質問してみました。
誰しもが昔の想い出、特に戦時中の体験を
人に聴いてもらいたがっているとは限らないので、
こういう席であっても、話しかけるには少し勇気がいるものです。
しかしこの方はどちらかというと話すのを歓迎しておられる風で、
「軍歌演習する練兵場で整列して聴いたけど、
そのときにはよくわからず、上級生が泣いているので、
どうやら負けたらしいと皆で言い合った」
などと話し出すと、周りの人々(元生徒の夫人や海機だった人)
は一斉に会話モードに(笑)
「原爆投下のときのことは覚えておられますか?」
「8時に稼業が始まって化学の授業を受けていたら、
いきなりものすごい爆風が来た。
音は聴こえなかったので、しばらく何か全然分からなかった」
原爆投下の話を振ったのは、さっきこの会場に入る前、
古鷹山(冒頭写真)を2階の踊り場から撮りながら、TOと
「あれに登るってキツくないか?」
などと話をしていたら、後ろから来た元生徒さんが、
「あの山があったから、兵学校は無事だったんだよ」
と声をかけて来られ、山の向こう側は熱線で木が焼けていた、
という話を伺ったところだったからです。
わたしの前に座っていた生徒さんによると、
「その後広島駅に行ってみたら、駅舎だったところが全部
瓦礫の固まりになっていて、線路だけが残っていた。
服がそれしかないので、作業着を来て故郷に向かうんだが、
(その方は中部地方の出身)、復員は電車賃が要らないんだよ。
で、それをいいことにそのとき電車で全国を一周した奴がいたなあ」
「何のためですか」
「さあ・・・・このチャンスに旅行してみたかったんじゃないかな」
この元生徒さん、さぞ見聞が広がったことでしょう。
そんな話をしていたら、テーブルの少し向こう側から、
「古鷹山があったから、兵学校は無事だったんだ」
と、ついさっき聴いたばかりのことをおっしゃる方が。
と思ったらさっきの方でした(笑)
年配の方の想い出というのは、何十年も昔のことになると
そのとき強烈な印象を残し、戦後も何度となく人に話していたことだけが、
鮮やかに いつまでも刻まれていて、周りの人たちには
「また始まった」
というくらい同じ話ばかりになってしまうものなのかもしれません。
わたしの前に座っておられた方も、しばらくしたら、
「広島駅に行ってみたら駅舎のあったところが瓦礫になっていて」
と全く同じ話を始められました。
そんなとき往々にして持つ、微笑ましいような、物悲しいような、
曖昧な感情とともに、そのときの情景がいかにこの元生徒の記憶に
強烈な印象を与えたかが窺えて、わたしはそのような意味でも、
繰り返される言葉をひどく貴重なものに感じていました。
続く。