先日、海軍兵学校同期会に出席した話に戻ります。
呉で行われた海軍兵学校在学者(卒業していないので)の同窓会。
初日の夜は懇親会が行われました。
来賓の自衛隊幹部学校長、第一術科学校長が帰ってからも、
会場ではあちらこちらに人が行き交い、互いに旧交を温めあったり
名刺交換をし合ったりの和気あいあいで、余興など全く必要ない盛り上がり。
わたしはその間も会場の様子を抜かりなく観察していました。
今回が最後の同期会ということですが、今まで1年に一度、
というペースで行われてきたせいか、久しぶりの再会に驚く、
という場面はあまりないように見受けられました。
平均年齢もあるのでしょうが、実に落ち着いた宴会です。
この宴会では、「元海軍軍人」との出会いもありました。
わたしの右側がその方ですが、どうですか皆さん。
顔をぼかしていても窺い知れるノーブルなお顔立ち、
御歳80半ばとは到底思えない姿勢の良さ、この年代には珍しい長身、
そして一目で分かる上質のジャケットの粋な着こなし。
一言で言うとこのように美しく老いたいという見本のような老人です。
ただ者ではない!
実はわたくし、この日の前半、このスタイルに野球帽を被り、
白髪に髭の、まるで高級別荘の宣伝に出てきそうなこの元生徒を見るなり
こんな風に思っていたのです。
ところが何たるご縁、よりによってその方が知人の遠縁で、
(親戚同士が結婚していたため)ご紹介いただくことに。
この方は、父上が海軍中将(だから知人はわざわざ紹介してくれた)で、
大佐時代の1年間、「長門」の艦長も務めていたことがあります。
(戦艦の艦長はだいたい任期が1年単位で、大佐が務めます)
しかし、「長門」といえば陸奥と並んで「日本の護り」と言われた戦艦。
優秀な人物でなくてはとても艦長にはなれなかったでしょう。
その息子であるこの方が、他にも父親の乗ったフネは数あるのに、
わざわざ「長門に乗っていた」ことを初対面の我々におっしゃるというのも、
息子にとって「長門艦長だった父」は何よりも誇りだったからでしょうし、
そして父上も「長門」艦長を命じられることは
軍人人生において、最も高揚する任務だったのではなかったでしょうか。
ちなみに最後の戦艦「大和」艦長を命じられた有賀幸作は、
海兵団にいた息子への手紙の宛名に、軍極秘もガン無視で
「大和艦長 有賀幸作」
とデカデカと書いていたそうです。
よっぽど嬉しかったということです。
有賀が「大和特攻」を打診されたとき、軍人としての死処が「大和」であり、
「最後の大和艦長」として歴史に永劫残るということは
むしろ願ってもないと考えて、それを引き受けたことは想像に難くありません。
話がそれましたが、この方自身、戦後は東大に進み、
(ご本人は『旧制高校に入りなおした』とだけ言っていた)
卒業後は建築家として、受賞歴多数、数々の実績を上げて来られた大御所で、
後で検索したところ「無茶苦茶偉い人」であったことがわかりました。
いやー、何と言っても海軍兵学校ですから、皆さんさぞ戦後も
洋々たる人生を歩んで来られたに違いないとはいえ、
このクラスになると、分校含め生徒は何千人もいたわけで、
中には失礼ながら、それほど優秀でない人材も混じってたかも、
などという失礼な考えもあったのですが、それはここで吹っ飛びました。
テーブルをご一緒した方も、未だ現役のお医者様でした。
しかも
「僕は殿様分隊だったの」
つまり、同期だった賀陽宮と同じ分隊、ということは
学習院出身の、しかも成績優秀素行良好な生徒だったってことですし、
後日知人から添付にて送られてきた「江田島」という画集で
素人らしからぬ油絵を披露していた「元生徒」は、戦後京大工学部を出て
燃料学会と石油会社の取締役にもなった経済界の大物。
会場におられる方々を見回しても皆さん、いかにも社会の第一線で
バリバリと働いてきて今日がある、といった余裕のある風情です。
やっぱり海軍兵学校って何だかんだ言っても超エリート集団だったんだ、
とわたしはあらためて確認しました。
ちなみに知人は、このイケメン建築家(なんと現役です)に
「こちらの方は大変旧海軍に興味をお持ちで・・」
とわたしを紹介して下さったのですが、そのときこの方は
「ほう、それは嬉しいですねえ」
と上品に微笑まれました。(くーっ、かっこいい!)
その後、一人の「元生徒の奥さん」という方 とも
お話をさせていただいたのですが、彼女によると、
「かつて兵学校で勉強していたり、軍人だったりした人たちが
戦後の日本をここまでの国にしたんだと思いますよ」
少し調べただけで、彼らがそうそうたる肩書きを持っており、
この言葉が決して誇張でも何でもないことがわかります。
彼女はそしてこのようにも言っていました。
「最近のことですが、若い人が海軍とか戦争のことを聞いてくるんですよ。
昔はそんなことに興味を持つ人なんていなかったものですが」
この学年の「元海軍軍人」も半数はもうこの世を去ってしまいましたが、
戦争を知っている人にその体験を聞くことは、
何年か後には完全に不可能となってしまいます。
今回この会合にお誘い下さった知人は、
義父上がこの学年であったのですが、その方も2年前に亡くなりました。
今まで会合に一度も参加したことがなく、義母と妻を見送るだけでしたが、
今回わたしたちが参加することになったので
「興味がわいたので初めて来てみた」
のだそうです。
そして、わたしに向かってこういいました。
「義父が生きていたときに、もっと話を聞いておけば良かったです」
さて、宴たけなわとなったとき、またもや壇上に
司会進行役が上がりました。
「ただいまより軍歌演習を行う~!」
デタ━━☆゚・*:。.:(゚∀゚)゚・*:..:☆━━━!!
出たよ軍歌演習。
バスの中で軍歌が始まったので狂喜したわたしでしたが、
なぜか後が続かず3曲で終わってしまって、残念に思っていたのです。
「我と思わんものは壇上に!」
何人かが上がったものの、この期に及んでマイクの押し付け合い(笑)
壇上の者が何か言う度に会場から
「聴こえん!」
「声が小さい!」
と叱責が上がります。
4号生徒のときに散々これで油を搾られて、俺も1号になったら、
と切歯扼腕していたのに、1号にならぬまま終戦を迎えた彼らは、
その点だけでもさぞ悔しい思いをしたことでしょう(笑)
実は卓上には人数分の軍歌帳が配られていました。
後から壇上に上がって来る人あり。
場内でポニーテールにしているのはこの週番生徒だけでした。
書道家とか陶芸家とか・・?
最初の歌は、何と、またしても「如何に狂風」。
バスの中でも真っ先に出てきたし、大和の甲板でも
2000人が最後に一緒に歌ったのがこれだと言うし、
よっぽど海軍軍人のハートを掴んでいた曲には違いないのですが、
皆さん、前回わたしがアップしたYouTubeでこの曲を聴いて
「よく分からない曲だなあ」
と思った方はおられませんか?
ご安心下さい。本職のわたしもそう思います(笑)
楽曲形式が全く西洋音楽のそれを踏んでいないことや、
とりとめのないメロディ、しかも第5和音から開始するという
異色の導入部で、覚え難いこと甚だしい。
しかし、
「如何に敵艦多くとも 何恐れんや義勇の士
大和魂充ち満てる 我らの眼中難事なし」
というこの歌詞こそが、当事者の魂に深く沁み入ったのでしょう。
大和の2000人が、最後の戦いに臨んで滂沱の涙を流しながら歌ったのが
この曲でなければならなかった、というのはよく分かります。
「次に!」
バスの中でも音頭をとっていた司会の方が声を張り上げ
「兵学校数え歌を歌う!」
ちょっとちょっと、おじいちゃん、それはさっき歌ったでしょ。
しかもさっきと全く同じところで歌詞を忘れてるし(笑)
でもきっとこの歌はこの元生徒の「テーマソング」みたいなもので、
この人は戦後も何かにつけ、一杯機嫌のときやお風呂の中や、
勿論宴会でも、この歌を必ず歌ってきたんだろうなあ。
そしてその次は。
「江田島健児の歌を歌う!」
ああついに「江田島健児の歌」。
本物の江田島健児によって歌われるこの「実質校歌」を聴く、
おそらく最初で最後の機会でしょう。
バスの中では歌われず残念に思っていたのですが・・・・。
この後ろ姿は「殿様分隊」だったお医者様でいらっしゃいますが、
右手に「軍歌帳」と書かれた紙を持ち、その場足踏みで歌っています。
壇上の一番左の方も同じように、このスタイルこそが軍歌演習そのまま。
冒頭写真の軍歌帳には、軍歌演習行進中の生徒の様子が印刷されていますが、
この写真は67期の生徒たちのものです。
「江田島健児の歌」に続いて、「海軍機関学校校歌」が歌われました。
機関学校に在学していた生徒もいるからですね。
ちょっと驚いたのですが、兵学校生徒たちも普通に一緒に歌っていました。
そして・・・。
「最後に全員で『同期の桜』を歌う!
全員隣の者と肩を組め!」
おお、兵学校とは関係のないわたしたちもですか。
というわけで、わたしは左のTO、右の知人のご母堂、
即ちかつての海軍生徒の未亡人と肩を組み、
おそらく人生で最初で最後の「元海軍軍人たちと歌う同期の桜」を
声を張り上げて歌ったのでございます。
♪貴様と俺とは同期の桜・・・♪
こういう状況で歌う、三番の
「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」
この一節は、あまりにも感動的でした。
思わず胸にぐっと込み上げてくるものがあり、ことに
「やすくーにじーんーじゃー」
のくだりで鼻の奥がツーンとしてきたのですが、
組んでいた腕を下ろしたとたん、隣の未亡人が目頭をそっと
押さえているのが目に入りました。
わたしのとは全くその意味合いにおいて違う涙なのだとは思いますが。
歌い終わった後、全員に何とも言えない無言の時間が一瞬訪れ、
ほうっとため息が漏れた瞬間、一人の元海軍生徒が大声で
「もう一曲!最後に『軍艦』を歌う!」
海軍軍人的な軍歌「軍艦」とは、「仇なす国を攻めよかし」
で一節が終わった後、雅楽の東儀さんという方のご先祖の
東儀季芳が作曲した「海行かば」の部分もちゃんと歌うのです。
「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍
大君の辺にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ」
最後の「かえりみはせじ」の部分を「長閑には死なじ」とするのは
属日本記にこのような記述もあるということからだそうです。
この部分も音楽的にはかなり無茶苦茶と言うか、「如何に狂風」とは
違った意味での歌いにくい部分なのですが、この後の展開で
建築家元生徒とお話ししていたところ、この方が
「あの部分を歌うとね、戦死した人たちのことが万感迫って
わたしは涙が出てくるんですよ」
とおっしゃったのです。
単なる話のネタとして、雅楽を西洋音楽にコラボしたこの曲の
音楽的な「無理筋」を、茶化して話題にしようとしていたわたしは、
このとき自分の愚かさに心から恥じ入りました。
この方の父上であった海軍中将は、終戦時には既に予備役だったのですが、
やはり兵学校を出て、零戦隊の飛行隊長をしていた兄上は、
終戦直前に九州で戦死しているのです。
さて、宴はお開きになり、皆三々五々部屋に引き揚げます。
明日はいよいよ本ツァーのメインイベントである
「江田島訪問」
が行われるのです。
続く。