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パシフィックコースト航空博物館~カール・ノルデンの憂鬱

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ソノマカウンティにあるパシフィックコースト博物館、
先日展示航空機を全て紹介し終わったわけですが、
この博物館には建物内にも資料展示コーナーがありました。

売店のところにいる受付兼任のおじさんに、撮影していいか聞き、
勿論いいよと許可を得たので例によって残らず写真を撮ってきました。



まずは、ジョセフ・アーサー・グラッソという、サンフランシスコの
航空黎明期の飛行家のコーナーがあります。

グラッソは1900年に生まれ、30年代から40年代にかけて
スタントなどで大変活躍した飛行家だったそうですが、
残念ながら歴史的に有名な飛行家ではなかったらしく、
詳しい資料を見つけることはできませんでした。

この博物館がグラッソに「感謝」しているのは、
ここの展示の多くが彼の所蔵していた写真によるものだからです。

グラッソ自身の飛行機の操縦免許や、飛行機と一緒の
貴重な写真も彼自身の寄付によるものだそうですが、
博物館のオープンは1989年。
グラッソさん、一体どれくらい長生きしたのか・・・。



動力飛行機の発明家、ウィルバーとオービル・ライト兄弟。

ここに、彼らの父親の証言として、

Neither could have mastered the problem alone.
As inseparable as twins, they are indispensable to each other.

『彼らはどちらも一人では問題を解決できませんでした。
まるで分ちがたい双子のように、彼らはお互いが不可欠だったのです』

と書いてあるのですが、実はこの部分、
inseperableとか、 indespensableとか、スペリングのミスが二つも・・。
アメリカ人もこういう場所で間違いをやってしまうのだなあと、
少し安心?しました。




初めて海軍の船を飛行機で発艦したのが誰かをご存知ですか?

その歴史的瞬間がこれ。
飛行家、ユージーン・イーリー(1886~1911)が
1910年、USSバーミンガムからカーティス・プッシャーで
離艦することに成功した瞬間の写真です。




冒頭写真は、その一年後、離艦に引き続いて着艦を成功させた
後のユージーン・イーリーの勇姿。

周りの人物と比べて、かなり長身であったことが分かります。

スーツを着ているのが時代を感じさせますね。
この頃は「飛行服」なんてものはありませんし、靴も普通の革靴です。
せめてもの衝撃吸収のつもりか、スーツの上に上着を着て、
身体に自転車のチューブを巻き付けています。
そして頭には皮のヘルメット。

今日の目で見ると、その後ろにある飛行機の、
まるで自転車のようなコクピット(と呼べるなら)といい、
この装備といい、あまりにも無防備で危険なものにしか見えません。


現に、イーリーはこの直後、着艦に失敗し、
自分で飛行機から甲板に飛び降りた際、首の骨を折って死亡しています。



史上初の発艦から一年後、イーリーは史上初の着艦に成功たときの写真。
この連続写真で甲板の両脇に見えているたくさんの砂袋は、
このとき初めて使われた降着装置、つまり着艦ロープです。

飛行機にフックを付け、そのフックがロープにかかるようにして着艦する、
という今日も使われている仕組みが、人類史上最初に使われた瞬間でした。



こちらは、イーリーと同年代の海軍軍人、
セオドア・ゴードン・エリソン中尉が、カタパルト発進に成功した瞬間。
1912年のことでした。

イーリーとエリソン中尉のことについては、別項、
「天空に投錨せよ」というエントリを設けてお話しする予定です。
どうかお楽しみに(予告)



1942年4月18日、東京空襲を行うため、
USSホーネットを離艦するドゥーリトル飛行隊のB−25。



ベトナム戦争で墜落した飛行機を発見した米艦艇でしょうか。

この横には、

Modern Adverseries(近代のライバル関係)として、

朝鮮戦争時代
   F−86 セイバー
   ミグ15 ファゴット

ポスト朝鮮戦争時代
   F−104 スターファイター
   ミグ21 フィッシュベッド

ポストベトナム戦争時代
   F−15 イーグル
   ミグ25 フォックスバッド

と書かれたパネルがありました。



前にも一度説明したことがありますね。
ノルデン爆撃照準器。
ドーリットル隊の飛行機にも搭載されていました。

情報を入力するといつ爆撃すればいいかを器械が教えてくれる、
というもので、当時のこの最高機密には、15億ドル相当の
国家予算がつぎ込まれたそうです。

この最高機密に関わる人間は、極秘の扱いとともに、決して
この器械について何人にも情報を漏らさないことを、
末端の搭乗員や兵員までが宣誓させられ、運搬の際には
基地の中であってもそれとわからないように布をかけました。

宣誓の内容には、

 ”機体外への脱出など緊急時には
自らの命を代償にしてまでも処分を優先させること”

が含まれていたということです。 


アメリカ政府はこの器械に大枚を投じて9基購入しています。


発明者のカール・ノルデンはスイス人で、熱心なクリスチャンでした。
彼によるとこの発明は

「ピンポイントで爆弾を落とし、
できるだけ人の命を救うための人道的な装置」

だったそうです。

しかし、この期待の装備はアナログコンピュータだったので、
使う方にも大変な熟練が必要とされました。
爆撃手任せの精度、しょっちゅう故障する機械。
ノルデンの計算通りに戦況が展開する筈もなく、
たとえば雲が出ただけでお手上げ、という代物だったのです。

おまけに、ノルデンの弟子は買収されてナチスに設計図を渡してしまったため、
ドイツでは早々に同じものを作ることに成功していました。

まあ、ドイツにとっても役立たずの代物だったわけですが(笑)

ちなみに、日本軍も鹵獲した飛行機からこの照準器を見つけ、
しっかり同じものを作っています(笑)
日本軍は使わないうちに終戦になってしまいましたが、
実際にどんな精度かわかったら、きっと使わなかっただろうと思われます。


最後に。

あの「エノラゲイ」の爆撃手は、ノルデン照準器を使って
1945年8月6日、広島に原子爆弾を落としました。


しかし皆さん、考えていただきたいのですが、
そもそも原子爆弾投下に正確な「照準」など必要あったのでしょうか?

「不要の殺人を防ぐための平和的な発明だ」

と胸を張っていたカール・ノルデンにとって、
街の上空で炸裂しさえすれば、何十万人を一瞬にして殺すことのできる
原子爆弾の投下に自分の発明品が使われたのは、
あまりにも痛烈な皮肉だったと言えはしませんでしょうか。 


しかもこのとき、エノラ・ゲイの爆撃手が爆弾投下した地点は
相変わらず目標から250m照準がずれていたと言われています。



 

続く。


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