8月末に訪問した地方総監部の訪問記、
行事が間に色々とあって長らく中断してしまいましたが続きです。
我々が旧鎮守府庁舎に到着したのは面会予定時間の15分前。
部屋に案内されて担当の2佐、海曹長と話をしていたところ、
10分したら海幕長が現れました。
海幕長の投入に驚いたわたしですが、ほんの5分話したところで
時間きっちりに総監が入室して来られたわけです。
会談が終了し、何気なく部屋を出るときに何気なく時計を見て
わたしは驚きました。
海将が部屋にいたのは1分の狂いもなくちょうど30分だったのです。
全てが分単位で決められその通りに動くのが自衛隊だと
改めて実感したものです。
さて、今回の訪問には嬉しいサプライズが用意されていました。
地方総監との会談終了後、ここ呉にある音楽隊をご案内下さるというのです。
これは、訪問が決まって連絡窓口になってくださった2佐とのやり取りで
わたしが音楽関係者であること、そしてこの音楽隊と関係の深い自衛官を
たまたま存じ上げていたことから取りはからってくださったのでした。
地方総監庁舎の赤い絨毯が敷かれた階段を下りて行くと、
嗚呼見て驚けごらんのような光景が。
次の訪問地まで、海自の桜のマークの付いた公用車で
お送りしていただく手配がされていたのです。
これも時間通りに車が前に回され、カートを引きずっていた
わたしのために車のトランクは開けた状態。
「ふおおおお~~」(内心驚いているエリス中尉)
地球防衛協会の一地方支部とはいえ、顧問に就任してよかったと
わたしはこのときほど思ったことはありません。
ええ、所詮小物ですからこんなことが嬉しいんですよ。
それに、ここだけの話ですが、このなんちゃって表敬訪問の後、
当支部にはその後総監部からのお誘いが以前より明らかに増えた、
と地区統括協会長はおっしゃるのです。
おそらく単なる偶然だとはいえ、そう思ってもらえるだけで嬉しいです。
そして乗り込んだ車の中。
清掃が行き届いた快適な車内の足元をご覧下さい。
自衛隊的には佐世保で買った「礼式」によると、車内に置ける
「上座」はこの席なので、足元に赤いシートが(絨毯のつもり)
敷いてあるというわけです。
本日の表敬訪問者は実はTOではなくこの「わ・た・し」。
本来ならばわたしがここに座ってもいい筈なのですが、
そこはそれ、「かしま」での艦上レセプションの招待状も
わたしは「ご令室」扱いになっていたように、夫婦単位では
自衛隊は夫であるTOを「上位者」として扱うのでした。
運転手は海曹が行い、案内役の2佐は助手席に座ります。
車が一瞬も停められることのないように、進行のスピードに合わせて
警備の隊員が車止めをどかせている様子が見えます。
今気づきましたがTOの席の前にモニターがありますね。
移動中にニュースを見るような場合に備えてでしょうか。
5分も経たないうちに車は音楽隊練に到着しました。
入り口は階段を上がって行ったところですが、そこには・・・
もうすでにお迎えの隊員が起立(拳はグー)していました。
「今からそちらに向かう」という連絡が行ったようです。
敬礼でお迎え。(じーん)
奥からはここでの管理部長である1佐が出て来られました。
ところで、この実に趣のあるレトロな庁舎、
これは「桜松館」(おうしょうかん)と呼ばれる建物です。
この敷地には現在海上自衛隊呉集会所がありますが、かつてそこには
明治年間に建てられた「海軍下士官卒集会所」がありました。
そこに日露戦争で活躍した巡洋艦「吉野」「高砂」両艦の功績を
伝えるために図書館等を備えた木造建築が建てられ、それに
「桜松館」
という名前が付けられたのでした。
軍艦「吉野」。
二等巡洋艦で、明治26年に英国アームストロング社で竣工されました。
イギリスから回航してくるときには秋山真之も同行しています。
建造費用は国民の寄付によって賄われました。
1904年の日露戦争の際には、旅順攻略作戦に参加し、2月25日、
鳩湾でロシア駆逐艦ウヌーシテリヌイを砲撃により擱座させ、
その後自沈せしめました。
殊勲艦だったのですが、その3ヶ月後、山東角沖で哨戒行動中、
濃霧のため後続艦の一等巡洋艦「春日」と衝突し沈没しました。
「春日」の方は無事で、1945年横須賀に停泊していたところを
米軍艦載機の爆撃を受け大破着底しています。
二等巡洋艦「高砂」。
この巡洋艦も「吉野」と同じくアームストロング社製で、
設計者も同じサー・フィリップ・ワッツ技師です。
日露戦争では「吉野」と同じく旅順攻略作戦、黄海海戦にも参加し、
2月9日には旅順沖でロシア汽船「マンチュリア」(満州の意)
を捕獲するという殊勲を立てました。
しかし、「高砂」もその年の12月、やはり旅順での哨戒中に
機雷に接触し沈没してしまいました。
この写真の入り口の左には桜、松の若木が植えられていますが、
これは「高砂の松」「吉野の桜」と親しまれていたそうです。
パンフレットには「功績をたたえて」とありますが、それよりも
どちらも戦功を上げながら別の理由で喪失してしまったことを惜しむ気持ちから
特にこのよく似た巡洋艦をこのような形で顕彰したのだと思われます。
その後、木造の建物が老朽化したため昭和4(1929)年に現在の
鉄筋コンクリート造り地下一階、地上2階の建物に生まれ変わりました。
それが現在の「桜松館」です。
上の写真を一部アップしてみました。
アーチ上部のランプからランプをつなぐ線が見えますか?
説明によると、この彫刻がこのエントランスの唯一の「装飾」だそうです。
この建物はアール・デコ様式で創られているのですが、
その一時代前のアール・ヌーボーより簡潔さと合理性を目指したとされる
この様式の、いわば象徴的な部分でもあるといえましょう。
地形を利用したためこのような特殊な造りになったようですが、
呉集会所の中庭の南端にまず石段を9段昇り、狭い踊り場から
さらに10段登ったところに猫の額ほどの広場があります。
そこには隊員の手によるト音記号の芝生アートが!
いかにも隊員が自分たちでやったらしい素人っぽさが可愛いらしい。
ここが音楽棟として設えられた当初から、エントランスのアーチ下には
このようなト音記号がタイルで描かれていました。
ト音記号を書くときには上の芝生ト音記号のように
カーブからまっすぐ線を引き下ろして書くのが定石ですが、
このデザインはあえて中央線を右に寄せて全体のバランスを取っています。
当時デザインをしたのが誰かはわかりませんが、
なかなかの造形センスの持ち主であったらしいことが窺い知れます。
わたしが敬礼に迎えられてエントランスにこのト音記号を見つけ
大はしゃぎしていたら、迎えて下さった1佐が
「こっちにもありますよ」
と教えてくれたのが芝生のト音記号だったのでした。
建物内に通されたわれわれは、入ってすぐの応接室で簡単に
挨拶を交わし、しばし雑談をしました。
音楽隊長の1尉、そして管理部長の1佐が案内して下さるようです。
録音もここで行われるらしく、「録音中」を示すランプの付いた
合奏場のドアを開ける管理部長。
音楽隊の練習室にいよいよ潜入するときがやってきたのである。
そこで我々を待ち受けていたものとは・・・!
そして、噂の「あの人物」が・・・・・・・!
次回に乞うご期待。
ところで。
どこを調べても記述がなかったのですが、現在の桜松館の敷地には
「吉野の桜」と「高砂の松」はまだあるのでしょうか。