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地方総監部訪問記~地方音楽隊庁舎での『出会い』

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地方総監部での海将との会談(やっているのがわたしであることを除けば
本当にそんな感じで進んだ)が終わり、海自公用車で音楽隊庁舎まで
送っていただき、中を見学という運びになりました。 

 

見よこれが地方音楽隊の練習室である。

ちょうどお昼時間だったので楽団員の皆さんは楽器をそのままにして
全員席を外しているところでした。 

練習中であれば音楽隊長は案内できなかったということなのですが、
もしかしたらそのときは隅っこで練習を聴かせてもらえたのかもしれません。

そこでこの練習室の様子を仔細に眺めてみると、オケのためのひな壇は
ステージの前に一段低いステージを設えてつくってあります。
さすがは自衛隊の音楽練習室だけあって、床には塵一つありません。
おそらく朝には練習までに皆で清掃をすることから始まるのでしょう。

コードリールもちゃんと巻き取られたものが一所に固められているし、
タオルがかごにまとめて入れて置いてあります。

管楽器奏者の椅子の足元を見ていただければ
一枚ずつタオルが置いてあるのにお気づきでしょう。
管楽器を一定時間吹いていると先から唾液が滴り落ちるのですが、
それを受けるためのタオルなんですね。

先日、晴海埠頭で練習艦隊の帰国行事が行われましたが、
そのとき、一連の遺骨帰還の儀式の間中「海行かば」を演奏していた
東京音楽隊のクラリネット奏者の楽器からは、長時間に亘る演奏の途中、
埠頭に水分が盛大に滴っているのをわたしは目撃しました。

さすがに演奏会でこういうことはしませんが、毎日練習する場所なので
専用のタオルを使うことになったのでしょう。
さすがは自衛隊。ってなにがさすがなのかわかりませんが。

設えた中段のステージの下はスペース利用で、大型楽器の
楽器ケースを収納する場所になっているようです。

この桜松館が出来た当初というのは、奥のステージで時には
音楽会なども行われたに違いないのですが、今ではここは
音楽隊の練習以外に使われることはなくなったのかもしれません。

ステージの後部にはついたてが立てられ、 
後ろにも楽器ケースなどがまとめて収納する場所になっている模様。
専用の練習室ではないので、プロオケのような「楽器庫」などは
おそらく無いものと思われます。

 

ステージ中央の上部のレリーフは音楽隊の紋章です。
「呉」という図案化された文字が桜の花に描かれ、
葉と共にあしらわれた意匠は・・・楽器?

と思ったのですがなんとこれ、

「砲塔と錨」

なんだそうです。



遠目にクラリネットだと思っていたのですが(笑)
言われてみれば砲塔でした。
「どこが錨?」という疑問も、アップにして初めて解明しました。
葉は実がついているのでどうやら南天のよう。
リボンの影に喇叭の吹き口らしきものも見えます。
「呉」という字の周りにも実のようなものが見えますが、これは
桜のめしべを表現しているものと思われます。

呉に鎮守府開設以来創設された軍楽隊をわたしは過去ログで
「呉軍楽隊」と書いているのですが、正確には

呉海兵団軍楽隊

という名称で、横須賀海兵団で最初訓練を受けた軍楽兵たちが
呉に派遣され結成されたものです。
最初の公式演奏は、1890年の呉鎮守府の開庁式におけるものでした。

このマークは勿論呉海兵団軍楽隊のシンボルとして制定されました。

この音楽隊を訪問すると渡される資料では、この軍楽隊時代のことは
全く触れず、いきなりプロフィールが

「海上自衛隊呉音楽隊は、1956(昭和31)年に創設」

から始まっているのですが、隊章がそのまま引き継がれているということが
示すように、当音楽隊の前身が呉海兵団軍楽隊であることは明らかです。

この歴史が全くなかったことのようにされているのはなぜなのか・・・。

少し軍楽隊の歴史に付いて述べておきますと、海軍には
1871(明治4)年に海軍軍楽隊が発足し、1878(明治11) 年には
軍楽隊員の一般公募が開始されるようになります。
1889(明治22)年には数々の諸条例、規則が制定され、
海軍軍楽隊の制度が確立された翌年、呉海兵団軍楽隊は生まれました。
つまり呉鎮守府の開庁に合わせて創立されたということですね。

この時同時に佐世保海兵団軍楽隊も配置されています。
これが現在の佐世保音楽隊の前身です。



この練習室を横切り、反対側の道に面したドアからは外に出ることが出来ます。
そこ広がる風景が冒頭写真。

この道は「美術館通り」という名前が付けられており、
道を挟んだ向こう側には入舟山公園と並んで呉市美術館があります。



「美術館通り」という名に相応しく、道の両端にはこのような
ブロンズの彫塑などが点在しています。
ヴァイオリンを弾く女性像。



同じ作者によるフルートを吹く女性像。
楽器を演奏しているモチーフである理由は勿論、
この通りに面して音楽隊の練習室があるからです。

「この練習室は防音装置が付けられていないんです」

と音楽隊長。

「そして道に面した部分はガラス張りです。
ここを通りかかる観光客が立ち止まって見ることができるように」 

つまりこの通りは

「練習室から流れて来る音楽隊の演奏」

というのも「風景」のひとつとしているからなのです。 
桜やツツジの名所でもあり「日本の道百選」にも選ばれたとか。 



次は音楽棟の中を案内してもらいました。
まだ練習が終了していないことを、
この無造作に置かれた楽器が表わしています。

左のフルートはおそらく14金製だと思いますが、プロの好む材質で、
大きなホールの演奏に向いた輝きのある音質が得られる、
と言われています。

尚、わたしがある楽器に目を止めて「こんなところに置いてある」
と何気なくいったところ、隊長はそれを見て

「手入れが悪い!」

と言い切りました。(; ̄ー ̄A いいのかな



(画像に意味なし)



続いてこちらはちゃんと防音設備のある練習室です。
わー、何だか学生時代を思い出す眺め^^

せっかく防音材を壁に貼っているのに、天井に穴が開いていては
あまり意味がないと思うのはわたしだけだろうか。



こういうのも懐かしいなあ。
メトロノームは練習室の必需品です。

緑のフェルトは管楽器の唾液受け()用ではなく、おそらく
コントラバスのエンドピン用だと思われます。
カーペットがボロボロになってしまうんですよね。



「基本奏法の反復演練」

えんれんと打つと真っ先に「遠恋」が出てくるのですが(笑)
「演練」という単語はちゃんと存在して、その意味は

「本番さながらの演習。訓練。」

というものです。
基本奏法即ちスケールなどを「本番さながらに訓練」せよと。


ところでこの練習室の壁を見ながら、わたしは海軍軍楽隊の厳しさについて
ある話を思い出したのでふと隊長に聴いてみました。

「音楽隊の練習は厳しいんでしょうか」 
「厳しいと言いますと」
「海軍軍楽隊みたいに、練習室の壁が血で染まるとか」

途端に隊長と同行の1佐が声を合わせて

「それはありません!」
「そんなことしたら大変なことになります!」

勿論言ってみただけです(笑)
でも海軍時代にはこれ本当のことだったんですよ。
間違ったらバッターで殴られるとか(なんでやねん)。
罰直で全員が自分の楽器を頭の上に掲げて中腰とか(もっとなんでやねん)。


戦後の音楽教育、特にブラスバンドの体育会気質、というのが
海軍軍楽隊のこの「軍隊式」から来ているというのが、いくつかの書物で
その世界を垣間みたわたしの考察なのですが、
少なくとも自衛隊音楽隊においてはその気質は規律にのみ残り、
体罰パワハラの類いはむしろ御法度であるということのようですね。



見学が始まった練習室前の廊下にもう一度戻ってきました。
そこにはガラスケースがあり、資料が納められています。

前に一度このブログで書いたことのある河合太郎軍楽隊長の
使った指揮棒が無造作に置かれています。
大和ミュージアムでは河合太郎の特別展が行われたようですね。



上段左から:

日本海海戦を記述した昭和2年発行の本。

東郷ターンが図解されているページです。
右のレコード盤は、

海軍軍楽隊録音のレコード

呉海兵軍楽隊のものかはわかりませんが状況的に多分そう。

下段:

河合太郎を主人公とした映画「海ゆかば」の脚本
戦艦「三笠」?の上の軍楽隊と河合の写真




戦後自衛隊音楽隊が創設されてからの写真です。

上段は「高山隊長」来隊記念、
下段は「河合先生」指導、

とあります。

左の丸い写真立ては、

トルコ軍艦遭難100周年記念

つまり、エルトゥールル号が1890年に和歌山県串本沖で遭難してから
100年後の1990年に、何か記念行事が行われ、それに音楽隊が
演奏で参加したということだと思われます。



音楽隊録音によるCD。
一番右は当音楽隊庁舎入り口ですね。



ブラスバンドの世界では有名な作曲家、
ジェームズ・チャールズ・バーンズ氏来隊記念色紙。

アルヴァマー序曲(←いい曲)などが有名です。


 
この地方総監部に勤務していたある海将補が、当音楽隊に寄贈した記念。

海将補閣下は楽器を能くし、音楽隊の演奏会にエキストラ参加を、
しかも後ろの「奏でた日々」を見る限り何度もされていたようです。

これは、その方が転勤でこの地を去るときに寄贈していったもので、
フルートとホルンのミニチュア、演奏の足跡と転勤で要らなくなった
(昇進されたってことですね)海将補の肩章が、写真等とともに納められています。

五線に描かれているのは、行進曲「軍艦」のフルートのパート、最初の4小節部分。

おそらく実際に着用していた肩章をこうやって残して往くほど、
海将補閣下にとって音楽隊は特別な存在だったに違いありません。


ところで。


この音楽隊を検索すると、必ずあるトロンボーン奏者の個人名が
同時に引っかかって来ることをご存知でしょうか。



じゃーん。

はい、この方ですね。

写真集「国防男子」発売以来、すでに全国区で有名なので、
今さらご尊顔を揚げても良かろうと判断致しました。男前だし。

この音楽隊員の検索に関してはわたしにもちょっと責任があって、
昨年の自衛隊音楽まつりでヴォーカルソロを務めていたことから、
自衛隊内の情報網をつてに名前やら経歴やらを突き止め、
それを当ブログエントリにアップしたこともあるのです。

調子に乗って勝手に「海自王子」なんてあだ名をつけたりとかね。

 
どうしてお昼休み時間で隊員が誰もいないのに、ピンポイントで
王子だけがこうやって微笑んでいるのかと言いますと、
当音楽庁舎に到着後、音楽隊長や総監部の1佐と雑談をしていて、
TOが

「自衛隊に歌手はいないんですか?」

と、わりと今さらなことを質問したのに対し、わたしが受けて

「何を今さら。三宅由佳莉 二曹がいるでしょう」

というと、TO、

「いやあの写真集の『国防男子』に、確かいましたよね?歌手」

音楽隊側、

「あ、あの『国防男子』、うちのトロンボーンなんですよ」

というわけで、気を利かせてこのM海曹を呼んで下さったというわけ。
せっかく呼んでもらったのだからと、まずは音楽まつりの感想を述べ、
さらにはテレビの「ハモネプ」での成り行きを改めてお聴きし、
その”イケ面”をカメラに収めさせていただいた次第です。

「国防男子以降、騒がれて色々と大変だったんじゃないですか?」
「はあ・・・」

肯定も否定もせず微笑みつつ曖昧に返事するM海曹。
別ルートから聞いた話によると、ハモネプの頃には特定の「おっかけ」
がいたというくらいですから。
すると音楽隊長が、

「彼、もう結婚して10年になるんですよ」

それはたしか不肖宮嶋さんの写真集にも書いてあったので知ってます。
というかわたし、おっかけの話を聞いたときに、

「いたことも『ある』と聞いたけど今はいないようなので、
おそらくその間、M海曹が結婚して解散したにちがいない」

と予想したりしていたんですが、当たってたってことなんですね。
しかし結婚10年ってことはもう30前半って感じ?
さすがは王子、若く見えるわー。




隊長が「せっかくですから三人で是非」と撮ってくれました。
どうも彼は、当音楽隊の「顔」になりつつあるようです。
今年の音楽まつりでも活躍が期待されますね。



見学が終わって庁舎を辞するとき、このような
記念品セットを頂きました。
中には呉音楽隊のパンフ(海上自衛官募集コールセンター電話番号付き)、
ミニタオルやうちわ(丸くて仰げるように指を入れる穴があるのでたぶん)
ボールペンなどが入っていました。


この歴史的な建物を見学することは、実は以前からの希望でした。
今回地方総監部への訪問と音楽隊庁舎見学が同時に実現し、
さらには噂の王子様に合い見(まみ)えることまででき、
いっぺんに色んな望みが叶ったというわけです。

旧海軍の名残りをあちこちに残すこの呉での海自体験。
古い建物だけでなく、旧海軍の伝統をいたるところに受け継ぐ
海上自衛隊の今の姿を目の当たりにし、
あらためてその血脈の濃さを感じた訪問でした。


ただ、ひとつだけ。

旧海軍の歴史を後世に過たず伝えて行くのも、
また海上自衛隊の使命であるとわたしは思います。
音楽隊の歴史を語るのなら海兵隊軍楽隊から始められるべきでは?
という提言をひとこと付け加えてさせていただき終わりにします。





 


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