大和ミュージアムで行われていた「進水式展」について
お話ししてきたわけですが、最後になります。
前回戦艦「大和」について語ったからには・・・・・。
そう、戦艦「武蔵」についてです。
冒頭画像は戦艦「武蔵」竣工記念に作られた香盒(こうごう)です。
香盒とは、香をを収納する蓋付きの小さな容器のこと。
茶道具の一種でもあり、仏具の一種でもあります。
茶道で香盒を使うときには、 茶を点てる前の湯を沸かす時に
炉等で焚くための香を、あらかじめ香合に3個入れておき、
その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせ、
残り1個はそのまま拝見に回します。
いずれにしてもそのような場合に使われるものを配るというのは
実に雅でもあり、もののふと自らを任じているようにも思われます。
輪島塗でできた香盒には蓋の部分に桜と錨、裏には
竣工記念
貳六〇貳
三菱長崎造船所
とあります。
貳六〇貳は、紀元2602年、即ち昭和17(1942)年、
「武蔵」は就役したからです。
ところで、「武蔵」は進水を長崎で行いましたが、
その後艤装は呉に運ばれて行われました。
なのに何故竣工記念「三菱長崎造船所」の名前が入っているかというと、
「武蔵」に対する非常に強い思い入れを持っていた三菱の渡辺賢介が、
わざわざ当時輪島塗の第一人者であった職人に依頼して制作させたからでした。
香盒セットは関係者にこっそり配られたそうです。
戦艦「武蔵」は戦艦「大和」と同型艦としてほとんど同じように建造されました。
第一号艦である「大和」が建造している間、「武蔵」の建造関係者は
呉にいて「大和」の建造技術を学んでいました。
原図の描き方から始まり、鋲の打ち方にいたるまで、「武蔵」には
「大和」と全く同じ技法が取り入れられました。
上の写真のゲージは、武蔵を含む艦艇建造時に使用された、
鋼厚さ用(左)
鋲孔皿計用(右)
で、当時の関係者が使用していたものです。
進水式のときに実際に使われたホイッスル。
なんと関係者の徳本良蔵氏の手作りです。
戦艦「武蔵」にかかわったら、ホイッスルを作った人の名前まで
後世に残してもらえるのです。
これが「ピー、ピー、ピー」と鳴らされる中、
戦艦「武蔵」を進水させるために、幾多の人々が走り回っていたのですね。
そう、この進水がね・・・・・大変だったんですよ「武蔵」の場合。
それはあとでお話しするとして、このバッジ。
進水式当日、及川古志郎海軍大臣が付けていたものです。
及川海軍大臣は、これを胸に着け
「戦艦武蔵」
と命名書を読み上げました。
ここにはそのときの命名書も展示されています。
命名書は軍極秘の赤いハンコが押され、そのせいなのか(笑)
なぜかそのケースだけが「撮影不可」になっていました。
こんないきなり「撮影不可」とか言われても、
流れで?つい撮ってしまい、撮ったあとに気づいて慌てる人が
絶対にいると思う。
となぜか力強く断言してしまうわけですが()命名書には
赤のハンコの下にも「秘密厳守」みたいなことが書いてあり、
さらには三菱重工で建造中の戦艦は次のように命名す、「武蔵」
となっていて、この存在そのものが秘匿されていた様子が窺えます。
でも、何故この命名書が撮影不可なのかは分かりませんでした。
こちらも進水式のときのバッジで、牧野茂造船官が付けていたもの。
牧野造船官といえば戦艦「大和」で中心となった技官ですが、
二番艦の「武蔵」にも深くかかわっていたことがわかります。
むさし 進水入場章
という字は、下の39とは明らかに違い、
マジックペンで書かれたように見えますが、博物館での分類のため
裏だからと書かれたものでしょうか。
「武蔵」は「大和」が行った注入式潜水(ドックに海水を入れる)
ではなく、なんと進水台から滑り落ちる進水台進水を行いました。
つまり、「武蔵」は進水台を使った最も大きな船ということになります。
しかし、その大きさ故一つ大問題がありました。
進水台(右側)から滑り落ちた「武蔵」が635m以内に
行き脚を止められなければ、対岸に激突してしまうのです。
このため、武蔵には左右両舷に260トンずつ、合計520トンの
制動用の鎖と錘が搭載されました。
滑走距離340mで重量抵抗100%となるように計算されたのです。
その甲斐あって、進水式当日、海上に滑り出した「武蔵」は
505.8m の位置で静かに停止しました。
見ていた関係者はまさに息をのみ天に祈る思いだったでしょう。
船体重量にも耐え、重心もほとんど移動することなく、
「武蔵」の巨体はあと130mを残して止まったのです。
上の図は実際のこのときの「武蔵」の航跡ですが、対岸には
あと105mのところにワイヤが張ってあったようですね。
また、「武蔵」は最終的に少し左舷に触れるように止まったようです。
さて、その進水台の設計図です。
こちらは青焼きの断面図。
こちらは印刷された横からの図面。
進水台は巨大戦艦の重量を転倒しないように支えるもので、
固定台の上に213mの滑走台を滑らせます。
滑走台は船体の艦首、艦尾とぴったり合うようにできていて、
進水台を滑るときに決して剥離しないように強力に結束されています。
つまり、進水式のときにはこの滑走台も一緒に進水するのです。
これは付けたままにしておき、艤装岸壁で初めて取り外されます。
「武蔵」もその建造を徹底的に秘匿されました。
周りを覆うために莫大な量の棕櫚が必要で、こっそり大量買いしたため
悪質な買い占め事件として警察が動いたくらいです(笑)
棕櫚の目隠しが船台に貼り巡らされると、
付近の住民らは
「ただならぬことが造船所で起きている」
と噂し合い、「お化け」「魔物」とその船体を呼んでいたとか。
この写真は、手前がアメリカ及びイギリス大使館です。
向こうに三菱造船所の船渠が見えていますが、目隠しのため、
大使館の前には造船所を遮るように2棟の倉庫が建てられました。
この写真は当時のものでなく、昭和30年代に撮られたものです。
ずっと残されていたんですね。
大和型大型戦艦の建造が決定すると、昭和13年8月をめどに、三菱造船所では
第一船台、第二船台の改造が開始されました。
改造では船台の拡張と補強が行われ、
ガントリークレーンも延長されました。
最終的に、進水時船体と船台の構造物鉄柱との間は
わずか80センチしか空いていなかったといわれます。
これは、呉工廠から長崎まで、46サンチ砲や砲塔などを
海上輸送するために建造された特務艦、
砲塔運搬艦「樫野」
の設計図です。
また、甲鉄類を運ぶのに、特務艦は呉から三菱まで
51回の運搬を行いました。
大和型二番艦を建造するには、まず船台進水が可能かどうか、
ということから検討に入らねばなりませんでした。
耐圧、沈下、滑走試験など、気の遠くなるような回数の
各種試験が繰り返され、多数の進水計算、予備実験、
進水台の試作などと共に、重量3万トンの船体が進水台を滑走し、
船尾が海中で浮揚する瞬間、艦首部の船台には最大の加重がかかります。
この部分の補強も行われました。
「武蔵」の20年も前に船台進水した、
巡洋戦艦「霧島」。
この当時の超弩級戦艦は、大型戦艦の大量建造の、
いわば嚆矢となるものでした。
先ほども書きましたが、一番艦の「大和」建造のために、
長崎からは大量の技術者が派遣されました。
会場のモニターでは大和と武蔵の進水式にまつわる映像が流され、
その周辺はことごとく撮影が禁止になっていました。
ジャムリベッター(左)と絞鋲ハンマー(右)。
いずれも、49キロ、32キロの重量があります。
持ち上げるだけでも大変な器械ですが、作業を行う場所は狭く、
熱した鋲を両側から打ち合うという作業なので騒音も凄まじいものです。
少し分かり難いですが、下の三人がこの鋲打ちをしています。
船体強度材を結合するための鋲打ちには慎重を要し、
合格検査も大変厳しいものだったということです。
このような重労働で作業に関わるものは激しく
体力と気力を消耗したため、一日に打てる鋲はせいぜい
60~70本が限度だったということです。
設計の技官たちは勿論のこと、こういった鋲打ち一つにも、
当時の造船関係者の心血が注がれて、彼女らは進水式を迎えることができたのです。
艦の建造に関わった大勢の人々が手塩に掛けた彼女らの進水を見守るとき、
一般人のそれを遥かに凌駕する、心の底からの祈りがあったことでしょう。
「進水式展」に展示された、艦艇の無事を祈り、完成を寿ぐ
ゆかりの品の数々は、あらためてそのことを思わせました。
皆様も、もし興味をお持ちになりましたら、ぜひ・・・・、
といいたいところですが、9月23日に特別展は終了したとのことです。
わたしは呉に偶然用事があって本当に幸運でした。
そのうち三菱造船所の資料も是非見に行きたいと思っています。
(進水式展シリーズ終わり)