まだまだ続いている海軍兵学校同期会の江田島訪問です。
この江田島旧兵学校シリーズ、ご自分がかつてそこにいた、という方や、
息子さんがいた、あるいはいる、という方々から楽しみにされていると知り、
こちらとしても大変やりがいを感じております。
さて、一般の人々が入れない「特別コース」の見学がすみ、
記念写真撮影をした後には、海上自衛隊呉音楽隊による
演奏会が行われました。
その演奏会のために案内された場所を見てびっくり。
まるで本日の演奏を行う呉音楽隊の練習場所である「桜松館」の
現代版といったらいいのでしょうか、ステージを備えた雛壇式の客席を持つ、
とても立派でしかも新しいオーディトリウムがあります。
写真を見てもおわかりのように最近施工したばかりのようで
少なくとも5年以内の建築かと思われます。
前回、「ここはなんでしょうか」と最後にお聞きしたところ、
「映写講堂」という昔から変わらぬ名称が使われている視聴覚講堂で、
当時からそれは同じ場所に同じ目的であったらしいとわかりました。
参加者が順次席に着くのを待っている間、すでに音楽隊は待機していて
その様子をこうやって眺めています。
これも普通の演奏会にはあり得ないことで、客入れが全部済んでから
音楽隊が入場するのを客が迎え入れるというものでしょう。
元陸幕長とお話をした時、自衛隊はいつも「国民に対し下から目線」
であろうとしている、とおっしゃったのが印象的だったのですが、
特に今日の一行は、自衛隊の皆さんにとって「ただの国民」ではありません。
彼らがその精神の後継者であると任ずるところの、海軍の元軍人なのです。
演奏会に先立ち、第一術科学校長の徳丸海将補が挨拶をしました。
この前日の懇親会の挨拶でも思いましたが、この方、お話が上手い。
通り一遍でない、何か心に残ることを簡潔にスピーチに入れ、
しかも歯切れよく短時間で喋り終えてしまうのです。
このときの海将補は、
「皆さんが兵学校に入学してから70年が経ちます」
と、まず出席者の戦後の日本での活躍を讃えた後、
「わたしども海上自衛隊は、戦後もここ呉では掃海活動を通じ、
いわば途切れることなく皆様の遺志を継いでやってきました。
そして来年、戦後終戦から70年になるわけで、これも歴史と考えると
ようやく同じ歳月を経て皆様方に追いつくことになったのであります」
正確ではありませんが、こんな感じの導入の後、
「これからも皆様の思いを受け取ってそれを絶やすことなく
やっていきたいと思っております。
どうか海上自衛隊をこれからも可愛がってやってください」
可愛がってやってください、という言葉は非常に印象的だったので、
これだけは間違いなくそのまま覚えているわけですが、
現代の海上自衛隊ならではの一言だなあと微笑ましい気持ちになりました。
もう少し昔、まだ軍人世代が社会の第一線だった時には
当然ながら自衛隊の中にも旧海軍軍人がたくさんいました。
海軍出身の上官は厳しく、当たり前のように体罰も行われ、
さらには訓戒やお説教のとき何かにつけて出る「海軍では」
の言葉に、「海軍を知らない子供たち」は随分反発したものだそうです。
それらの人々が一線を退き、さらに年月が経ちました。
今となっては自衛隊にも、海軍軍人の薫陶を直接受けた者すら、
少なくとも現場からはいなくなりつつあります。
だからこそ、まるで祖父に甘える孫の言葉のような、
『可愛がってやってください』
が何の違和感もなくなったと言えるのかもしれません。
続いて兵学校元生徒側の代表による挨拶。
前夜の懇親会でもこの生徒が挨拶をしていたので、
おそらく同期会の会長のような方でしょうか。
ちなみにこの期生からも、海上幕僚長を一人出していますが、
この方が退官の際には、
「最後の海軍軍人出身の海幕長」
として朝日新聞に取り上げられたのだそうです。
今なら朝日は、海幕長の退官などを記事にすることもしないと思われますが。
プログラムは印刷されたものもいただきましたが、
前に大きな字で書かれたものが立ててありました。
「君が代行進曲」の勇壮な調べからコンサートは始まりました。
ご存知のようにこの曲は「君が代」のメロディを拍の頭にして、
別のメロディでつないでいく方式で作られており、
わが国歌「君が代」があまりにしめやかなので(笑)ここはひとつ
士気を鼓舞させる勇壮なバージョンも作っておきましょう、
という意図で作曲されたのだと思われます。
トロンボーンを演奏する海自の王子様発見。
M海曹、今日は何か歌ってくれるのかな?
司会進行役は音楽隊員ではなさそうなWAVEさんが行いました。
このPAが、上手い!
こういうときに喋り慣れているとしか思えない流暢さで、
プロのアナウンサー顔負けの進行をしてくれました。
本当に自衛隊って人材が豊富だなあ。
続いて、プログラム2番、「艦隊勤務」。
隊員の歌でお楽しみくださいというので、すわ、M海曹出番か!?
と色めき立った(一人で)わたしですが、なんと、
別の男性歌手が二人でこの曲をデュエット始めました。
彼らが歌い出してすぐ、どうしてM海曹でなく
この人たちが歌ったのかその理由がわかりました。
もう、声とか歌い方とか、もしかしたらこういう曲を歌うために
生まれてきたんではないか?という折り目正しい歌唱法、
それはあたかも東海林太郎の若い頃のような・・。
若い人たちが観客であればM海曹の「艦隊勤務・ゆず風」
というのも(個人的に是非聞いてみたい)いいのでしょうが、
本日の観客は80歳半ばの元海軍軍人。
M海曹ではなく、こういう「声楽的美声」の歌手に歌わせる
というのはなかなかの演出であると思われました。
いやー、やっぱり歌手の層が厚いわ、海上自衛隊音楽隊。
ところで、わたしがこの日仲良くなった(というのも変ですが)
元海軍軍人から、この「艦隊勤務」を作曲した江口夜詩(よし)の
息子がこの同期生で、戦後音楽大学に入り直し作曲家になって
「忘れな草をあなたに」
「下町の太陽」
「京都雨情」
などのヒット曲を生んだ江口浩司であることを聞きました。
父親の夜詩は海軍軍楽隊から流行作家になりましたが、
息子も海軍軍人から流行作曲家になったというわけです。
「よく若い時には一緒に遊んでたんですよ」
とのことですが、映画の主題歌などを作った流行作曲家と
「一緒に遊んだ」というのは、さぞかし派手に遊ばれたのかなと。
「少し前に死んじゃったけど」
作曲家・江口浩司は2010年、83歳で肺臓癌のため亡くなっています。
死後、日本レコード大賞は江口に功労賞を贈りました。
生きておられればこの日にお目にかかれたのかもしれません。
そして、音楽隊がこの曲を選んだ理由も、
作曲者の息子が在籍していたからではなかったかと思われました。
ちなみにこの艦隊勤務の有名な歌詞、
「月月火水木金金」ですが、日露戦争の後も休日返上、
「勝って兜の緒を締めよ」とばかりの猛訓練をしている海軍をして
「これじゃまるで月月火水木金金じゃないか」
とあの「伝説の男」、津留雄三大佐が表したのが嚆矢とされます。
もうひとつ、わたしはかねがね「艦隊勤務」を聞くと、
どうも「憧れのハワイ航路」を思い出してしまうというか、
どちらもよく知らない時にはごっちゃになってしまっていたのですが、
たった今、どちらも同じ江口夜詩の作曲であったことがわかりました。
だからだったんですね。
なんか、すごく腑に落ちました。
ちなみに「憧れのハワイ航路」の長い長いイントロが終わった後、
「あーさーだーよーあけーだー」と続けてみてください。
あまりにも違和感がないのに驚かれるでしょう(笑)
続いては、かつての兵学校生活を懐かしんでもらおうと、
「同期の桜」に続いて巡検ラッパが響き渡りました。
その前日の懇親会で、元生徒から
「巡検ラッパ聴くとね、涙が出るんですよ」
という思い出話を聞いたばかりです。
しみじみとした響きはそのまま「海行かば」にかわり、
いつの間にか「愛国行進曲」となっていました。
トランペットのソロ。
この歌手はチューバ奏者なのですが、この清潔なルックス?と
戦前のポリドール専属歌手のような歌い方が評価されたとみえ、
もう一曲、今度はソロで歌いました。
なんと、「青い山脈」。
司会のPAは
「戦後このメロディが人々を勇気づけた」
というようなことを言っていました。
1949年の同名映画の主題歌として爆発的にヒットした
この「青い山脈」ですが、その当時、生徒たちは
中途で絶たれた海軍軍人への道を戦後に向けて新たに切り開き、
大学や旧制高校の門をくぐって社会人として巣立ったころです。
かれらにとってはまさに「青春の一ページ」を彩る曲であったはず。
かつていた江田島で聴く「青い山脈」はどんな感慨を呼び起こしたでしょうか。
この楽器なんだか知ってますか?
吹いていると顔が見えない(ことが多い)ユーフォニアムです。
ユーフォニアム奏者がソロをとったのは、
「川の流れのように」。
美空ひばり、という選択も、こういった年配の視聴者に対しては
意味を持ってなされたことなのだと思います。
いったい誰がこういうプログラムを考えるんですかねえ。
音楽隊長かしら。
最後のプログラム「江田島健児の歌」を皆で歌うため
全員起立しているところ。
ニコニコと眺めているのが音楽隊長の北村1尉です。
先日音楽隊を見学した時にはご案内していただきました。
余談ですが、それこそ色んな自衛隊の方に名刺をいただいた中で、
Eメールアドレスが記載されていたのは隊長のだけでした。
演奏会が終わった時、わたしとTOは隊長にご挨拶に行ったのですが、
わたしたちの前に、隊長に向かって、
「巡検ラッパのCDないのCD」
と聞きに来ている元生徒が・・。
わたしたちの世代なら「インターネットで検索すれば聴けますよ」で済みますが、
80代の老人、しかも海軍の先輩に対してググれksというわけにもいかず、
隊長はなんとていねいにも
「CDならご自宅にお送りしますよ」
と名刺を出して住所を書かせているのです。
どんな役所もどんな企業も、こんなことまでしてくれないよなあ・・。
元生徒が住所を書いている長い時間、横で待ちながら思いました。
「先日はどうもありがとうございました」
音楽隊訪問からそう日が経っていなかったとはいえ、
そう声をかけると隊長はわたしたちを覚えてくれていたらしく、
にこやかに返事をしてくれました。
演奏開始。
これこれ、元生徒さん、脱帽しなさい脱帽を。
プログラムには「江田島健児の歌」が載っています。
1番から6番までを全部歌いました。
もちろんわたしにとっては初めての経験です。
わたしは一度、この詩を書いた50期の神代猛雄という兵学校生徒の
短かった一生と、「大空のサムライ」の仕掛け人であった
共同出版社の社長福林正之との縁について書いたことがあります。
江田島健児の歌
しかし、もちろんこれで終わるわけがありません。
鳴り止まぬアンコールの拍手に応えて演奏されたのは、というか、
自衛隊音楽隊はこの曲で必ず演奏を終了することになっているため、
たとえアンコールがなかったとしても演奏をしたはずの、
行進曲「軍艦」。
わたしの前の席にいた女性がハンカチを目に当てているのは、
「江田島健児の歌」を最後にここ江田島で歌った感激か、
あるいは行進曲「軍艦」の響きに何かを思い出したからか・・。
音楽隊の演奏によって、江田島訪問は実に感動的な終焉を迎えました。
続く。