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呉海軍墓地~伊29潜とチャンドラ・ボース

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わたしが海軍関係に興味を持っていることが、ときどき
夫であるところのTOにあらたなお付き合いを生んだりします。

相手の会社に行ったらそこに大きな「大和」の模型があった。
携帯に「五省」のシールを貼っていたら向こうから声をかけてきた。
その他、海軍機の模型があったりふとした会話で身内に軍人がいたり・・。
そういうことを聞くと、TOは必ず

「うちの妻が実はそういうことに大変興味を持っていまして」

と話を続け、あちら様は滅法驚いて(そりゃ驚くだろう)それはお珍しい、
とさらに話が繋がっていく、という次第です。

今までこういう成り行きで海軍兵学校同期会を始め、結構色々な
海軍自衛隊的イベントへの参加のきっかけをいただくことになり、わたしもTOも

「世の中には海軍関係の身内のいる人って本当にたくさんいるんだなあ」

と驚いてもいるのですが、あるときそういった方の中で、
大叔父に当たる方が回天に乗っていて戦死したと聞いているのだが、
まったくその最後について詳しいことはわからない、と仰った方がいました。

亡くなった場所、戦没した大体の日にちはわかっています。
そして、なぜか伊号◯◯潜という艦番号だけははっきりしていました。

「これでなんかわかることある?」

TOはわたしにその情報を見せ、その方に大叔父さんの最後について
何かわかることがあったら教えてあげたい、というので、わたしはまず

「回天で亡くなった乗員は事故も含め名前がはっきりしているので、
回天搭乗員だった可能性はない」

として、次にその伊潜の行動調書を目黒の戦史資料室で確認しました。
それによると、大叔父という人が亡くなったとされる日、
その伊潜は外地どころか国内で練習艦になっていたことが判明したのです。

もちろん回天を乗せて出撃していたわけでもありません。

「この日付と死亡年月日がまったく辻褄が合わないんだけど・・」

この海軍兵曹は、伊◯◯潜の後、別の伊潜乗り組みになり、外地に出て撃沈されたのかと思い、
その日、戦死したとされる海域で戦没した伊潜があるかどうかも確かめたのですが、該当艦なし。

つまり結論をいうと、墓石に彫り込まれている大叔父さんの戦死情報は
まったく記録に相当するものがないということがわかったのです。

「これって、遺族にまったく戦死状況が正しく伝えられなかったということよね」

身内の戦死の通知が来たので諦めていたら戦後ひょっこり帰ってきたとか、
ひどいケースになると再婚後に復員してきたとか、そんな例が日本中にいくらでもあった時代ですから、
ましてや一兵曹がどこでいつどんな状況で戦死したなどということが誤って伝わったとしても、
ある意味あの日本の状態を考えると、当然のことだったかもしれません。

しかも、大叔父さんが乗り組んでいたのは潜水艦です。
極秘で戦闘行動をとるため、撃沈されてもその確認をすることもままならず、
多くがその戦没場所すら知られないままに海の底に眠っているという潜水艦・・。

 

前回見ることができなかったここ呉海軍墓地の上段には、どういう序列かわかりませんが、
潜水艦の碑が多く見られました。
今日はそれらをご紹介していきたいと思います。

これは呉鎮守府所属の潜水艦で戦没した人たちのための慰霊碑。
後ろの壁にはあまりにも膨大な戦死者の名簿があります。
伊潜29隻、呂潜6隻の合祀碑で、潜水艦をかたどった碑の基石には伊潜らしい潜水艦の姿が彫り込まれ、
傍には潜望鏡が立てられています。

この潜望鏡の根元にも説明文がありますが、説明を撮りそこないました。

 

上の合祀慰霊碑に名前があっても、潜水艦によっては独自の慰霊碑を建てていることがあります。
この「呂号第百四号」は、いわゆる海軍の「マル級計画」と言われる
戦時艦船急速建造計画で促成された9隻を含む18隻の「呂一◯◯型」の一つで、
昭和18年に建造され、わずか1年後の昭和19年5月、アドミラルティ北方にて米軍駆逐艦に撃沈されて没しました。 

呂号一◯◯型はその全てが就役してから短くて3ヶ月、だいたいが1年前後で戦没しており、
最も長命だった呂第109号でも2年というものでした。 


 

呂第104の墓碑の周りには、どのような由来なのか、時鐘と潜望鏡が立てられています。
時鐘のこちら側にあるのは照明でしょうか。
切断されないままに耐水性のありそうなコードとソケットがそのままポールに巻き付けられているのが見えます。




軍縮条約から日本が脱退して初めて計画された軍備で
建造された伊9型の3番間にあたる「伊号第一一潜水艦」の碑。

1943年にオーストラリア海軍軽巡洋艦「ホバート」に二本の魚雷攻撃を行い
これを撃沈せしめるという戦功をあげていますが、それからまもなくサモア近海で行方不明になり、
二ヶ月後、艦長以下114名の乗組員は亡失により全員戦死と認定されました。



「伊号第三六三潜水艦殉職者の碑」。

伊363は、大東亜戦争末期に輸送のために作られた12隻の伊361型の3番艦で、
このタイプを「潜輸大型」(せんゆおおがた)とも「丁型」(ていがた)とも称します。
この潜水艦の特筆すべき点は、回天戦に参加したことです。


さて、伊363は輸送潜水艦として建造され、何回か輸送任務に就きましたが、
その艦体が輸送用の大型だったことから、昭和20年の3月、回天搭載用に改装を施されています。


5月28日、轟隊として光基地を出撃した363潜は、回天の出撃により沖縄近海で輸送船を撃沈、
また8月8日にはパラオ沖に多聞隊の回天搭乗員を乗せて出撃しましたが、
航行途中にソ連が対日戦に参加してきたという報を受け、そのままソ連の攻撃に備えて日本海に向かっています。
彼らが終戦の報を受けたのは呉に帰港した次の日のことでした。



つまり伊363は戦没を免れて終戦まで生き残ったということになるのですが、
それならどうしてここに慰霊碑があるのか。

この慰霊碑に書かれた「殉職」という言葉がそれを説明しています。

昭和20年の10月29日、伊363潜は、回航のために呉を出港し、
宮崎県沖を航行中、アメリカ軍が「飢餓作戦」と称する封鎖作戦のために撒いた機雷に触雷し、沈没しました。

艦橋要員は脱出しましたが、岸に泳ぎ着いたのはそのうち1名。
乗組員45名のうち、艦長の木原栄大尉(死後大尉に昇進)以下42名が死亡したといわれています。

この碑の文字を揮毫(多分潜水艦のデザインも)した荒木浅吉元大尉は木原大尉の前の艦長でした。

なんども死地をくぐり抜け、生きて戦後を迎えることができた伊363の乗員は、
戦争が終わってこれからの日本がどうなっていくのか、
不安と心配の反面、生きていられることの喜びを兎にも角にも噛み締めて
これから始まる新しい人生に想いを馳せていたに違いありません。

しかし、日本の海における戦争はまだまだ終わっていなかったのです。
室戸丸、浮島丸、女王丸といった民間船を始め、掃海艇を含む55隻がこの機雷によって沈没しています。

そのため多くの海軍軍人が、掃海活動に身を投じ、職に殉じて命を失いました。
沈没した掃海艇30隻、殉職者78名、負傷者の数は200人以上を数えます。









意匠を凝らした碑のなかで、かえって目立つ自然石を積んだだけのこの石碑は
第4潜水艦隊司令の揮毫による「不朽」という字が刻まれています。

「伊二九潜戦没者慰霊碑」。

伊29は通商破壊活動を通じてインド洋を主戦場に4隻の船舶を撃沈し、
また(昭和18年)マダガスカル島沖でドイツのUボートから反英インド独立運動家の
スバス・チャンドラ・ボースを日本に連れ帰ったことで有名な潜水艦です。


「秋水」について書いたときにもお話ししたのですが、その翌年、
駐独日本大使館付海軍武官と日本人技術者を乗せ、
第四次遣独潜水艦としてドイツ軍潜水艦基地に到達することに成功しました。

このとき伊29はドイツにタングステンを輸送し、帰りにはMe163Me262のエンジン資料、
対空射撃管制用ウルツブルクレーダーエニグマ暗号機他を積み込んで
日本にそれを輸送する重大な任務を任されていました。

しかし、それら貴重なドイツからの資料が日本に届くことはありませんでした。

7月26日、伊29潜は、米潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276)
の発射した魚雷3発によりフィリピン海域で戦没したのです。

ほどんどの潜水艦のように、伊29戦の戦没は予定日を超えても帰国してこないことから、
三ヶ月近く経って初めて認定されました。

戦没認定は昭和19年10月10日です。

wiki

伊29潜はボースの亡命の時、マダカスカル沖でドイツのUボートと落ち合い移乗させました。
この写真は、ボースが乗り込んだ次の日の昭和18年4月28日、伊29潜の艦橋で撮られた写真です。

前列の左から二番目がチャンドラ・ボース、その右が日本海軍を代表する潜水艦長と誉れの高かった、

木梨 鷹一(きなし たかかず)少将。

木梨艦長については第六艦隊参謀であった鳥巣健之助著の「日本海軍潜水艦物語」に詳しいですが、
なんといってもわたしが何度かこのブログでもお話しした、

「米空母に向けて撃った6本の魚雷のうち3本がワスプに命中して撃沈、
残りの2本は戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンに命中」

という大金星を上げた伊19号の当時の艦長で、その他戦果多数、といえば、
なぜこの人物が「日本海軍の誉れ」で、戦死後2階級特進となったかがわかっていただけるでしょうか。



このときの写真が見つかったのでついでに。
魚雷が命中したオブライエンと左遠方で炎上する空母ワスプ。


しかし、この写真の時からそう間も分かたず、たくましく若々しい肉体を持った若者たちが、
何処かもわからぬ海に人知れず沈み、一人残らず水漬く屍となって逝ったのだと思うと、
わたしは一人一人の顔を粛然とした気持ちで見つめずにはいられません。


チャンドラ・ボースはその後亡命先の日本でインド独立のために活動を行っていましたが、
日本が敗戦したため、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることはもはや不可能だと判断します。
そこで満州に行き、今度はソ連と交渉をしようとしました。

しかし、そのために台湾の松山基地から乗り込んだ97式爆撃機が離陸時に墜落し、
ボースはその後病院で亡くなりました。
日本の敗戦から三日後、昭和20年8月18日。
最後の言葉は、インド人のボースのためにわざわざ作ったカレーを一口食べて言ったという、

"Very good."

だったそうです。
きっとこのカレーは日本風で、ボースが慣れ親しんできた故郷の味とは全く違うものだったはずですが・・。
 



第三十一潜水艦基地隊の慰霊碑。
碑の前に立てられた掲揚竿は、かつてそこに軍艦旗が翻って乗員が敬礼を捧げました。
70年経った今でも、ここには潜水艦隊員たちの霊のために掲揚がされるに違いありません。



冒頭のTOの知り合いは、大叔父という人が「回天」で亡くなったと聞かされていたそうです。
もしかしたら


「回天戦を行った伊潜に乗り組んでいて、その潜水艦が撃沈された」

のを曲解して伝わったのかともわたしは推理したのですが、
時期的に該当する伊潜がなかったことから、そこで真実はわからなくなったままです。

赤の他人であるわたしに調べられることは、ここからはありません。
これ以上のことを知りたければ、血縁者が厚生労働省に行って公的書類を閲覧するしかないからです。

この方が今後どうなさるのかについては、まだお聞きしていません。 





  

 

  


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