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 東京裁判の弁護人たち~ジョージ・A・ファーネス大尉

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この項を作成するためにわたしは三本のDVDを注文しました。
それがいっぺんに届き、パッケージを開けた時に、たまたま横にいたTOにそのタイトルを見られ、

「なんでこんな映画を・・」

と不審がられてしまったのですが、それもそのはず。

「私は貝になりたい」1959年
「地球防衛軍」1957年
「妖星ゴラス」1962年

皆さんはよもやこの映画の共通点をご存知ではないでしょうね?
「私は貝になりたい」は戦時中の捕虜殺害の罪を問われて処刑された
BC級戦犯をフランキー堺が演じた名作。(同時上映:サザエさんの青春)

わたしがウォッチングしている戦争映画の範疇で、不思議はないとして、
「地球防衛軍」。
これも昨年度わたしが「地球防衛協会」顧問に就任したことから、
なし崩し的に興味を持ったとしてもおかしくはないタイトルですが、
内容は地球外生物が水爆で星を失い、よりによって日本に住み着き、
侵略し始めたので戦う地球防衛軍の話ですし、「妖星ゴラス」に至っては
ゴラス星が激突する人類の危機に立ち向かう科学者たち、というSFもので、
平田昭彦と藤田進が出ている以外は何の関心もない(はずの)映画。

わざわざDVDを購入してまで確かめたいこと、というのは、
本日タイトルの、東京裁判で日本人被告の弁護を務めた、

ジョージ・A・ファーネス

がこのいずれもの映画に出演していることでした。

冒頭写真は、「私は貝になりたい」の法廷シーンで、
主人公の清水豊松(フランキー堺)の弁護人を演じるファーネス。

独特のガラガラ声で、しかし本職の弁護人の役ですから、説得力ありまくりです。



判決言い渡しのシーンでは被告の後ろに立ち、
上官に命令されて米兵を殺害(といってももう死んでいた)したことを

「もし命令が不当なものだと思えば軍事裁判所に訴えることもできた」

などと、全く日本軍の実情も知らないまま訴追する検事に対し、



このもう一人の弁護人(ブレイクニーのつもり?)とともに

「日本人の生活、感情、習慣についてあなた方は全く無知である」

と弁論し極刑を回避しようとするのですが、奮闘空しく幾松は絞首刑を宣告されるというシーンです。
ファーネスは右側にいて、左には、この裁判で処刑になる陸軍中将の役で藤田進がいます。


実際にファーネスは弁護人の無力や、東京裁判そのものの不当性を
誰よりも痛感していたにちがいない一人でした。

ましてや真偽不明ながら、

「食事にごぼうを与えたら”木の根を食わされた”として虐待を問われて有罪になった」

などという話があったとされるほどにBC級裁判のデタラメなことは、
肌身で感じるレベルでこれをよく知悉していたことでしょう。

ブレイクニー弁護人のように、ファーネス大尉は東京裁判の後、
日本に残ることを決め、東京で法律事務所を開きました。
その後、いかなるきっかけかはわかりませんが、映画出演に意欲を示し、幾つかの映画に俳優として出演しました。

おかげで我々は彼の姿を今日もDVDで確かめることができます。

外国人俳優など気軽に呼んでこられるような状態ではなかったこのころの日本で、
ファーネスのような「外人俳優」は大変貴重な存在だったと見え、
彼は俳優として何本もの映画やテレビドラマに出演しています。

東京裁判を扱ったものには全部で4本。
のちに東京裁判で絞首刑になった唯一の文官廣田弘毅を描いた「落日燃ゆ」がテレビドラマ化された時には、
かつて自身が東京裁判でやりあったウィリアム・ウェッブ裁判長を演じました。


それ以外では、1954年度作品の「ゴジラ」以降、流行りとなっていた仮想科学もの
(それは円谷英二の手によって1966年のウルトラQ、怪獣ブームにつながっていく)に、
外国人科学者の役で出ることが多かったようです。

 

「妖星ゴラス」より。
国連で、人類の危機に国境を越えて立ち上がるべき、と声を上げるアメリカ人科学者を演じています。



この映画の役名はフーバーマン博士です。
アメリカ人でもドイツ系の名前というのがそれらしいですね。



国連のシーンでは我らが池部良がカッコよく演説。
池部さんは主人公で日本人科学者の役どころです。



地球に接近する妖星ゴラスの軌道をそらすことに成功し、喜びに沸く地球防衛科学省。



この映画についてもそのうちお話ししたいのですが(面白かったので)
なかなか最後は突っ込みどころ満点です。

地球が壊滅することは防いだものの、いろいろあって東京は水没。
いやこれ、日本はもうすでに壊滅状態だろ?という状態なのですが、
とりあえず地球が無事ならなんとかなるさで映画は終わり。
ちなみに富士山麓のここには水一滴きておりません。



こちら、「地球防衛軍」より。
こちらでの役名は「リチャードソン博士」。

日本で一番偉い科学者に志村喬、そして地球防衛軍の基地司令
(これ、つまり自衛隊ってことなんですけどね)に、藤田進がキャスティングされています。
ファーネスと藤田の間にいるのは、なんとびっくり(したのはわたしだけかもしれませんが)
ヘンリー大川こと大川平八郎。


「燃ゆる大空」について書いたとき、このヘンリーがコロンビア大学卒で飛行機のスタントもしていて、
実家はグンマーかサイタマーかイバラギーの名家という話をしましたが、
彼はこの映画で通訳を演じ、達者な英語を披露しています。




リチャードソン博士を熱演するファーネス。
日本語でも演技しています。
渋いおじさんですよね。



「地球防衛軍」は、ミステリアンとの戦いに、α号、β号という空中戦艦を駆使して戦います。
そのどちらかに乗っている司令部の皆さん。
宇宙戦艦にこんな「素」で立ったまま乗っていられるのか?というツッコミはさておき、
この空中戦艦によって侵略者ミステリアンのアジト、ミステリアンドームを破壊することに成功する地球防衛軍。

「地球をミステリアンの二の舞にしてはいけない」

と志村喬が決めゼリフを。
ミステリアンは水爆の使いすぎで星を失ってしまったんですねー。
ファーネスはこの場面で右から三番目にいます。



ジョージ・A・ファーネスはニュージャージー州の生まれ。
ハーバード大学で法律を学び、ボストンで弁護士をしていました。
1942年に日米が開戦したとき、ファーネスは陸軍に召集され、法務関係の任務で南西太平洋を転戦していました。


戦後に手がけたのが、あの本間雅晴中将がバターン行進の責任を負われた裁判です。

バターン行進では、状況が過酷で捕虜が次々と死亡したためこれを残虐行為と糾弾されたのですが、
実際のところ、もし後送しなければ状況的に全隊が壊滅していたともいわれ、
その指示をした本間中将を虐殺の罪で処刑にすることは、実は裁く側にも無理筋と思われていたようです。

裁判では、本間の高潔な人格がむしろ浮き彫りにされました。
ファーネス大尉ら弁護団は、アメリカ連邦最高裁判所に人身保護例を求めましたが、
有罪、死刑の判決は翻りませんでした。

無理に本間を処刑にしたのが、「コレヒドール敗軍の将」だったD.マッカーサーで、
一説には彼の”復讐”であったとも言われています。

ファーネス大尉にとって初めての日本人弁護が本間雅晴中将であったことは、
もしかしたら彼の日本軍人、ひいては日本という敵国に対する考え方を随分変えたのではないかとわたしは想像します。


東京裁判の弁護人に決まり、来日したファーネス大尉は、まず主任弁護人の清瀬一郎博士を訪ねました。
裁判の方針を聞くため、そして裁判の「隠し球」及び「牽制球」の提案をするためです。

「ドクター清瀬、初歩的な法廷闘争戦術ですが・・」

こう前置きしてファーネス大尉が清瀬博士に述べたのは、
なんと裁判長のウェッブ卿と判事の「忌避申し立て」をすることでした。

ウェッブ裁判長は本国オーストラリアで日本を訴追する裁判において
残虐行為に関する調査を行い、つまり証拠集めをしており、検察官として関わっていました。

検察官が裁判官を兼ねることは許されていないので、ウェッブ卿には「資格がない」というわけです。

児島譲著「東京裁判」では、ファーネス大尉は

「祖国のために軍服は着たが、偏見を嫌い、公正を尊ぶ弁護士精神に変化はなかった」

と評されています。
本間中将の裁判のときも、ファーネス大尉は

「バターン攻撃戦はマッカーサー元帥にとっては日本軍の包囲を危うく突破した負け戦である。
かつての敗者(マッカーサー)が今は勝者となり、かつての勝者をさばくのである。
偏見を抜きにした裁判は不可能であり、ゆえに裁判は無効だ」

と主張して上官を慌てさせ、

「弁護士であっても陸軍軍人である貴官が、
指揮官に対して負け戦という言葉を使うのは不敬で、これは陸軍刑法の対象になる」

と説得されて

「それじゃ、負け戦と言わずに
”マッカーサー将軍の作戦が不成功に終わった戦い”とします」

と言い放ったという経歴がありました。
東京裁判において裁判の公正さが堅持されているかについてファーネス大尉は何よりも注目し、
ウェッブ裁判長の経歴、そして英語の理解できないフランス人及びソ連の判事に
『資格なし」を突きつけることを弁護の初手としたのでした。


ファーネス大尉の作戦指示によって、東京裁判開廷直後、主任弁護人の清瀬一郎が、

「正義と公平の要求のために、サー・ウィリアム・フラッド・ウェッブ閣下が
この裁判をなさることは適当でないということ」

を申し立てました。
その理由を清瀬弁護人が途中まで話したとき、ウェッブ裁判長は話の途中で声を震わせてまくし立てました。

「私は、それらが私が裁判長としてここに座ることに
関係があると思いません。当法廷は休廷を宣します」

ウェッブ裁判長は法律家として自分が報告書を提出したことが
検察行為として裁判官の資格を失うことをよく知っていました。
つまり痛いところを突かれたのです。

法廷は騒然となりました。
ジョセフ・キーナン検事が清瀬弁護人を押しのけて自分が発言しようとしましたが、
清瀬弁護人は台にしがみつき、そのまま低い背をまっすぐ伸ばし、
血色の悪い顔を向けて赤ら顔のキーナン検事を凝視し続けました。

この時に記者席にいたアメリカ人記者が嘆声をあげました。

「痩せたヤギが太った大鷲に噛み付いている」

 

ウェッブ裁判長は顔を蒼白にして退廷してしまい、その後を引き継いだ別の判事が
「マッカーサーの名において」任命された法廷はどの判事も退廷させることはできない、

「だから忌避申し立ての動議は却下する」

とあっさり宣言しました。

法廷はマッカーサー総司令部の一部局といわんばかりであり、東京裁判は法理に従う法廷でなく、
行政処分を行う役所だと告白したに等しい。(児島)

忌避申し立てによって裁判を「ぶっ潰す」計画は予想されたことと言いながら、このように回避されたのです。


このように米人弁護人たちの個々の法律家としての矜持は日本側の認めるところではありましたが、
やはりここは「国家弁護」にもっと親身になってもらおう、ということで、
料亭に特別ゲストとして高松宮殿下をお招きし、彼らのために一席設けたということがありました。

アメリカ人たちは天皇陛下の弟宮のご臨席にいたく感激し、
全員が慣れない正座をして殿下を玄関にお迎えしたそうです。(かわいい)
このときにファーネス大尉が高松宮殿下に

「殿下、たしか(海軍)参謀もおつとめになられて・・」

と戦争論議に水を向けると、殿下は一枚上手で、

「I am  just a sailor. 」

と軽くいなされたということです。

ところでファーネス大尉の弁護した元外交官重光葵は、死刑は逃れたものの禁固7年の有罪でした。
重光を戦犯として裁くことは、ソ連がノモンハンの責任を問うため無理やり主張してきたので
連合国側はそれを拒否できなかったという「大人の事情」があったようで、
「あの」キーナン検事が結審後、ファーネス大尉に向かって手紙をよこし、

「重光が有罪になったのは誠に心苦しい。
もともと彼が裁かれること自体が間違いだったが、彼のような経験と信念の士を将来の日本は必要とするだろう」

と陳謝とも取れる心情を吐露しています。

清瀬一郎はその回顧録で、

「キーナン検事にの裁判中の態度については、私も、少しかんしゃくにさわったこともないではなかった。
しかしこの手紙は誠意のこもったものとして認めなければいけない。
我が国の検事中にだれがこんな手紙をかける人があろうか」

と感嘆していますが、キーナン検事もまた職務にあっては忠実で、
「私」を捨てていたということの実証ではないでしょうか。
逆を返せば、キーナンが弁護人の立場に回っていたら、
彼はブレイクニーやファーネスのような法戰を駆使して自国を糾弾してでも日本の正当性を主張したはずです。



東京裁判が終了後、ファーネスは弁護人としてB級裁判での豊田副武海軍大将の弁護を引き受けました。
あのブレイクニー少佐とタッグを組んで無罪を勝ち取ったのですが、
このときファーネス大尉は、豊田大将に有利な証言を入手するために、
東京裁判で処刑が決まった東条大将に面会をしたことがあります。

会話の途中で、ファーネス大尉は、アメリカ最高裁判所の訴願(東条大将の)
と処刑が延期になりそうなことを伝えました。
すると東条大将は手錠で繋がれていない左手で持っていた書類を投げ上げ、金網の下の台を叩いて叫びました。

「刑の執行は早いほうがいい。コン畜生!」

そしてすぐに平静になったのですが、ファーネス大尉は
東条大将の巣鴨で送る過酷な死刑囚としての生活を垣間見て粛然と頭を垂れたということです。



日本人、戦犯と言われた人々と弁護人という立場で向かい合い、そして法の番人として、
誠実に自分の職務を果たしたファーネス大尉は、
その過程でおそらく日本という国を愛するに至ったのではないでしょうか。


日本人を弁護することは彼らにとって法律家としての信念となんら曲げることなく、
むしろその任務は法に公正にあり続ける「正義」の立場であると信じてやってくれたのでしょうし、
この戦勝国によって敗者を裁く裁判の不当性を誰よりもよく知ればこそ、
弁護人という立場を超えた被告たちへの同情もあったでしょう。


戦後のファーネスが、弁護士活動を日本で続けながら俳優としての仕事を楽しんでやっていたらしいことは、
彼に対する日本人からのお礼、あるいは恩返しであったようにも思えます。
ファーネス弁護士が日本に対して為そうとしてくれたことを、当時の日本人がよく理解していたからこそ
「俳優・ジョージ・A・ファーネス」は誕生したのに違いありません。


ところで、俳優ファーネスの「デビュー作品」ってなんだと思います?
1957年の日活作品「海の野郎ども」という裕次郎映画に、

「船大工」

のちょい役で出ているというのですが、
・・・・・・・船大工?・・
 

 

 



 




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