年末に参加した護衛艦「いせ」艦上での戦艦「伊勢」慰霊祭。
この日「いせ」には少ないながら一般の参加者が乗り込んだのですが、
いわゆる「体験航海」といっても一般に募集されたものではなく、「伊勢」の遺族、
「いせ」の後援会、そしてその人たちが「厳選して呼んだ知人」といった陣容でした。
この参加者に、お祖父さんが「伊勢」に乗っていたという方がいました。
「伊勢」という名前はそのお宅では普通に馴染みの深いもので、
特に戦艦や護衛艦にさして興味のない彼女でも
「いせ」という「おじいちゃんのフネと同じ名前」の護衛艦を知ったときは
「大変興味を持った」ということでした。
そして幾つかの偶然があり、彼女は今回「いせ」で行われる「伊勢慰霊式」に、
遺族としてではなく、誘われたという立場で参加することになったということです。
ホテルのロビーでグループが集合したとき、早速彼女は祖父愛蔵貴重なアルバムを
そこで立ったまま開き、そこにいたヲタ達は貴重な写真に騒然となったわけですが、
その後「いせ」に乗艦し、士官室で出航を待ったりしているときにも
アルバムは皆に興味深く回覧され、その中には「いせ」の乗員もいました。
わたしも皆がそうしたようにアルバムの写真を撮らせていただきましたが、
今日はその中から、おそらく彼女のお爺さんが購入したのではないかと
思われる写真を、ご本人の許可のもとにご紹介させていただきます。
冒頭写真は観艦式における受閲部隊を「伊勢」の主砲の間から撮ったものです。
「これはいったいどこに立って写しているんでしょう」
わたしが呟くと、近くにいた人が
「それはここだよここ、来てごらん」
と模型の前に連れて行かれました(笑)
「伊勢の主砲はこことここにあってね・・」
主砲がどこにあるかくらいはわたしにもわかります。
「どこに立っている」というのは筒の上なのか他の場所なのかという程度の意味だったのですが、
まあいいや(笑)
ところで冒頭写真、「伊勢」の後ろを航行しているのはなんでしょうか。
この写真がいつのものかなどは一切わからないので、もしこれが
1927(昭和2年)の大演習観艦式ならそれは「日向」、
1930(昭和5年)の特別大演習であれば「長門」、
1933(昭和8年)なら「足柄」、
紀元2600年の帝国海軍最後の観艦式となった特別大演習なら「山城」。
観艦式の資料によるとこういう絞り込みが出来ます。
この間には「火垂るの墓」で描かれた神戸での観閲式などもありますが、
伊勢が参加した大規模なものとなるとこの4隻のどれかということになります。
それから艦隊の上を飛んでいるのが90式艦上戦闘機のようにも見えるので、
だとしたら時期的に昭和5年以降ということは確かです。
先日購入したばかりの(笑)「写真・太平洋戦争の日本軍艦 大型艦」を見ると、
どうもこのシルエットは「山城」に思われるのですが、いかがなものでしょうか。
水兵服が見えることから海軍陸戦隊ですが、小官恥ずかしながら、
銃火器の種類はさっぱりというか、あまり調べる気がないのでなんなのか全くわかりません。
「中国大陸ですか」
とアルバムの主に聞いてみたのですが、どうやら違うとのこと。
国内で演習でもした時のものでしょうか。
これはどうやらお祖父さんが航空訓練を受けていた時のもののようです。
練習機だと思うのですが機種が判然としません。
複葉機ではありませんが、足の間につっかえ棒みたいなのが見えますし・・・。
どなたかお分かりの方おられますか?
ここからの一連の写真は皆靖国神社で撮られています。
おそらく例大祭などの時ではないかと思われますが、
そのすべてに説明が全くないので、この人物も名前がわかりません。
陸軍軍人であった皇族のどなたかであると思われるのですが、
何しろ陸軍に籍を置かれた皇族の方々は昭和天皇を始め28人もおられたので・・。
靖国神社拝殿の階段をお降りになる天皇陛下。
後ろに陸海軍軍人が一人ずつ付き添っていますが、左側は南雲忠一・・ですよね?
これはわかります。近衛文麿公ですね。
どう見ても総理大臣としての参拝です。
これが第一次内閣が成立後に行われた公式参拝だとすれば、
間も無く起こった盧溝橋事件を受けて、中国との間に戦闘が起こることになり、
これが日本の運命を大きく変えていくことになるのですが・・・。
近衛の後ろを歩いている人物は牛場友彦。
東京帝国大学、オックスフォード大学を卒業した近衛の秘書官です。
日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務めるなど
財界の大物になり、弟の牛場信彦は白洲次郎の伝記にも登場していた外交官です。
このとき1901年生まれの牛場はおそらく36~7歳だったはずですが、
年より若く見え、いかにも切れ者のような怜悧な眼の光をしています。
インターネットで牛場友彦の写真はどこをどう検索しても出てこないため、
もしかしたらこれは貴重な一枚なのかもしれません。
この人物は荒木貞夫のようも見えますがいかがでしょうか。
陸軍人であるのにもかかわらず軍服を着ていませんが、もし荒木だとしたら
第一次近衛内閣では文相を指名されたときの参拝なのでつじつまが合います。
わたしが士官室でビデオを見たりおしゃべりしていると、
アルバムを見ている一団からこちらに来るようにと声がかかりました。
行ってみるとこの写真のあるページを指し示し、
「山本五十六がどこにいるかわかる?」
わたしが0.1秒の速さで左側を指差すと、
「わかる人がもう一人いた~」
と周りの皆さんが盛り上がっています。
どうやらそこにいた人々(アルバムの所持者含め)の中で
山本五十六の顔を知っているのは一人だけだったようです。
山本五十六の顔がわからない人なんているの?などと今なら思いますが、
よく考えたら、それもこれだけ4年半の間ほぼ毎日のように海軍のことを考えて
生きてきたからこそ当然のように思えるだけで、もしかしたらわたしも
5年前ならわからないうちの一人だったのかもしれません。
さて、この写真ですが、上のものとは同じではなさそうです。
というのも靖国神社の鳥居をくぐってくるのが海軍軍人ばかりで、
天皇陛下のご列席があったとしたらこんなラフな感じで参拝しないだろうからです。
皆さんはこれ、なんだと思いますか?
あくまでも推理なのですが、ヒントは五十六の右の人物。
これ、嶋田繁太郎ですよね?
嶋田と山本五十六は兵学校32期の同級生。
そして1940(昭和15)年11月15日、この二人、全く同じ日に
海軍大将に進級
しているのです。
海軍において大将に進級した時に靖国を参拝するかについては、
詳しいことはわかりませんでしたが、もしこの写真が進級の後
靖国にそれを報告するような形で参拝したときのものであれば、
嶋田と五十六の二人が仲良く並んで歩いて行くのも納得できます。
実はめっぽう仲が悪いと評判の二人だったのですが。
ところで海軍兵学校32期の中で、この二人だけが大将になったわけですが、
山本五十六の卒業時のハンモックナンバーは11番、嶋田は27番(192名中)です。
二人とも恩賜の短剣には無縁だったわけですが、それでもここまで出世したわけで、よく
「海軍はハンモックナンバー偏重」
と言われるわりにはこういう人事もあるのだということです。
もっともこの学年のクラスヘッドだった堀悌吉は、
「神様の傑作、堀の頭脳」
と言われるほどの伝説の秀才だったのですが、大角人事で
予備役に追いやられ、すなわち海軍をクビになってしまったという、
いわば変則的な学年であったと言えないこともありません。
嶋田繁太郎は同じクラスの堀のことを大変評価していたため、戦後
「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」
と言っていたことがあるそうです。
確か自分も海軍大臣だったわけだけど、そのことはどうなのかな(笑)
映画「聯合艦隊司令長官山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」
(長いんだよこのタイトル) でも縷々描かれていたように、
堀は”戦争自体は悪である”との考えを持っており、堀と親友でもあった
同期の山本五十六もまた戦争には最後まで反対であったとされます。
これらのほかにもアルバムの写真には米内光政など海軍の高級将官の写真が数多くありました。
「こんな写真、どうやって撮ったんでしょうね」
「撮ったんじゃなくて売ってたんじゃないかな」
海軍内でもしかしたらこれらは販売されていたのかもしれません。
というかアルバムには一切覚書などのメモすらなく、何の説明もつけられていません。
どうやらお祖父さんはあまりそういう方面にマメではなかったようです。
ページをさらに繰って行くと、どこかはわからない水辺に、まるで
丸太をくり抜いたような船が浮かべてある写真がありました。
うーん・・・・どこかでこういう船のことを調べたことがあるぞ。
「あ、これ、サバニ船っていうんじゃなかったですか」
一同、返事がありません。
「あの久松五勇士が乗っていたという・・・」
それをわたしが言った途端、そこにいた男性二人が
「ちょっとなんでそんなことまで知ってるの」
「女の人の口から久松五勇士という言葉を聞こうとは思わなかった」
と口々におっしゃいました。
女が久松五勇士を知っていたっていいじゃないか ヲタだもの みつを
ところでつい最近、わたしの言論について
「女の人でそれだけ考えをまとめて話せる人は見たことがない」
とある知人から言われたということがあったのですが、あくまでも数の問題で、
男性は左脳型の人が多く、女性は右脳型の人が多いという程度の違いではないですかね。
ちなみにわたしは左脳優位か右脳か、というテストをしたら
「右左脳」(直感的に捉え論理的に分析して処理)
であるという結果が出ます。
閑話休題、久松五勇士で驚かれてしまったわたしですが、
その後少しだけそれらの話に三人で花を咲かせました。
「8時間船を(サバ二船ね)こぎ続けて八重山についてから、
郵便局は島の反対側にあったんですよね」
「そこから休まず走り続けてねえ」
「あの僻地みたいなところの住人が、ロシア艦隊を
日本が血眼で探しているってことを知っていたんだからすごいですよ。
新聞も来ていなかったというのに」
「いや、やっぱり日本人として今は国難の時と思ってたんでしょうね」
初めて会う人たちなのにどうしてこんなに話がはずむのかしら。
それはやっぱり同好の士というかヲタ同士だから?
オタクは国境も超えるのだから、年齢性別などさらになんの障害にもなりません。
「それにしても、このアルバムもったいないねえ」
お一人がアルバムの主に言い出すと、
「これ、売ったらすごいお金になるよ」
と別の人。
彼女は
「これは絶対に売ったり譲ったりできないんです。
祖父の遺言で・・うちの家宝みたいなものなので」
先代が亡くなって1週間くらいしか経っていないのに、遺品の刀を刀剣の里に持ち込んで
お金に変えようとするような人も世の中にはいたりするわけですが(笑)
彼女のお家は全く逆で、伊勢の乗組員であったお祖父さんを誇りにしており、
それゆえにそのよすがとなるこれらの写真を門外不出にして大事に所蔵し、
ただ家の宝として、これからも子々孫々に譲り伝えていくつもりなのでしょう。
昔靖国神社境内で行われていた古物市で、一人の軍人の名残り、
軍籍簿や写真、書類の一切合財が3万円で売られていたのを見たことがあります。
古物商に
「どうしてこんなものがここで売られているんでしょうか」
と聞くと、
「遺品整理だね」
ということでした。
遺品を売ってなけなしの金額を手にするというのも、なにやら殺伐とした印象があるのですが、
それを管理していた人が孤独死してしまったなど、いろいろな事情もあったのでしょう。
逆に彼女のうちのように、自分の身内の個人史となる写真を、
それがいかに貴重なものかということを全く知らないまま、
家の蔵などにしまいっぱなしのままの家庭というのも、実は
この日本にはたくさんあるのではないかという気がしました。
「これ、どこか博物館か資料館みたいなところに出して
ちゃんと管理してもらったほうがいいんじゃないの」
彼女はそういわれて
「そうですか・・・」
と曖昧な表情を浮かべていましたが、もしそうしたときに
二度とこれらの写真が手許に戻ってこないという可能性があるかぎり、
彼女のうちの人々は、今後もそれを決してしないのではないかなあ、
とわたしはその横顔を見ながらそんなふうに思ったものです。