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海軍兵学校同期会~帝国海軍の遺したもの

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「広島に原爆が落ちた時の話はしたかな」

Sさんが話の途中でこう言いました。
兵学校同期会の会食の席で、わたしは正面に座った元生徒に

「8月15日の原爆のときはどうしておられましたか」

と聞いて、周りの何人かから思い出話を伺ったのですが、
Sさんからはまだ聞いたことがなかったので首を横に振ると、

「兵学校の稼業は8時に始まるので、僕のクラスは化学の実験室で実験の用意をしていた。
8時15分になった時、目も眩むような閃光があって、しばらく経ってから轟音が聞こえてきたんです。
窓から音のした方を見たら、キノコ雲が見えましたよ」

当時は原子爆弾ということはすぐにわからなかったため、皆は「特殊爆弾」と呼んでいたそうです。
わたしが会食の時に聞いた元生徒は何度も

「終戦になって順次疎開することになり、広島駅にいくと
駅だったところにプラットホームだけがあるんだよ。
あとは瓦礫の山だけ」

といっていましたが、Sさんも全く同じ情景を胸に刻み込んだそうです。

「そのときは驚いてそれ以上のことを考えられなかったが、後から考えたら不思議でね。
だって、8時15分でしょう。
広島駅にはたくさんの人がいたはずで、駅舎が跡形もなくなったということは、
あそこで大量に人が死んでいたはずなのに、そのときにはもう一体も屍体を見ることがなかった。
それで、僕は何かの講演の時にそのことを話したんです。
そしたら、聞いていた人の中に二人陸軍にいた人がいてね。

どちらも陸軍の駐屯地で被爆して、壁際にいたとかで助かった人たちなんだけど、
陸軍は直後にまず生存者を集め、隊内の犠牲者の遺体を片付け、負傷者を手当てし、
すぐさま街に出て、まず広島駅の周辺の遺体を片付けたそうです」

当時広島には第五師団の広島師管区がありましたから、
おそらく彼らはここの歩兵であったと思われるのですが、
自らも傷つきながら陸軍は瓦礫の整理により交通を確保し、
線路が使えるようにしてから遺体の収集に当たっていたというのです。

広島について書かれたどんな情報にも、軍が被爆直後から動き、
直後の混乱に対応したなどということはなかったので、わたしはこの話に少し驚きました。

あのNHKに至っては、

「原爆投下を日本陸軍は事前に知っていて、広島・長崎の人々は、
原爆投下目的らしき任務のB29が飛来してきた情報がありながら、
参謀本部の判断で、空襲警報も迎撃命令も出されぬまま犠牲になった」

という、それなんて沖縄、なトンデモ陰謀説ををまことしやかに放映して、こんな形で

「投下したアメリカより悪かった帝国陸軍」

という印象づけをしていたくらいですから、ましてやこの手のことは
マスコミによっては全く流布されてこなかった真実ではないでしょうか。

わたしなど、もしNHKがいうように「陸軍が投下を知っていた」のならば、
どうしてルーズベルトが真珠湾から主要艦を避退させたように、
広島の陸軍に対して何の対策も講じなかったのか、と思うわけですが。


さて、兵学校でも「特殊爆弾」について噂は流れていましたが、
やはりその2週間後に日本が負けるなどとは、生徒たちには夢にも思わないことでした。

「1号は知っていたんじゃないかな。
図書館で新聞を閲覧することも許されていたから」

昭和20年8月15日の江田島は、無風快晴となりました。
平日より15分早い11時30分、「食事ラッパ」が鳴り響き、
不思議に思いながら食堂に急いだ生徒に対して、当直幹事は

「本日1200から天皇陛下の御放送がある。
全員急いで食事を済ませて、第2種軍装に着替えておけ」

と命令してから着席を命じました。
生徒たちは食後歯を磨き、入浴して身を清めてから、新しい下着と
白い軍装に着替えて部幹事室に集合しました。

玉音放送は誰にとってもほとんど聞き取れませんでしたが、

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」
「・・・・やむなきに至れり」

などという言葉や、前列の1号たちが泣いているのを見て、これは負けたのだとSさんは察しました。


午後1時、千代田艦橋前に整列した4,500名に対し、
副校長の大西新蔵少将は

「我々の祖国は降伏した。日本は完全に敗れたのである。
このように冷たい現実の前に立った我々が血気にはやって軽挙すれば、
かえって日本の立場を不利にする口実をつくらせるだけである。
諸子はくれぐれも自重せよ」

と訓示をし、広い練兵場を埋め尽くした生徒たちは
今度はほとんど全員が泣いていたということです。


午後2時。

江田島の上空に海軍の夜間飛行機「月光」が2機飛来し、
低空で飛来しながら伝単(宣伝ビラ)を撒きました。
それには

「戦争終結の事、聖断に出ずれば我ら何をか言わん。
然れども、こは敵の傀儡たる君側の奸の策謀にすぎず。
帝国海軍航空隊◯◯基地は断じて降伏を肯んずるものにあらず。
これより本機は沖縄に突入せんとす。
諸子は七十余年の光輝ある海軍兵学校の伝統を体し、最後の一員となるまで本土を死守し、
以って祖国防衛の防波堤となるべし」

副校長の「自重せよ」の訓示から1時間も経たぬうちに、
それとは正反対のアジテーションが行われたのです。

さらには終戦3日後の18日、司令塔に菊水のマークをつけ、
八幡大菩薩の幟を立てた潜水艦3隻が江田内に入ってきて、
白鉢巻姿の乗員が手に日本刀を振りかざしながら、悲痛な声で徹底抗戦を呼びかけましたが、
生徒たちはそれに対して礼儀正しく答礼したのみでした。

生徒たちは、飛行機の伝単の後、生徒監事から

「くれぐれも軽挙妄動は慎むべきである」

と訓諭を受けていたのです。

それから間もなく、生徒たちには「休暇帰省」が発令されました。
8月21日の朝、四国地方出身の生徒を乗せた船が表玄関でもある
表桟橋から出航して行ったのを皮切りに、次々と故郷に向けて復員して行きました。

「近くの出身で、カッターで家まで帰った連中もいたな」

江田内からこれを最後に漕ぎ出す時、彼らはどう思ったのかとか、
故郷まで漕いで行ったカッターはその後どうしたのかとか、
わたしは瞬時に色んなことを考えてしまいました。


江田島では重要書類をいかにして守るかについて
なんども教官の間で議論が交わされていました。

東郷元帥の遺影や貴重品は宮島の厳島神社などに奉納し、門柱にはめてあった
「海軍兵学校」の勝海舟の筆による門標は江田島の八幡神社に預けられましたが、
大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品、戦死した先輩が遺した遺品、
軍機文書は焼却することになり、生徒たちは3日間にわたって練兵場で焼却作業を行いました。

彼らは燃え上がる炎を囲んで滂沱の涙を流しながら、
軍歌を合唱し続けたということです。

復員は8月24日に完了しました。

10月になって、故郷に帰った彼らの元には修業証書(卒業ではない)が送られてきましたが、
それには最後の兵学校校長だった栗田健男中将の校長訓示が添えられていました。


これらの話をしてくれたSさんのご尊父は海軍中将で、
栗田中将はかつてその部下だったこともありましたから、
父親は休みの日には是非遊びに行くように、と息子に指示したのだそうです。

どんな教官でも生徒が休暇に遊びに来ると歓迎するのが常で、
「じんちゃん」と親しまれ生徒に人気のあった草鹿任一校長など、
夏場遊びに行くと褌一枚で出てきた(気さくすぎる?)
とわたしは別の兵学校卒業者から聞いたことがあります。

しかし、栗田校長はその頃すでにあのレイテ沖での「謎の反転」で
主に海軍内から非難を浴びていたこともあって、世間に対して

「俺にはもう何も聞かんでくれ」

状態だったせいなのか、S生徒が遊びに行っても「門前払い」だったそうです。


「でもね、あの訓示は素晴らしかったですよ」

Sさんはそう言って栗田校長の訓示を見せてくれました。

「百戦効虚しく、4年に亘る大東亜戦争茲に終結を告げ」

で始まる名文の訓示は、生徒たちのこれからを

「諸子が人生の第一歩において、目的変更を余儀なくせられたことをまことに気の毒に堪えず。
然りと雖も、諸子は歳歯なお若く頑健なる身体と優秀なる才能を兼備し、
加えるに海軍兵学校に於いて体得し得たる軍人精神を有するを以って、
必ずや将来帝国の中堅として、有為の臣民と為り得ることを信じて疑わざるなり」

「惟うに諸子の先途には幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし」

「諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん」

「海軍兵学校たりし誇を忘れず、忠良なる臣民として有終の美を済さんことを希望して止まず」

と訓じ、激励して終わっていました。



海軍兵学校はこうやって77年の歴史を閉じました。
終戦の時点で兵学校に在学していたのは、4期合計で15,129名、
これはなんと、77年間のそれまでの兵学校全卒業生より4、000名も多い生徒数でした。

敗戦を見越して海軍が「戦後の復興に役立つ人材を集める」
という目的で大量に生徒を採用したという説も、この数字を見ると納得できます。

この多くの兵学校在校生は、周知のように日本の戦後再建において大きな原動力となり、
戦後の各界の要職を占めて居ました。
わたしは今回の旅行でその一部を垣間見たにすぎませんが、
彼らの実績は間違いなく今日の日本を作り上げてきたことです。


亡き帝国海軍が未来の日本に遺した最大の遺産とは、
かつて兵学校で学んだこれらの人々だったのではないでしょうか。

わたしの尊敬する元海自士官は、このことについてこう述べています。


兵学校77期、78期という、終戦が目に見えているような時期に、
海軍がなぜそんなに大人数を採用したのか。
海軍はそんなに先が見えていなかったのか。
あたら有能な若者を死地に追いやろうとするような組織だったのか。
こういう疑問は素朴に湧いてくることです。

その疑問に答える、このような説があります。
『帝国海軍が戦後の日本復興のために行った最高の作戦』と。

敗戦後の日本復興のため、血気にはやる若きBest & Brightest を
一人でも殺さないで、後の世に残すためだと。

どこにもその説を裏付ける証拠はありません。

でも、あのおじいちゃんたち一人ひとりの人生を見ればわかります。
兵学校を卒業しなかった若者たちが日本の再生復興のため、
その生涯をどんなに見事に祖国のために捧げたか。
そして敗戦国日本がどんな国になったか。

やはり日本海軍は偉大でした。 



 


 


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