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映画「アメリカン・スナイパー」~英雄の心的外傷(PTSD)物語

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クリント・イーストウッド監督作品、「アメリカン・スナイパー」を観ました。

 イラク戦争の時にネイビーシールズのスナイパーとして味方からは
”レジェンド”、敵からは”悪魔”と呼ばれた実在の人物、クリス・カイルが書いた自伝に、
その後彼がたどった最後までを描いた映画です。

どうしてここまで全米中の熱い関心を呼んだかというと、自伝を書いたカイル本人が
2013年にPTSD(心的外傷、ポストトラウマチックストレスディソーダー)を発症した
元海兵隊員、エディ・レイ・ルースに射撃場でいきなり発砲されて死んだからでしょう。


カイルは、4次に亘ってイラクにスナイパーとして出征し、その戦場で
公式戦果160人、非公式255人のイラク軍兵士、アルカイダ系武装勢力を殺害、
イラクでは「ラマディの悪魔」と恐れられ、その命には懸賞金がかけられていました。

映画は、シールズ入隊後の「地獄の特訓」と、カイルと妻タヤとの出会いの描写に続き、
銃撃に非凡な才能を示す彼が実戦に投入されてさらにそこで本領発揮し、
「レジェンド」と言われるようになるまでをまず描くのですが、
その過程は、それが実際ににあったことだをいうことに思いをやりさえしなければ、
シューティングゲームで強い人がプレイしているのを見ているような気にさせます。


カイルは、自分が殺した人間のことを「悪いやつだからやった」と、ほとんどのアメリカ人が
第二次世界大戦で日本と戦った理由について聞かれたらそう答えるように答え、
後悔を感じるとしたらそれは救えなかった仲間のことだ、と言っていたようですが、
彼自身が思うよりずっと、彼は精神的には平均的な人間にすぎず、従って、
イラクでの戦闘活動を重ねるごとに、心的外傷に深く蝕まれていくのです。

映画ではその段階とともに、彼の心の闇が生む家族との齟齬をきっちりと描きます。


元海兵隊員に殺害されたときクリス・カイルは、すでに「生きているレジェンド」であり、
自伝を出版するくらい有名でしたから、不慮の死を遂げたあとは、国中がその死を悼み、
アメリカンヒーローとして その功績を称えられました。

そのこともあって、この映画も大変な話題と賞賛を獲得することになったのですが、
まず誤解を恐れずわたしの意見を言わせてもらうと、どの監督が手掛けようと、
彼を主人公にした映画は一定の成功を約束されていたのは間違いありません。

わたしがここでお話ししたいのは、そのヒーローをイーストウッド監督が「どう描いたか」です。


映画公開と同時にアメリカではこの映画は大変な評判となり、まず
保守サイトのブレイトバートは当初から

「 愛国的で戦争を支持する傑作」

と好意的に評価し、ジェーン・フォンダ、ジョー・バイデン、A・シュワルツネッガーなどが
感激したなどととして肯定的に支持しており、特に共和党政治家のサラ・ペイリンは

「私たちの軍隊、特に私たちの狙撃手たちに神の祝福を」

という言葉で映画を、というよりクリス・カイルを激賞しています。


しかし、これに対し、左派監督、マイケル・ムーアが反論の狼煙をあげました。

「僕の叔父は第二次世界大戦中、スナイパーに殺された。
彼らは後ろから打ってくるから臆病者だと教えられて育った。
スナイパーはヒーローなんかじゃない。侵略者はさらにタチが悪い」

このスナイパーというのは他でもない、日本軍の狙撃兵のことで、ムーアの叔父は
フィリピンのルーゾン地区で戦いを終えて、基地に戻ろうとしていたとき、ムーア曰く、
”諦めが悪くて知られていた”日本の狙撃手に、高い木の上から後頭部を撃たれて死んでいます。
さらにムーアは、

「1万キロも離れた場所から侵略してきた奴らから、自分たちの土地を守ろうと
銃を持って戦ってる人をスナイパーとは呼ばない。それは勇敢な戦士だ」

とツィートして、それは「大炎上」しました。
一般的にアメリカ人というのは右左関係なく「敵は悪である」という点では一致するものですが、
ムーアはアメリカ軍を侵略者といい、「タチが悪い」といい、あろうことか
「諦めの悪い日本兵と同じようなものだ」と決めつけたのですから、さもありなん(笑)

これに対し、

保守系のサイト、ブレイトバートは「哀れな”釣り師”だ」
ジョン・マケインは「馬鹿げてる」
キッドロック(ロッカー)は「お前のおじさんはお前のことを恥じてるよ」
先ほどのサラ・ペイリンは最も過激で、

「ハリウッドにいる左翼は光り輝くプラスチックのトロフィーは愛撫するのに、
自由を守ってくれる戦士たちの墓には唾を吐くのだ。
左翼はクリス・カイルに及ばないと、左翼ではないアメリカ国民が考えていることを
左翼は自覚するべきだ。」

と非難した上で、ある軍曹の叙勲式に出席した際、「ファックユー マイケルムーア」
と書かれたポスターを手にして、これは右左両陣営から非難を浴びてしまいました(-。-;


つまり、この映画はアメリカの保守・リベラルがこの映画の評価を通じて
真っ二つに分かれて激しく論争を展開する結果となったのです。
つまり保守系言論は狙撃手を英雄だとし、彼がパトリオットだと称え、
逆にリベラル派は、戦争を美化していると批判しているという構図。

今や オバマ大統領夫人ミシェルが参戦して映画を擁護するなど、ちょっとした
社会現象になっているというのですが、わたしが以前映画「大日本帝國」をそう断じたように、
この映画が現在形で「ウヨサヨ炙り出し装置」になっていることだけは確かなようです。


今回、わたしはマイケル・ムーアのインタビューを興味を持って読んでみましたが、
この人、頭が良くて、かなり納得させられるんですよね。

『アメリカン・スナイパー』に関して言えば、米兵をイラクの解放者として描いてる。
アメリカは彼らを解放してなんかしてない。認めた方がいい。
我々はベトナムでも、イラクでも、アフガニスタンでも失敗したって。
そう言えた方が将来は明るい。
自分たちの過失を、どうしておとぎ話のように語るんだ?そんなの、何ももたらさない。

おそらくアメリカ人は肌感覚として、あの戦争が間違ってるってことは分かってると思う。
イラクには大量殺戮兵器なんてなかった。
4400人のアメリカ人の子供と数え切れないほどのイラクの人々が犠牲になったことも知ってる。
その根底には、深い罪の意識があるんじゃないか。


しかし、彼は映画に対する感想を聞かれて、

「この映画が戦争やスナイパーを美化している」

とは直接言ってはいません。
ただ、彼に対して寄せられた大量のメール、たとえば

「クリス・カイルは米軍を守った。彼らの命を救った。」

などいう意見には、

「救った」だって?
そもそも兵士の命を危険に晒すこと自体が間違いだっていうのに。
僕たちは過ちを犯した。自ら侵攻し敗北した。現実から目を背けてきた。
行った時よりも事態を悪化させた。

と反論しているんですね。

ふーん、言うなあ、マイケル。

いや、わたしもね、この映画は戦争を美化なんぞしていないし、
クリス・カイルをヒーローとして描いてなんかいないと思いましたね。
これを見てカイルをヒーローだと思う人間がただいるというだけで。


カイルは、自分でも自分が徐々に壊れていくのを自覚しながら、
そして妻が行かないでと止めるのにも関わらず、何度もイラクにに「戻って」いきます。
いつからかそれはそれが元オリンピックのメダリストであった「ムスタファ」という名の
イラク側のスナイパーと決着をつけるためになっていくのです。

そして、2キロ先に潜伏しているムスタファを狙撃すれば、彼の、アメリカ軍の居場所が
近隣の敵に知れて総攻撃に遭うということがわかっている状況で、
カイルはやっぱり「宿敵」を撃つことをえらぶわけです。

もしかしたらそれをすることで自分が死ぬかもしれないのにもかかわらず。


このあたりにわたしは、クリント・イーストウッド監督がかつて俳優として演じた
「荒野の用心棒」や「夕日のガンマン」のような、西部劇のエッセンスを強く感じ、
もしかしたらイーストウッドは、西部劇の構図でこのスナイパーを描きたかったのかと思いました。


しかし、この映画は、「荒野の用心棒」でガンマン・ジョーがライバルのラモンに
敢然と立ち向かい、最後には倒した時のような爽快感を決して与えてくれません。
「プライベート・ライアン」で、皆が命を呈して救ったライアン一等兵が、
年をとってアメリカの国旗に敬礼するシーンのような感動もありません。

そういった単純なカタルシスを阻んでいるのは、ひとえにクリス・カイル自身が
苛まれていたという真に迫ったPTSDの描写です。

息子とじゃれあう犬を思わず本気で殴り付けようとしたり、
オイルチェンジの待合室で「あなたに命を救われたことがある」と名乗り出る
シールズの元隊員に対しては敬礼も返さず、挙動不審で目が泳いでいたり、
自分にだけ聴こえる銃声を聞きながら真っ暗なテレビの画面に見入ったり・・。


ここで思い出さずにはいられないのが、イーストウッド作品の名作(とわたしは思う)
「グラン・トリノ」のイーストウッド自身が演じた主人公コワルスキー。
朝鮮戦争の帰還兵で、そのとき己の犯した罪のPTSDが彼の後半生を
意固地で偏屈、神を信じないものにしたという設定でした。

あの「父親たちの星条旗」でも、擂鉢山の5人として英雄となった兵士たちは
戦後、戦闘と英雄として担がれたことの二重のPTSDに苦しんだと描かれました。


この映画を全編通して見る限り、クリス・カイルはただ信念を持って
250人のイラク人を殺害したと自分で言い切る以上に、
自分のしたことの罪に押しつぶされそうになった弱い面を持った人間として描かれ、
クリント・イーストウッド監督は、彼に、「ガンマン・ジョー」ではなく、
コワルスキーやアイラ・ヘイズに近いものを見ていたのではないかと思われました。


つまり、保守とリベラルでこの作品を挟んで大騒ぎするのは、全く監督の本意ではないし、
描こうとしたところはまったくそれらの論点の外にあるのではないかということなのです。


実在のクリス・カイルは、殺害された日、PTSDで心神耗弱となった元海兵隊員の
母親に頼まれて、そのケアを行うつもりで一緒に射撃に行っています。

そんな人間に射撃をさせて果たしてPTSDがなんとかなるものなのか、常識的に考えて
この対処が大間違いなのでは?とおそらく日本人なら誰でも思わずにいられないのですが、
すでにこのあたりの感覚が狂い出していることに、周りの誰もが疑問を持ちません。

そしてわたしが心底不気味だと思ったのは、その最後となる外出の前、
カイルは自分の妻にふざけて銃を突きつけ、さらにはその銃を子供にもふざけて向け、
その後、その銃を日本間で言うと鴨居のようなところにひょいと置いて出て行ったことです。

彼がPTSDの元海兵隊員に射殺されたというのは、実際にあったとは思えないほどに、
このアメリカン・スナイパーにとって実に象徴的な最後であり、その最後があったからこそ
イーストウッドは彼の映画を撮りたいと思ったのでしょう。


そして、たとえその悲劇が起こらなかったとしても、いつか彼のPTSDが
何かのはずみで銃と結びついた、別のとんでもない悲劇を起こしていたかもしれない、
という背中に泡立つような思いを捨てきれないのはわたしだけでしょうか。


全く音楽の流れない、長い長いエンドロールは、英雄の物語の終焉にしては
あまりにも多層的で相反する真理を内包しているかのように感じました。


クリス・カイルが元海兵隊員に射撃場で突如銃を向けられ、
同行したベテランと共に殺害される姿を映像で描かなかったのは、
彼のまだ幼い子供達に配慮してのことだといわれています。




 





 


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