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「古鷹」「青葉」「衣笠」~重巡第6戦隊の「山ガール」

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呉・長迫公園、別名呉海軍墓地についての続きです。
今日は山の名前、といっても名山ではない山を名前に持つ三隻の巡洋艦についてです。




「青葉」の碑は前にもご紹介したのですが、なぜまた挙げるかというと、
「大和ミュージアム」で撮った写真の中にこんなものを見つけたからです。

 

「青葉」砲塔の望遠鏡。
これが軍艦の望遠鏡の覗き口なんですね。
レンズは二つずつ付いていて回して変更するようになっています。
これによって焦点が変わるのでしょうか。

この望遠鏡のレンズを通して古賀峯一、三川軍一らが艦長時代海原を見渡した、
と思うと感慨深いものがあります。
古賀峯一大佐は5代目艦長、9代目が三川軍一となります。

古賀峯一はその後大将となって連合艦隊司令長官に任命されますが、
飛行艇(二式大艇)でミンダナオ島に向かう途中、低気圧に巻き込まれて行方不明になりました。
山本長官機の撃墜を「海軍甲事件」、こちらを「海軍乙事件」といいます。

あと有名どころでは、海軍主計科士官(主計中尉)で後に総理大臣となる
中曽根康弘氏が最初に乗艦したのが「青葉」。
それから、「ある少尉候補生のブラックアウト」で書いたことがありますが、
酩酊の末、あろうことか乗り組んでいるフネの艦長を殴ってしまった、
後の不沈潜水艦長、板倉三馬が、少尉候補生時代、艦長を殴ったその「沙汰」として
海軍をクビにならず「青葉」勤務を命じられたという栄光の歴史も()あります。


「青葉」も「伊勢」が甚大なる被害を受けた昭和20年7月24日、
そして大破着底した4日後の28日の「呉軍港大空襲」のとき、
「伊勢」のいた音戸沖とほど近い警固屋に、修理を諦められた状態で係留されていました。
このとき「青葉」は浮砲台として奮戦したのですが、やはり「伊勢」と同じように両日にわたって
米軍機動部隊からの攻撃を受け、大破したのです。

戦後そのまま放置されていた「青葉」は昭和21年11月、ようやく解体されました。

その際、この望遠鏡や菊の御紋章、主砲砲身尾部が取り外されてその名残として残っています。
ご紋章は術科学校、主砲尾部は大和ミュージアムで見ることができます。



重巡洋艦「青葉」は、大正13(1924)年、造船界の鬼才、平賀譲造船中将の手で造られました。
今日このあとお話しする「古鷹」型の欠点を改善し、発展強化した艦です。
大きな修正点は主砲が単装砲から連装砲になったことですが、平賀先生が
「古鷹型の艦体に連装砲は無理」と強硬に言い張ったので、上が平賀中将を欧州に調査に行かせて、
その間に藤本貴久雄少将に改装させてしまったという話があります。

後年、この藤本設計のミスで「友鶴事件」が起こっていますが、調べてみると、
「長門型」の屈曲煙突もこの人のアイデアだし、研究熱心で、何と言っても
平賀「不譲」とあだ名され、若干残念な人格だった平賀大先生よりは若干人望もあり・・。

大先生は藤本が気に入らなかったようで、研究成果を握りつぶしたこともあったそうですし、
おそらくは「友鶴事件」の後追い込みに圧力をかけたりしたにちがいない(あくまでも想像です)
のですが、その理由を手繰ると、このとき「青葉」の改装で自分が「外された」ことかもしれません。
(あくまでも推測です)


さて、同型の「衣笠」より少しだけ(5日)早い完成となったので、このタイプには
「青葉型」と名付けられることになりました。

この「青葉」、そして姉妹艦「衣笠」、そして「古鷹」は、「重巡は山」
という命名基準に即していずれも山の名前がついています。
「古鷹山」はいわずもがな江田島の兵学校を臨むあの山です。

ああ、「青葉」は青葉山からね、と納得したついでに「青葉山恋歌」を口ずさんだあなた、
この「青葉山」は仙台のあれとは違う、舞鶴市の「青葉山」で、分祀神社も別なのです。
舞鶴市の青葉山は、舞鶴鎮守府の近くにあり、軍港の海軍軍人におなじみの山だったのですね。



そして「衣笠」ですが、阿波国、徳島県にある「阿波富士」というあだ名の衣笠山とする
説が当時から流布していました。
しかし、「青葉」とのバランスを考えると、ここは徳島のではなく、

横須賀鎮守府の近くにある衣笠山

と考える方がすっきりします。
つまり、「青葉型」の命名基準は、山は山でも名山とかではなく
「海軍軍人にとっての馴染みの深い山」ということだったようです。





初戦のころ、ウェーク島の戦いなどで勝っていて余裕があったのか、
「青葉」には従軍作家の海野十三(うんのじゅうざ)が乗り込んでいました。

報道班員として「鳥海」に乗り込んでサボ沖夜戦を体験し「海戦」を書いた丹羽文雄は、
艦艇乗り組みの海軍軍人たちに、覚悟の点でも戦いの後のいたわり合いの点でも
美しいものを見、凄絶な海戦の様子と共にきめ細やかな筆致で書き残しているのですが、
海野もまた、彼らの 勤務態度に強い感銘を受けたことを記しているそうです。

ただ、「青葉」の居住性は作家にとって最悪だったようで、
そのことについてもさりげなく述べられているのだとか。(読んでません)


さて、「青葉」が最大の殊勲を上げたのは第一次ソロモン海戦です。
と「艦長たちの軍艦史」によると、「青葉」がこの海戦で20センチ主砲183発を
米軍重巡艦隊に撃ち込んだ、とあり、沈没した「ヴィンセンス」は
「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばしたのが致命傷だったようです。

この活躍で「青葉」は「ソロモンの狼」というあだ名を奉られています。

 

サボ沖の夜戦は前述の丹羽文雄が「鳥海」に乗り込んで著述していますが、
このとき「青葉」では米軍のレーダー射撃で32発の弾によって、
乗り込んでいた第6戦隊司令官五島存知少将と「青葉」副長が戦死しました。

この履歴で「カビエング泊地の遭難」とあるのは、ラバウルにあった当時、
敵の直撃弾一発が右舷機械室に命中し、直径10メートルの大穴が鑑腹にあき、
魚雷が爆発して一面火の海と化してしまったため、艦長は沈没を免れるために
カビエン(グ)の海岸に「青葉」を擱座させたときのことを指します。

このときの山森亀之助大佐(45期)の決断は的確で、「青葉」はその後
救難作業で浮揚し、「川内」に曳航されてトラック島に入港することができました。

昭和19年の「マニラ沖の遭難」とは、敵潜の攻撃を受け、機械室に魚雷が命中、
艦体は急速に右傾し、航行不能寸前となるも、「鬼怒」に曳航されて
マニラに帰港して一命をとりとめたときのことです。

このように幾度も、あわや戦没というところから生還してきた強運の「青葉」でしたが、
終戦直前の「呉大空襲」で最後の時を迎えます。

7月24日の空襲では1弾を受けただけでしたが、28日には
命中弾4発を受け、艦内は満水となって着底、艦尾はほとんど切断されました。

「青葉」の戦死者は二日間で212名にも及びました。




去年の秋に兵学校76期同期会のツァーで訪れたときの写真。
どんなに探しても「衣笠」の写真はこれだけでした。
ほとんど走りながらシャッターを押したので・・。

こういう海軍墓地の慰霊碑の配置はアトランダムのようでそうでもなく、
戦艦は一番下の、階段を登らずに済む正面にたいてい巨大な碑石を使って
建てられていて、駆逐艦は駆逐艦でまとまっている感じがありますが、
「青葉」と「衣笠」、姉妹艦同士も比較的近い位置に置かれていました。

「衣笠」が「阿波富士」といわれる徳島の衣笠山でなく横須賀のそれであることは、
衣笠」竣工直前の1927年(昭和2年)田村重彦(衣笠)艤装委員長/初代艦長が軍務局長に対し
「艦名は横須賀の衣笠山で良いのか」と問い合わせたところ、
「御考察ノ通リ」という返答があったことから確かなこととされています。


「衣笠」は「青葉」とともに第一次ソロモン海戦で気を吐き、
さらに共に参加したサボ沖夜海戦で目覚ましい活躍をしました。
命中弾4発を受けながら小破程度で、敵艦「ボイシ」に二発、
「ソルトレイクシティ」にも2発の魚雷を命中させています。

ただ、このとき後述する「古鷹」は「三人山娘」の中で最初の戦没を遂げます。
その後「古鷹」が欠けた第6戦隊は解散となり、「衣笠」は第3次ソロモン海戦に参加しますが、
このとき「エンタープライズ」艦載機の攻撃によって艦橋の前部に直撃弾を受け、
艦長の沢正雄大佐(44期)と副長の宮崎房雄中佐(48期)が即死しました。
遺体は両人共首から上がなかったということです。

浸水は次第に激しくなり、微速しか出せない状態のままそのうち左舷側に傾き、
転覆して511名を乗せたままサボ島沖の海底深くへと沈んでいきました。

生存した乗員は駆逐艦「巻雲」「風雲」に救助されましたが、なぜか彼らは、そのとき
真っ青な空に雲が二つぽっかりと浮かんでいたのをいつまでも記憶に留めていたそうです。



重巡洋艦「古鷹」戦没者慰霊碑。

ちなみにこの慰霊碑の揮毫は、もはや揮毫といえばこの人、の源田實でお送りしております。


重巡「古鷹」は「加古」とともに建造時は画期的な新型重巡でした。
同種の外国の巡洋艦より防御力が勝っており、動揺、振動は少なかったそうです。
ただし、「青葉」に乗った従軍作家が思いっきり苦言を呈したように
居住性は最悪だったということです。
まあこれはすべての帝国海軍艦艇に言えることでもありましたが、
とくに「古鷹」はあだ名が「水族館」。

その心は「友軍艦船の飛沫が飛び込んでくるので窓を開けられない」orz

そしてそのため猛烈な暑さであったとか。そりゃそうだ。


超余談ですが、最初の古鷹艦長となった塩沢幸一大佐(32期)の実家は「養命酒」本舗です。
塩沢大佐が「古鷹」の艤装艦長になってからほどなく「養命酒」は会社組織になり、
同期の山本五十六がロンドン軍縮会議に「養命酒」を持参してからは海外にも
広まったという黒い噂があります。


サボ沖海戦は米軍が第6艦隊を待ち受けて奇襲をしてきたというもので、
「衣笠」は無傷、「青葉」は大破、そして「古鷹」はこのときに沈没しています。

日本海軍が得意としてきた夜戦に初めて惨敗した海戦でもありました。
否、前回の勝利からよもや米軍側が夜戦を仕掛けてくるはずがないと油断したため
判断ミスによる敗北を喫したと宇垣纏は「戦藻録」で断じています。

わたしはアメリカ側の「レーダーの勝利」と断じたいところですが。

さらに宇垣は

当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、
夜間に於て物を見たら敵と思へと考へなく、
一、二番艦集中攻撃を蒙るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。 

と、第六艦隊司令長官の判断ミスを断罪しています。
五島長官は、戦闘の次の日出血多量で「青葉」艦上にて亡くなりましたが、
最後の最後まで、昨夜のは同士討ちの戦闘であったと信じ、
「馬鹿者、馬鹿者」といい続けながらの最後だったそうです。



さて、「古鷹」の最後です。
戦闘時「青葉」の張った煙幕に潜り込めず、一旦避退しようとしていた「古鷹」は、
集中攻撃されている「青葉」を認めるや即座に敵艦隊と「青葉」の射線上に割り込みました。
そして炎上しながら離脱を図る「青葉」の身代わりとなって集中砲撃を浴びることになります。

「古鷹」はそのうち九三式酸素魚雷の酸素に火がつき火災となってしまい、
闇のなかで燃え盛る艦体が敵艦の格好の目標となってしまいました。
しかし「古鷹」は怯まず、火焔を負いながら敵艦の方向に突進しています。

そしてそんな中でも果敢に応戦し、照射射撃をして位置を晒した
軽巡「ボイシ」に30数発の主砲をうち、砲弾4発を命中させて撃破しましたが、
ついにその後航行不能となりました。


この海戦は夜戦ゆえ日米双方に混乱が多く、どちらもが相手を誤認していたり、
相打ちになったりしたのですが、一番悲惨だったのが「ファレンホルト」と「ダンカン」で、 
隊列から落伍して日米艦の真ん中に出てきてしまったため、両方から攻撃されることになりました。
特に「ダンカン」は、日本側からより味方から受けた命中弾のほうが多かったといわれています。

アメリカ艦隊司令官ノーマン・スコット少将は、その最中、米艦隊が
「ダンカン」を射撃しているかもしれないと不安になって射撃中止を命じましたが、
興奮した部下たちを制止することはもうすでに不可能な状態だったということです。


「古鷹」は翌日総員退去命令が出され、艦尾から海の底へと消えていきました。

艦上で確認された戦死者は33名、行方不明者225名。
駆逐艦「初雪」に救助されたのは艦長以下518名でした。

「古鷹」「青葉」「衣笠」生みの親である平賀譲中将は、「古鷹」戦没の報に接し、
まるで娘を亡くしたかのように嘆き悲しみました。
直後に東京帝国大学総長に再任されていますが、そのときにはすでに健康を極度に損ね、
結核菌に喉頭を冒されていた平賀中将は、2ヶ月後に死去。

平賀中将の脳は死後取り出され、現在東京大学医学部で保存されています。

       

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