去年の夏、アメリカでカール・ツァイスレンズ搭載のカメラを購入し、
ここでご報告したところ、
「日本海海戦のときに東郷平八郎が使っていたのは、
ツァイスレンズ搭載の望遠鏡でしたよ」
と数名の読者の方から教えていただき、浅からぬ(浅いかな)縁に感動したエリス中尉です。
その一年前に三笠を訪れたときには、写真も撮らなかった東郷大将の望遠鏡。
今回は勿論のこと、ちゃんと画像を収めてきましたよ。
勿論、ツァイスレンズのカメラで。
きっと今でも昔のままに見えるんでしょうね。
東郷平八郎がその目でバルチック艦隊姿をこのレンズ認めたのと
変わりない鮮明さで・・・。
と、つい妄想にふけってしまいますが、この双眼鏡のスペックを
ざっとかき集めてきました。
明治36年に”小西六”(のちのコニカ)の杉浦氏がドイツ購入し、
その三台の一つが東郷大将に贈呈された
一台約350円 これは当時の月給の一年半分に相当する
「トウゴウ・モデル」はプリズム式、5倍/10倍、
接眼部はダブルの5×24、10×24のコンバーチブルタイプ
当時はこれを「角型眼鏡(つのがためがね)」と呼んでいた
ツァイスレンズ搭載の双眼鏡を構える東郷司令長官。
しかし、この絵によると、持っている双眼鏡、黒ですね。
今日全体的に赤っぽい赤銅色になっていますが、
当時のカタログと、資料として残されている現物の双眼鏡を見る限り、
手に持つ部分は黒皮で、レンズ周りもすべて黒の塗装がされていますから、
経年劣化で色が褪せたと考えるのがよさそうです。
前回も少し触れた日本海海戦ものの映画、「明治天皇と日本海大海戦」。
乃木、東郷両巨星が会いまみえるシーンで、乃木大将が東郷大将に
「その双眼鏡、少し覗かせてくれ」
とお願いして覗かせてもらい、東郷大将は無邪気に自慢していました。
これは乃木大将に限ったことではなく、当時の軍人はこぞってこのツァイス製を
皆こぞって覗かせてもらいたがったということです。
ちなみにその乃木大将の双眼鏡は天皇陛下からの御下賜品で
1000円だったということですが、その出自についてはわかりません。
ツァイスより高価な双眼鏡だったのに、こちらがあまり話題にならないのはなぜでしょうか。
この値段の違いは、関税の違いで、ほぼ同じ値だったという話もあります。
上の絵を見ていただくと、東郷長官の隣にいる加藤友三郎少将も、秋山参謀も、
海戦前ですから、皆双眼鏡を携えています。
秋山参謀は胸の前に掛けると筆記しにくいせいか、斜め掛けしていますね。
勿論彼らの双眼鏡は「普通の官給品」です。
ただし、東郷司令のツァイス製が、この海戦のある意味「勝利の決め手」とされてからは、
小西六には注文が殺到したということです。
さて本題。
なぜかこの時、聯合艦隊には中尉の分際でツァイスを持っていた者がいました(笑)
「漣」乗り組みの塚本克熊中尉は、なんとこの高価な同じ双眼鏡を、
東郷司令のを見て欲しくなり購入したというのです。
以下、司馬遼太郎「坂の上の雲」からの話になります。
塚本中尉はもともと海防艦で機雷掃海の任務に就いていました。
その海防艦が蝕雷して沈んでしまったときに、一時的に乗った三笠で、
かれは東郷元帥の双眼鏡を、他の軍人のようにせがんで覗かせてもらいました。
このあたりが、海軍らしいですね。
おそらく陸軍なら、一介の若い中尉が乃木大将に向かって、
「いい双眼鏡ですね!ちょっと覗かせてください」
などとは決して言えないのではないでしょうか。
おそらく東郷さんは快くこの中尉に双眼鏡を渡し、
その性能に興奮し頬を紅潮させる中尉に向かって
「どうじゃ、おはんも欲しゅうなったか。
なら買うがええ。値段だけのことはありもす」
と、微笑みながら言ったのではないかと想像、いや、妄想します。
よっぽど塚本中尉はこの双眼鏡に魅せられたのでしょう。
なんと、即座に銀座は「玉屋」(乃木大将のもここで購入された)に
同じものを注文し、送らせてしまいました。
お代金、こちらも350円也。
当時の中尉のお給料のほぼ一年分をあっさりはたいたというわけですが、
この投資?は彼自身と日本海軍にとっても大きな恩恵をもたらすことになります。
5月28日。
主力決戦の翌日のことです。
駆逐艦「漣」が、逃走するロシア海軍の駆逐艦を二隻発見しました。
そう、一隻は誰あろうバルチック艦隊司令長官、
ズィノーヴィイ・ペトローヴィチ・ロジェストベンスキー中将が移乗していた
駆逐艦ヴェドヴィだったのです。
自慢のツァイスで海面を見張っていた我らが塚本中尉が艦長に双眼鏡を渡し、
「あれを見てください」
それがロシアの駆逐艦であると認めた相羽恒三艦長は、
「合戦準備」と、ふりかえって叫び、追尾を開始します。
逃げるベドヴィの兵員は大砲に掛けられた覆いを取って応戦しようとしますが、
士官によってそれを止められます。
そしてベドヴィは機関を止め、信号機と、白旗を掲げました。
眼鏡を視いていた塚本克熊中尉が艦長の相羽恆三少佐に告げた。
「確認してみろ」相羽艦長は塚本中尉に命じた。
「重傷者があると言っています。
それに、あの白旗は食堂の白いテーブルかけのようですね。
機関も停止しています」
「ということは、降伏したのか」
(東郷平八郎と秋山真之 松田十刻著)
塚本中尉、大手柄です。
それのみならず、中尉は停止したベドヴィに乗り込んで、
武装解除を行う大役を任されました。
このときまで塚本中尉は勿論、相羽艦長も、そして連絡を受けた秋山真之も、
なぜこんなフネにロジェストベンスキー中将が乗っているのか訝ったそうです。
中将は旗艦のスワロフで重傷を負ったため、駆逐艦ブイヌイに移乗しましたが、
今度はそのブイヌイが機関部に故障を起こしたため小さなベドヴィに移っていました。
塚本中尉が最新式の双眼鏡を持って、漣に乗っていたこと、
そしてその漣は夜戦中にたまたま本隊と逸れていたため、ベドウィと遭遇したこと、
つまり、ロジェストベンスキーにとっては不運に不運が重なりました。
不運と言えば、ロジェストベンスキーはロシアでの軍事裁判で無罪となりますが、
この時の傷が元で、終戦三年後、60歳の若さでこの世を去っています。
しかしこのとき捕虜として日本の病院に収容され、
手厚く看護を受けた上に東郷司令本人の丁重な見舞いを受けた中将は、
敵将の誇りを尊重する日本海軍の扱いに感動して涙します。
ステッセルに佩刀を許した乃木将軍とともに、このとき東郷大将が敵にみせたのは
武士道でいうところの「惻隠の情」。
この「サムライ・スピリッツ」はその後世界に感銘を与えましたが、
塚本中尉が購入していたツァイスの双眼鏡は、
その大きな評価の陰の小さな立役者となったのでした。