海軍第12防空隊のことを調べた時に知った、「魔のサラワケット越え」。
(前回までのあらすじ)
ニューギニアの高度4000m級の高山を一個師団がこっそり踏破するなどという、
この世で帝国日本軍以外どこの軍隊が考え出すだろうかという無謀な作戦は、
ひとえにオリンピック選手であり、箱根駅伝で母校を優勝に導いた、
驚異的な健脚の持ち主、北本正路少尉の存在あってこそのものであった。
というわけで今日はこの時部隊を率いてサラワケット越えを果たした
「北本工作隊」隊長、北本正路大尉とその偉業についてお話しします。
北本大尉は予備役少尉で開戦を迎えたのですが、戦地で一階級ずつ二回、
2年以内に立て続けに昇進しており、その活躍がいかに評価されたかということでもあります。
昭和45年に出版された彼の追想録の前書きには
「わたしは北本君に救われた」「自衛隊幹部諸君は是非一読を」
などという題で現地にいた元陸軍中将、陸軍大佐らが推薦文を寄せています。
それぞれがニューギニアでの苦難とサラワケット越えを成功させたのは
北本少尉の驚異的な脚と勇気、知力の賜物であると激賞しているのです。
北本正路は1909(明治4)年、和歌山県伊都郡に生まれ、幼い頃から
走るのが大好きな父の影響で中学時代から長距離選手として名を馳せました。
慶応大学に進学してからは、1500、2000、3000、5000、1万メートルの5種目で
日本記録を作り、ロスアンゼルスオリンピックにも出場したアスリートでした。
写真は慶応大学在学中の昭和6年の関東学生駅伝で慶応のアンカーを務める北本選手。
このときトップの日大、15分後に来た2位の早大、さらに20分遅れて3位で
タスキを受け取った北本選手は、28キロの区間で両者を捉えるという驚異的な走りで、
この年慶応に優勝旗をもたらしました。
今でも箱根駅伝のホームページを検索すると北本の名前が出てきます。
1932年、西竹一(馬術)、鶴田義行(水泳)、南部忠平(三段跳び)らが
金メダルを取ったロスアンゼルスオリンピックに5000、1万mで出場した北本。(左)
国内では人の背中を見ながら走ることのなかった北本にとって世界の壁は厚く、
「相手が強すぎ」、その夜はホテルのベッドで惨敗に男泣きしたそうです。
前にかがんでいるのは棒高跳びで金メダルを取った西田修平です。
この日から11年後、34歳の北本正路は予備役将校となってニューブリテンのツルブ島にいました。
今やニューギニアでは制空権も制海権も奪われ、敵の空襲に毎日が防空壕通いという状態。
この戦況を打開するために、偵察隊をニューギニアに送ることになったとき、
北本少尉は自慢の脚をを生かして工作隊を率いる隊長に自ら名乗りを上げ、
ここに「栄光マラソン部隊」が生まれることとなったのです。
連隊長がその申し出を受け、決死行が決まるや否や、北本少尉は工作隊を編成しました。
健脚であること
配偶者や子供など扶養家族の少ない者
この条件で軍医と看護兵を含む50人が選ばれ、彼らは「北本工作隊」として
深夜、三隻のダイハツに乗ってニューギニアに到着します。
ここで北本隊長は原住民(北本言う所の”土人”)を味方に引き入れます。
「ラボ」という名の30歳くらいのカナカ族の酋長で、英語がしゃべれました。
北本少尉は「神様の印」といって日の丸を見せ、「俺は日本で一番足が速い」と豪語して
彼らの心をつかみ、案内を供出するなどの協力を得ることに成功しました。
以降、彼らは日本軍を”日出ずる国の神の使者”と信じ、小屋の入り口に立ててある
日章旗の前にやってきては、朝晩、手を合わせておがむようになったそうです。
日本軍の飛行機が上空に認められたりすると、彼らは大喜びで空を仰いで手を合わせました。
◯印で囲んであるのが北本隊長、矢印がラボ。
団体写真でも北本少尉の後ろに寄り添うように立っています。
北本とその右腕となったラボの間には強い絆が生まれました。
彼の献身的な働きなくしてこの大作戦の成功はありえなかった、と北本は書いています。
ラボはまず現地のドイツ人神父の宅に一行を案内し、神父は食べ物や簡易テント、
サワラケット越えに必要な登山用具などを彼らに供出してくれました。
そして、部落ごとにポーターがリレー式で代わる代わる荷物を運び、
次の部落まで案内をしてくれるという方法で進んでいきます。
切り立った岩かべ、ジャングル、道無き道。
大工出身の隊員によって作られた縄ばしごをかけ、
野営のためハンモックを作ったりしながら、工作隊は進んでいきました。
いよいよサラワケット山に立ち向かうというとき、登頂のために必要な
現地のポーターを出してもらうのに役立ったのはまたしても日の丸でした。
白地に赤が染められた布が彼らには珍しかったという説もありますが(笑)
それを見せて「神の使い」の口上を述べると、なぜか土民は言うことを聞いてくれるのです。
こうして50名の現地人ポーターを得た北本工作隊50名は、
雪を頂く海抜4500メートルのサラワケット山越えに挑んでいきました。
以前も見ていただいたサラワケット越えのルート。
後に北本工作隊に率いられたラエの部隊がサラワケット越えをした時のもので、
このときの工作隊は矢印を逆行して進んだことになります。
一行は荷物を背負ったままコケで滑る足元を一歩一歩慎重に、
雨に打たれ寒さに震えながら延々と続く斜面を登っていきました。
さしもの健脚部隊にも過酷な道でしたが、かといって弱みを見せれば
「神の使者」の化けの皮が剥がれ、 ポーターたちに逃げられてしまうので、辛い様子は出せません。
隊員たちは軍歌を歌い、励ましあいながら進んでいきました。
そして、ついに山頂へー。
頂上は一面白銀の世界でしたが、辛さや今までの苦労は吹き飛び、
ただ征服者の歓喜だけが熱い涙とともにこみ上げてきます。
「バンザーイ」「バンザーイ」
たすきがけにしてきた日の丸を一番高いところに立て、
隊員たちはそれを囲んで泣きじゃくりました。
土人たちも踊りで歓喜を表しています。
通信兵は目を真っ赤に泣きはらしながら本隊に成功を打電しました。
その後斜面を降りていくと、人食い土人の部落を通過しました。
怖がってストライキを起こすポーターたちをおだてたりなだめたりして連れてくると、
山間部族のせいか小柄で大人しそうなので案ずるより産むが易しでしたが、
北本隊長といつも行動を共にしているラボは、
初めて人種の違う部落に来て心細そうにしている。
わたしが兵隊を集めて作戦会議を始めると、「日の丸」の旗のそばに寄って、
小声で歌い始めた。
「白地に赤く、日の丸染めて・・・」
すっかり日本語も上手くなった。
ラボにとって”日の丸の歌”は賛美歌であり、念仏なのだ。
作戦会議の邪魔にならないように、小声で歌っているのがいじらしかった。
わたしに会いさえしなければ、いまごろ酋長であぐらをかいて居れたものを
・・・・と思うとふびんでならない。
「ラボ、こっちへおいで、お前も兵隊と同じなのだから話を聞きなさい」
わたしは、この瞬間からラボを兵卒と同等の扱いにしようと決心した。
ラボは嬉しそうに寄ってきた。
のちに北本少尉がマラリアにかかった時、ラボはベッドの縁にしがみついて
心配そうに顔を覗き込み、徹夜で看病をし、偵察行の際は背中に背負って歩きました。
その後、無事にラエに到着した北本工作隊は、新聞記者のインタビューを受け、
「登山家でもない兵隊ばかり50人で4500メートル登頂成功」という記事が書かれたため、
この快挙は山岳史上にも類を見ないものとして有名になりました。
功績を挙げた北本隊はその後偵察に頻繁に出されることになりますが、
ある日捕虜にした米兵から、ラエを総攻撃するという敵の情報を手に入れます。
三方を敵に包囲された第51師団は、ここにきて完全に孤立してしまいました。
疲弊した1万たらずの将兵を近代装備の3万の敵にぶつけても結果はわかりきっています。
そこで撤退が決定されました。
あの、大東亜戦史に悪夢として刻まれた”サラワケット死の大転進”が。
今や8650名の将兵が生きるも死ぬも、一人の予備役少尉の働きにかかっていました。
転進はまず海軍、次いで陸軍の順序でラエを撤退しました。
もちろん船頭に立つのは北本工作隊です。
しかし、健脚の精鋭部隊とは違って、1日の行軍予定は予定の半分の10キロが精一杯。
先頭が2、3時間でいく道のりを、渋滞もあって最後尾の陸軍は1日がかりでやっと進む有様です。
ラエに駐屯して自給自足していた海軍と、サラモアで戦闘に明け暮れていた陸軍とでは
疲労の度合いも歩幅も違い、その差は開く一方でした。
先導隊が道路標示や補修工事を行った後を、8650人が一本の線となって続きます。
まだ標高500m、六甲山くらいの高さにすぎないのに、落伍者や死亡者が200名出ました。
重さに耐えかねて皆が道中捨てていく銃を拾うのは、
山岳での動きに慣れた高砂義勇兵(台湾の高砂族)の役目でした。
拾った銃の遊底に刻まれた菊の御紋を削り落として、また捨て、一行は進みます。
手が届きそうな眼前の岩に丸一日費やしてたどり着く。
屍を積み重ねて踏み台にし、苔むした岩肌にしがみついてよじ登っていく。
軍靴に踏みつけられた戦友の屍体は口から鮮血を流しながら白い目を剥いている・・。
そして携行食料も尽きた一行は、木の根、葉、昆虫を貪り食うようになり、
ついには土人部落での略奪や、ついには食人の禁忌も侵す者も現れました。
サラワケットの頂上を目前にして、わたしは異様な光景を目撃した。
岩陰に倒れている息も絶え絶えの一人の兵隊を三人の兵隊が囲み、
ゴボウ帯剣を抜くなり心臓をブスッとやった。
三人はこときれた兵隊の太ももを切り裂くと、脇目もふらずに口へ頬張った。
わたしは愕然とした。吐き気がした。
世界の帝国陸軍が戦友を殺してその肉を喰らう__信じられないことだった。
「貴様それでも日本人か。帝国陸軍の軍人か」
後ろを振り返った三人の顔には”ボーイング”といって、死臭を嗅いで飛来するハエが群がっていた。
彼らにはそのハエを追う元気すら失われていた。飢えと疲労で発狂したのだ。
しかしその後、食人を犯した兵たちは、ヤシの木の根元で昼寝していた時
突然倒れてきた木の幹の下敷きになって、三人枕を並べて死んでいました。
「このソルジャー、ダメね。友達の肉を食べた。神様が罰を与えたね。」
ラボはペッと唾を吐いて顔を背けた。彼も知っていたのだ。
わたしは背筋に冷たいものを覚えた。
その後、51師団は全軍でサラワケット越えを果たし、目的地のキャリに到着しました。
しかし工作隊は休む間も無く、その後もう一度サラワケットの頂上近くまで引き返し、
戦死者の埋葬、遺棄兵器の焼却を済ませ、まだ生きているものは土人たちに担送させて、
後尾から落伍者を収容しつつ山を下っていったのです。
工作隊が目的地に到着したのが10月5日。
最後の一兵が担架で担がれて野戦病院に到着し、
全軍のサラワケット越えを完了したのは40日後の11月15日。
ラエを出発してからなんと2ヶ月が経っていました。
51師団8,650名の将兵のうち、2,200人がサラワケットを越えられず死にました。
残る6,450名も、栄養失調とマラリアで幽鬼のようになって到着したのです。
北本少尉はその功績にたいし中尉への特進が任ぜられました。
しかし戦況はやっとのことでサラワケットを越えた第51師団に、
わずかの休息も許さなかったのです。
爆撃は日増しに激しくなり、偵察機の飛来が敵の上陸を表していました。
そしてまた果てしなき転進が始まったのでした。
明日に続く。