先日、呉海軍墓地の伊号潜水艦363号についてお話しした時、
この伊363が、終戦まで生き残ったのにもかかわらず、
回航のために航行中、米軍が「飢餓作戦」で日本近海に撒いた魚雷に触雷し、
沈没して乗員がほぼ全員殉死してしまったと書いたのですが、
今日はその機雷を掃海した掃海艇についてお話ししたいと思います。
大東亜戦争末期に、アメリカ海軍は日本周辺に機雷封鎖作戦を仕掛けました。
これが、 Operation Starvation、「飢餓作戦」と言われるものです。
通商破壊と呼ばれる物流の海路を攻撃する作戦はそれまで潜水艦で行われましたが、
沿岸での潜水艦の活動は限られてくるため、アメリカ軍はB-29にMk25などの機雷に
パラシュートをつけて夜間撒くという方法に切り替えました。
飢餓作戦で出撃したB-29爆撃機は延べ1529機で、投下された機雷の総数は12239個。
作戦期間中に機雷で沈没した日本商船は約30万総トン、損傷船も約40万総トンに達したのに対し、
アメリカ軍の損害はわずか15機喪失(損耗率1%未満)でした。(wiki)
戦争が終わって日本が降伏した後に、残っていた機雷は6万7千個に及びます。
終戦後初めて触雷し多数の死者を出したのは「浮島丸」でした。
「浮島丸」は旧海軍の運送艦で、乗っていたのは朝鮮人労働者3725人。
このうち乗員25名、乗客524名が死亡しています。
このとき近隣の漁民たちは自分の船を出し、救助に当たりました。
しかし、遭難したほとんどがが朝鮮人であったというので、朝鮮側ではこの事故を
「日帝が大東亜共栄圏の野望を実現できなかった敗北の憂さ晴らし、
もしくは自分たちが犯したあらゆる犯罪的行為を永遠に葬り去ろうとするための、
故意に行った事故に見せかけたテロ」
であるといまだに主張しているそうです。
また、1992年には韓国人遺族が日本政府のへの賠償を請求する裁判を起こしていますが、
このときの判決は
「旧海軍の絶大な好意に基づく便乗被許可者の、まったくの不可抗力に起因する災難」
「旧海軍の責任を追及するがごとき賠償要求等はこれを容認することができない」
として、被害者への賠償はおこなわないというものでした。
原告側は強制的に日本に連れてこられたと主張したそうですが、もちろん事実はそうではなく、
自分の意思で徴用に応じた労働者ばかりだったため、彼らが帰国する際、
海軍が復員のために船を出したのは主文にもある通り「好意」であったのだし、
その航路触雷したのは日本政府のせいではなく責任を問うべきであればそれは
機雷を撒いたアメリカである(だからそっちに言え)という判決ですね。
日本政府相手であれば自分の意思で労働に来たことも「強制だった」と言い張り、
企業から賠償金を取ろうとする裁判が韓国人によって幾つか起こされていますが、
この時の原告が、この後アメリカ政府を訴えたという話はないようです。
アメリカ相手なら言えないことも日本相手ならやってしまうというのは、
やはり日本という国の優しさというか弱さにつけこめばなんとかなると思っているんでしょう。
ちなみにこのときに殉職した海軍軍人は戦死扱いになっています。
その後も、同年10月の「室戸丸」(死者475名)昭和21年1月の「女王丸」(195名)
などの大型船、そして伊363のような小型の船が触雷のため沈没しました。
「女王丸」は関西汽船の船ですが、幾つかの資料を検索すると、関西汽船の当時の社員が
「亡くなった事務長と事故の前日に会話をしていました。
遺体収容に参加した会社の先輩達から、遺族から浴びせられた憎悪の言葉は終生忘れられない、
と遭難事故の悲惨さを聞かされました」
と回顧している文章が見つかったりします。
家族を失ったばかりの当時の遺族にしてみればその原因を作ったアメリカより、
目の前の船会社の社員を詰らずにはいられなかったのでしょうが、
船会社も被害者なのですから理不尽には違いありません。
日本政府も敗戦国という当時の立場では、アメリカに責任を問うことなど全くできない状態だったのです。
そこで日本側は、海軍兵学校卒で横須賀工廠での機雷実験に携わっていたこともある
田村久三海軍大佐を責任者に、旧海軍の艦艇を使っての機雷の掃海を開始しました。
掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事して、風浪と戦い、寒暑を克服して、
危険な作業に挺身しましたが、不幸にも79名の方が職に殉じて亡くなりました。
海上自衛隊では、これら掃海で殉職した方々を顕彰しその慰霊をすべく、掃海殉職者慰霊式を行っています。
さて、わたしが昨年秋に江ノ島の第一術科学校を訪れた時、
懇親会の席、そして音楽会に先立ち、自衛隊側の最高位者として
ご挨拶をされたのは、第一術科学校校長の徳丸伸一海将補でした。
いずれの挨拶も大変心に残るものであった、とこのブログでも何気なく感想を書いたのですが、
その後、名刺交換させていただいたお礼状を差し上げたところ、
徳丸校長からは直筆の丁寧なお葉書をいただきました。
これがいただいたハガキ。ホログラム?というか、昔からある立体的に見えるあれです。
後から知ったのですが、徳丸海将補は掃海隊群司令で、 掃海隊慰霊祭には
弔辞を述べる立場であられました。
平成25年度に金比羅宮境内で行われた追悼式での徳丸司令の弔辞は素晴らしいものだったと
評判だったということです。
徳丸海将補のお話の上手さは、わたしだけが感じたことではないのだなと思いました。
この時の弔辞の全文を送ってくださった方がいたのですが、
徳丸海将補のご尊父が掃海隊に参加していたということを知りました。
海将補が語るお父上の掃海活動の部分を抜き書きしてみましたので
最後に掲載しておきます。
私の父も戦後掃海に参加し、今年で八四歳になります。
私は、この追悼式に参加するに当 たり、父からこれまで幾度となく聞いてきた、
同僚が志し半ばで職に殉じられた情景につい て思いを致しております。
私の父は昭和二十年十二月から昭和二十七年五月の海上警備隊入隊までの間、
佐世保掃 海部、下関掃海部そして神戸海上保安部航路啓開部においてディーゼル員として勤務して おりました。
その間、昭和二十五年十月の韓国元山沖の掃海業務にも従事しております。
そして、三度危険と隣り合わせとなり、今考えても生き残れたのが幸運であったと申しております。
一度目は玄界灘で掃海作業に従事している時でした。
中学を中退し、十五歳で 予科練に入り二 ヶ月で終戦を迎えた父は、
幼い頃に病で父を亡くし母子家庭であったこ ともあり、
針生にある第二復員省の地方局で職を探しておりました。
その時、掃海艇乗組 員の募集があったため、父は直ちにこれに応募しました。
今回この追悼式に参加しております掃海母艦うらが艦長、触井園二佐の御尊父も
予科練を経て戦後掃海の道に入り、定年 まで掃海部隊において勤務されています。
航路啓開開始当時の掃海艇には、元パイロットが 養成途上の者も含め多く乗り組んでいたとのことです。
第二次大戦後、それまで船乗りであった者は復員船等の、
比較的安全でかつ待遇の良い業務に従事することが出来ましたが、
掃海については、危険でかつ厳しい業務であることから志願者が少なく、
乗船経歴が無くとも従事することができる職務であったため、
予科練出身者等が多く乗挺していたそうで あります。
危険に果敢に挑むDNAの萌芽がここにも有るような気がします。
さて、最初の危険との遭遇の話に戻りますが、戦後掃海の始まりにおいては、
まだ復員省も組織だった 業務を実施するには至らなかったようで、
父が掃海艇乗組員に志願した際には、志願者は 2列に並ばされ、
前列は駆潜特務艇248 号に、後列は250 号に乗り組むように指示されたそうです。
一度前列に並んだ父は、友人の顔を後列に認めたため、そこに移動しました。
その後、掃海作業中に、前列が乗船した248号が触雷し、沈むこととなりました。
二度目 の危険は下関の満珠島付近での磁気掃海作業中の出来事です。
父が乗り組んでいた駆潜特務艇は、当日は母船を支援する脇船として掃海作業に従事する予定でしたが、
母船が出すべき電らんを作業員が誤って繰り出してしまいました。
これを揚収するにはまた手間がかかるため、父の乗る艇はそのまま母船として電らんを曳航することとなりました。
母船になると発電機により電らんに電気を供給しなければならないため、
ディーゼル員として の作業はきつくなります。
父はついていないと思ったそうでありますが、共に作業をしている掃海艇3 隻で回頭している最中に
脇船が触雷し沈みました。
三度目は韓国の元山においてであります。
まず、掃海開始前に陸から射撃を受けたそうです。
それに対し米国は駆逐艦による艦砲射撃を行い、この攻撃を阻止しました。
その後、 4隻で掃海作業を開始しました。
父の乗艇する掃海艇には機雷敷設に詳しい者がおりまして、その者が、
元山にある大きな木とそこから離れた岩を見て
「これを結ぶラインは 危険だから避けた方が良い」
と艇長にリコメンドし、そのとおりにしたそうです。
後続してくる掃海艇はそのラインの方向に向かい、その後、触雷しました。
皆様ご存知のとおり、この時、作業のため艇内に入った1 名の方が殉職しておられます。
もし、父がこのいずれかの機会で殉職していたならば、
私はここで追悼の言葉を述べることはできておりません。
ここで眠られている79 柱のご英霊も、本来であるならばご家族と、
そして 新しく引き継ぐ命と共に幸せな家庭を築けたところ、
その職に殉ぜられましたことは、 痛恨の極みでありましょう。
輝かしい航路啓開の偉業と共に、途半ばにして壮烈な殉職を遂げられた皆様のあったことは、
我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての日本国民 の心にとどめられ、
その誇りは長く語り継がれることでありましょう。
翻って、現在の我が国を巡る国際環境は厳しく、権力基盤が脆弱な若い国家指導者が
理不尽な要求を掲げミサイル発射をちらつかせ西側各国を脅す国、(北朝鮮のことですね)
また、海洋権益の 確保のため外洋への進出を活発化するとともに、
公船を我が国領海に平然と進入させる国(勿論中国です)等、情勢は緊迫すれども緩まる気配はありません。
そして、中東に目を転ずれば、核開発を巡る力の駆け引きが行われており、
その結果としてホルムズ海峡の安定に懸念が持たれています。
そのような中思い起こせば、今から二十年余り前、掃海部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣され、
危険かつ困難な業務を安全かつ適切に遂行し、先輩から受け継いだその実力が世界から認められることとなりました。
そのペルシャ湾においてはここ三年連続して多国間掃海訓練が実施されており、
海上自衛隊掃海部隊も毎年同訓練 に掃海艦艇や水中処分員等を送り、
現地においてその実力を遺憾なく発揮することにより、参加各国から高い評価を得ております。
そして、我が国の生命線、すなわち日本が 輸入する約85%の原油が通過しているペルシャ湾の
海上交通の安全の維持に貢献すると共に、グローバルな安全保障環境の改善にも寄与しています。
また、一昨年の東日本大震災においては、掃海部隊の艦艇及び水中処分員が直ちに出動し、
小型艦艇及び潜水員というその特性を活かし、入り組んだ沿岸部において瓦礫をかき分け、
汚濁した海中に潜り、捜索救難の任にあたりました。
また、同時に半島僻地や島に孤立する住民に対し救援物資を輸送する任務にも従事しました。
劣悪な環境の中でも黙々と任務を遂行する隊員たちは、皆様の掃海魂をしっかりと受け継いでおります。
こうした中、航路啓開以来の掃海の伝統を受け継ぐ我々は、平時・有事を問わず、
いついかなる任務が与えられようとも、これを整斉と遂行し、以て国民の負託に応えるべく、
日々精進し、即応態勢を維持する覚悟であります。
本日ここに、改めて、身命を賭してその使命を完遂されました皆様の偉業を忍びつつ
御霊の安らかならんことをお祈りすると共に、我が国の行く末と海上自衛隊の諸活動に
一層のご加護を賜らんことを祈念して追悼の詞といたします。