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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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空母「ベニントン」~”彼の顔には死が見えた”(直訳)

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空母「ホーネット」のキャビンごとに展示テーマを変えた「ホーネット博物館」の展示から、
今日は空母「ベニントン」CV-20 についてお話ししていこうと思います。

ベニントン(Bennington)とはまた面妖な響き、と思ってしまったのですが、
これはヴァーモント州のベニントンから来ています。
独立戦争の時に「ベニントンの戦い」で愛国者軍民兵がイギリス軍に圧勝したので名前が取られたようです。 

面妖といえば最も変な響きの米軍艦艇名は「タイコンデロガ」だと思うのですが、
このタイコンデロガも元々は地名。
「タイコンデロガ砦包囲戦」ではイギリス軍と大陸(アメリカ)軍が戦って、
イギリス軍が勝ったという戦いです。
さらにその20年ほど前に「タイコンデロガの戦い」というのが英仏軍の間で起こっていますが、
こちらも勝ったのはどうやらイギリス軍で、なぜアメリカ海軍がこの地名を採用したのか、
謎といえば謎ですが、独立戦争そのものが「勝ち」だったということで、
負け戦も栄光への一里塚みたいな捉え方をしたのかと推測されます。

独立戦争の時の戦闘地を艦名にした例ではもう一つ「レキシントン」があります。
わたしはボストン在住の時にレキシントンには車で行ける距離に住んでいたので、
何度かピクニックや紅葉を見に行ったものです。
7月4日には昔の民兵の衣装を着た人々とイギリス兵に扮した人々が
「レキシントンの戦い」の最初のシーンを街角の広場で演じているのを見たことがあります。

他には「サラトガの戦い」にちなんだ空母「サラトガ」なんてのもありましたね。

ベニントン(USS Bennington, CV-20)

はエセックス級空母の9番艦です。
第二次世界対戦のときに就役し、1944年12月、ニューヨークを出港し、
パナマ運河を通過して真珠湾経由でウルシー環礁に進出しました。
タスクグループ58,1、空母機動部隊に合流し、ウルシーから
昭和20年2月16~7日、そして25日の日本本土空襲に出撃しています。

これはどういうことかというと、ルメイ司令官立案の無差別攻撃で
東京都内を焦土にしたあの「東京大空襲」に参加したということです。

2月16日には 大森、渋谷、中野、杉並、蒲田、板橋、世田谷、葛飾、牛込、目黒区、八丈島
2月17日には 赤坂、大森、淀橋、中野、杉並、蒲田、城東、深川区その他東京郊外

をベニントンの艦載機は攻撃しているということになります。

さらに25日の空爆は「ミーティングハウス1号作戦」と呼ばれるもので、
 離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、
使用弾種の9割を焼夷弾とする新戦術が導入されたため、神田駅を中心とした都内は
これまでより広範囲で文字通りの焦土となり、沿道は屍体で埋め尽くされました。
爆撃と並行して機銃掃射も行われています。


わたしは一度テレビで

「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、
中心に包囲された市民を焼き殺した」

という資料がアメリカから出てきたということを報じているのを見たことがありますが、
現在の時点でそのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できないそうです。

アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、
風下の東側から順に攻撃する指示が出されていたということなので、
体験者の印象による誤解と考えられるというのがwikiの解説です。


それはともかく、東京空襲と並行して小笠原諸島、そして沖縄と攻撃に加わったベニントンは、
4月7日、天一号作戦として出撃した東シナ海の帝国海軍艦隊を艦載機で攻撃する任務を負います。 

この時沈没したのは戦艦「大和」、そして駆逐艦「矢矧」「浜風」など4隻。
米海軍側から参加したのはベニントンを含む空母だけで7隻、軽空母4隻、戦艦6隻でした。
この数だけ見ても勝てるはずがないと思いますが、日本側は「雪風」を筆頭に案外帰ってきた艦が多いのです。
逆に言うとこれだけの総力で寄ってたかってやっと「大和」は沈められたということでもあります。

ベニントンはその後7月1日、そして15日から終戦の8月15日に至るまで、日本本土攻撃に参加しています。 

 

ベニントンの乗員が着用していた制服と作業服、度数尺にお金。
WE CAN HACK ITとあるジャケットはどうやら通信員のもののようですね。

 

お金の部分を思わず大アップしてしまいました。
これ、ほとんど日本円ですよね。 20円、10円と10銭札。



かつての乗組員が着ていた制服を寄付しています。
おそらく奥に写真のある一等水兵?でしょうか。
白っぽく漂白するのにブルーの蛍光塗料を入れた洗剤を使ったのか、
制帽が真っ青に着色されてしまっています。



そして艦載機に乗ったいかにも人の良さそうなパイロット(笑)と、そのジャケット。
松本零士の戦場シリーズ「ゼロ」という章で「ホワイトヘア」と呼ばれていた敵みたい、
「丸ぽちゃであまり憎たらしい顔じゃないなあ」と言われてましたね。



ボケていてすみません
日本が降伏し、戦艦「ミズーリ」で降伏調印式が行われた時、ベニントンは艦載機を
ミズーリ上空に飛ばしていました。
警備のためか、示威行為か・・。いずれにしてもそんなことをしていたとは知らなんだ。

10月まで占領政策を支援したベニントンは11月にサンフランシスコに帰港しています。
写真のワッペンは1966~7年に太平洋艦隊として極東クルーズを行った時のもの。



終戦後10月まで占領政策支援で日本にいた後、ベニントンはハワイ経由で帰国しました。
真珠湾ではまだ「博物館」になる前の戦艦「アリゾナ」の前を航行するとき、
甲板に人文字で「ARIZONA」と描いて敬意と弔意を示しました。




 下の3カ国は一番左がフィリピン(独立前)のようですが、右二つはこれも独立前でわかりません。



単なるスペック表かと思ってよく見たら、ずらりと人の名前。
ベニントンの絵の下にはこう書いてあります。

1954年5月26日、ロードアイランドでの任務中起こった爆発事故で
我々ベニントンが失った戦友(船友?)その他の人々の思い出に

日本語のウィキペディアには載っていないので、わたしもこの展示室の写真がなければ
一生知ることのなかった事件ですが、ベニントンはこのとき、
カタパルトの一方から漏れ出した燃料に航空機のジェットが引火し、フライトデッキ前面が大爆発を起こし、
当初の爆発で103名が死亡、201名が重軽傷という大惨事となりました。

事故後彼女は自力でロードアイランド州の海軍航空基地にたどり着き、負傷者を上陸させています。



爆発の凄まじさを物語る直後のベニントン。
抱き合って喜んでいるのはもちろん死ななかった乗員とその家族です。

100人以上死んでいるのに喜んでいる人たちを写すのは如何なものか、
とつい日本人であるわたしなど思ってしまうのですが、よく考えれば
これも彼我の報道の慣習の違いといったもので、日本のマスコミのように
家族を失って悲痛な顔をしている人にマイクを突きつけ「今のお気持ちは」
と聞かなくてもわかってることを聞くよりはいいような気がします。

電話で家族の無事を知って涙を拭う人もいますね、
気を失った女の人が運ばれていますが、キャプションを苦労して読んだところ()
彼女の夫である海軍中尉の安否を知るために待っていたところ、極度の緊張で倒れてしまった、とあります。
彼女の夫が生存していたのかどうかは書かれていないのですが・・・。




こんな大事件でスクープ写真っぽいのがトップにデカデカとあるのに、見出しが

「ヤンキースとドジャースは負けた」???

何か事故の比喩かと思ったのですが、これはマジでスポーツ欄の見出しのようです。
たとえどんな驚天動地の大事故が巷で起ころうと、野球の結果が気になる、
という多数のアメリカンやきうファンのために、タイトルを第一面に出すのです。

気になって調べてみたところ、1954年度のメジャーリーグではアメリカンリーグは
クリーブランド・インディアンス、ナショナルリーグはニューヨーク・ドジャースが、
それぞれニューヨーク・ヤンキースとブルックリン・ドジャースを下して優勝していました。
これだけ大きな見出しになるというのは、やきうファンにとって驚天動地の結果だったと・・。

まあそれはよろしい。

日本だって、阪神大震災の時に悲痛な顔で現場の様子を伝えていた徳光アナウンサーが、
「次はキャンプ地入りした巨人軍のニュースです」
と瞬時にニコニコ顔に変わって顰蹙を買ったなんてこともありましたしね。
(ちなみにこの年巨人は3位だった)
自分の身内でもいない限り、災害<贔屓チームの勝敗or動向は仕方ありますまい。

オイルに汚れた顔でその時の状況と恐怖を語る乗組員。

「彼の顔には死が見えた」(直訳)

という、こちらは紛れもなく事故記事のタイトルです。

 

やけどを負ったものの九死に一生を得た生存者たち。
顔中やけどを負って目と鼻と口以外に包帯を巻かれた者。両手だけに激しいやけどを負った者。
しかし生きていることが嬉しくて思わず微笑む者・・・。

下左でベッドに手をかけているのは駆けつけた血液のドナー。
右側の水兵さんたちは、とりあえず自宅に無事を知らせる電報を打っています。

そして上写真の真ん中が艦長のウィリアム・ラボーン大尉。
左がベニントン付軍医です。(右は・・・記者?)
ラボーン艦長は、

「私が艦橋に立って、ちょうど18ジェットファイターが発射されるのを見ていると、
ほぼ最後の機のころになって爆発が起こった。左舷前部の部分だった。 
すぐさま大事故だと思い、残りの航空機を全て発進させ甲板を空けた。
こうした作業を冷静にやってくれた乗組員を大変誇りに思っている。
彼らは驚くほど英雄的な偉業を成し遂げたよ」

と語ったそうです。

この事故は、アメリカ海軍はカタパルトのシステムを油圧式から蒸気式に
移行するきっかけとなったと言われ、現在では艦艇推進機関のボイラーからの
高圧水蒸気を圧力タンクに貯めておき、航空機の発進時に一気にシリンダー内に導いて、
その圧力で内部のピストンを動かす方式が主流となっています。


ロードアイランドのニューポート湾を望むフォートアダムス州立公園には
この事故で殉職した103名の乗組員のために慰霊碑が建てられました。

日本にも立ち寄る極東クルーズの後、ベニントンはシドニーに寄港しました。
コーラルシー・デイの記念行事のためです。
コーラルシーデイってなんぞや?と調べてみてびっくり、なんのことはない
(ってことはないか)珊瑚海海戦のことじゃーないですか。

他人事ではないのよこれは。

開戦初頭の1942年、連合軍と帝国海軍がこの海でバトルを繰り広げ、
アメリカは空母「レキシントン」沈没、「ヨークタウン」中破、
日本側は空母「祥鳳」沈没、「翔鶴」中破という結果でどちらもが戦果を誤認していたし、
マッカーサーは味方を攻撃したのを隠すしで、まあ色々とあった海戦なのですが、
アメリカ軍はそのときは記念行事をやっていたようです。

 

1957年のコーラルシー・デイ式典のことです。

当日の朝、10人のシドニー大学の学生が海賊の衣装に身を包み、こっそりベニントンに侵入しました。
何人かは当初の目的通り、地元の慈善団体の寄付を乗組員に募るという本来の仕事を始めたのですが、
何人かはいたずら半分で艦橋に入り込んだのです。
そのつもりではなかったけど、たまたま入り込むことができたので魔がさしたのかもしれませんが、
拡声装置を見つけたポール・レノン医学生がそれを作動させ、艦内に

「USS ベニントンはたった今シドニー大学の海賊によって捕獲された!」

と叫んだのです。
とたんに原子爆弾や化学兵器の強襲を警告するアラームが鳴り響き、
寝ていたものは全て寝台から跳ね起き、学生たちは海兵隊によってつまみ出されました。
彼らへのお咎めはなぜかなかったそうです。

相手が学生で、珊瑚海海戦の時の連合国であるオーストラリア人だったということもあったでしょうが、
先日、エリザベス女王の寝室に日本人観光客を侵入させてしまったバッキンガム衛兵と同じで、
わざわざ大事にして警備の甘さがヤブヘビになるのを避けたかったのに違いありません。

とにかくわたしとしては、このビートルズみたいな名前の医学生が、
卒業後無事に医者になれたことを祈るばかりです。



ベニントンはその後アポロ計画でアポロ4の宇宙船を回収する任務を経て、
1970年に退役し、1994年にスクラップにされてその生涯を閉じました。




 


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