もと海軍軍人を中心にPF艇の管理を行うYBグループに職を得た元海軍大佐。
ここでの仕事は”カンカン虫”と言われた汚れ仕事でも深夜や悪天候での見張りでも、
皆が粛々とその任を果たし、要領よくサボったり人を出し抜いたりといった
「兵隊根性」とは無縁の職場であり、それはご当人曰く
自他尊重、ミューチュアルアドバンテージ(相互利益?)
のうえに貫かれたもので、同僚の老兵の中には
「海軍独特の民主的な集合体における肌の触れ合い」
などと自画自賛するものも現れるくらい、うまくいっていたようです。
発足当初は生涯労務機関に駆り出された軍労務者たちが、
米兵からまるで俘虜のごとく追い回されたり小突き回されたり、
あるいは中国系アメリカ兵から顔に青痰を吐きかけられたりなどという
屈辱的なことも起こったそうですが、朝鮮動乱の開始とともに雰囲気は変わりました。
元海軍軍人たちは、夜の闇に乗じて来襲する泥棒警戒のために
ライフル銃を貸与されてリバティ船の見張りを行うまでになったと言います。
もっともこの銃はコケ嚇かしのため空包(音だけが出るようにした儀礼用または演習用の弾薬)
でしたが、空包の発火をやらせてみると、かつて戦争中にさんざん大砲をぶっ放した
海軍さんも、普通のおじさんになっていて、おっかなびっくりのへっぴり腰です。
戦後4年経って、すっかり戦争放棄の民のお手本と成り果てたと嘆息しつつ、
所詮は戦後生きる糧を得るためのやむなき職であったと自ら認めることになりました。
ここでちょっと寄り道をして、朝鮮戦争への日本の「寄与」についてお話ししておきたいと思います。
「日本軍」と耳にした途端、血がのぼって荒れ狂う韓国人にぜひ知っておいてほしい話。
それは、日本軍がなければ現代の韓国軍はなく、今の韓国もないという史実。
ジャーナリストの井上和彦氏のコラムからです。
朝鮮戦争・釜山橋頭堡(きょうとうほ)の戦いにはこんなエピソードがあります。
韓国軍の金錫源(キム・ソクウォン)准将率いる韓国第3師団約1万の将兵は、
北朝鮮第5師団との戦闘で、東海岸の長沙洞(チャンサドン)付近に追い詰められました。
壊滅の危機だった同年8月17日、国連軍の戦車揚陸艦4隻が救助にやってきました。
金准将は驚愕しました。
米海軍の戦車揚陸艇に乗っていたのは、旧日本海軍将兵だったからです。
金准将は、日本の陸軍士官学校を卒業(27期)し、支那事変では連隊長として大活躍し、
金鵄勲章まで受章した元日本陸軍大佐で、「半島の英雄」として、日本でも広く名が知られていました。
その英雄が、朝鮮戦争勃発と同時に、韓国陸軍准将として再び戦場に登場したことは
韓国軍の士気高揚に貢献しただけでなく、日本軍時代の名声と人柄が知れ渡っていたため
韓国人の”元日本兵”らが先を競って集まってきたといいます。
首都ソウルの防衛を担った第1師団長時代から、金准将はカイザー髭を蓄え、
「軍刀は武人の魂である」としていつも日本刀を携えていました。
そして米軍事顧問団の制止も聞き入れず、常に最前線で陣頭指揮を執り、
日本刀を振りかざして部下を奮起させ・・・つまり骨の髄まで“日本軍人”だったのです。
南少尉に手渡しました。
それは戦場における最後の日本刀だったということです。
金准将のほか、後の韓国空軍参謀総長となる金貞烈(キム・ジョンニョル)将軍は、
大東亜戦争緒戦のフィリピン攻略戦で武勲を上げた元日本陸軍大尉で、
南方戦線では戦隊長として三式戦闘機「飛燕」で大活躍しました。
北朝鮮軍戦車に体当たり攻撃を敢行した飛行団長、李根晢(イ・グンギ)大佐も、
加藤隼戦闘隊の撃墜王の1人であり、
後の韓国空軍参謀長となるチャン・ソンファン中将や、キム・ソンヨン大将、
韓国陸軍砲兵隊を育てたシン・ウンギュン中将なども、日本陸軍の将校でした。
戦後韓国軍を立ち上げた首脳部の多くは、日本の陸軍士官学校か満州軍官学校の出身者です。
このため朝鮮戦争での韓国軍は「米軍装備の日本軍」といわれ、
戦争自体も「第2次日露戦争」の様相を呈していたという指摘があるくらいなのです。
例えば韓国陸軍のキム・ソグォン少将(1893~1978年)は朝鮮戦争時、
マッカーサー元帥が国連軍総司令官就任にした直後のの軍議で、本人を目の前に愉快そうに
「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」
といい放ち、その腰に佩した日本刀を仕込んだ軍刀の柄を叩いて見せたといいます。
しかし、彼ら朝鮮戦争での救国の士に対する日本嫌いの李承晩(イスンマン)の
戦後韓国の仕打ちは酷いものでした。
「親日」を理由に親日」を理由にブラックリストに載せ、
予備役編入後に理事長を務めた高校の敷地に在った金将軍の像まで撤去しています。
井上氏はこのコラムの最後をこういう言葉で結んでいます。
韓国の方々に言いたい。歴史を直視できない民族に未来はない。
さて、朝鮮動乱に出動を要請されたYBグループのメンバーはいずれも20歳代の若者ばかりで、
彼らは海上トラックや上陸用船艇に配備され、気軽な調子で出動していったのですが、
残された老兵たちはふとあることに気がついて愕然としました。
臨戦地境の海域でもしその身に何かあったとしても、今の彼らには
なんの保証や手当の裏付けもないのです。
海軍軍人であれば、戦死傷病があっても軍人年金や叙勲の名誉が与えられましょうが、
今の彼らは軍人でもなく、かといって米軍や韓国軍から保証されている立場でもありません。
かつての司令官や艦長たちは今更ながらに若者たちの身を案じ、
帰還を今か今かと密かに心痛めながら待っていたそうですが、
彼らの心配は杞憂に終わり、ほどなく彼らは無事に帰ってくることができました。
彼らのうちのリーダーは、その後自衛隊の要職にまで上り詰めたそうです。
その後海上警備隊が創設され、YBグループにあったかつての将校も、
また予備学生出身者も、年齢が42歳未満の者は全員、警備隊幹部となりました。
その中に、海軍の再建を固く信じて飛び込んできた青年がいたそうです。
九州の名門の出である彼は父子三人で大東亜戦争の戦列に在りましたが、
将官だった父も、少佐であった兄も還ることはありませんでした。
彼自身、2度も3度も上官の沈没でその都度南洋を泳ぎ回って生還しています。
こんな人物が、その後自衛隊の幹部となり、「ベタ金」の海将となっていったのです。
YSグループと言われる「海軍軍人の吹き溜まり」が出来た当初から、
海軍の復活を洞察した元海軍軍人は決して少なくありませんでした。
この九州から海軍再建を信じて出てきた青年将校のスマートな背広姿を見たとき、
もしかしたら、それは3年くらいで実現するかもしれないと希望を抱く者もいました。
実際は予想より少し早い2年半後、吉田・リッジウェイ会談によってそれは正夢となりました。
警備隊創設の朝、その旗の下に「戻っていく」青年たちは、
まるで借り着のような妙な色の正服を着ており、
身分は文官でも軍人でもない”特別職の公務員”というものでした。
彼ら自身海軍の復活を喜びながらも『新憲法第9条』が喉につかえたような、
忸怩たる気持ちをどこかに持ちながらの船出ではありましたが、
彼らにはどうにもならぬ仕儀と合点せざるを得なかったのです。
自衛隊発足のために政府が集めたY委員会のメンバーは金モールの袖章を飾る
高級幹部ととなり、元大佐らのYBグループは、ネストから去っていく
自分たちの手にかけたPF艇とその甲板の若者たちを心静かに見送りました。
自衛官の採用には年齢制限があったため、特務士官、准士官、下士官は
優秀な人物が多かったにもかかわらず、YBグループに残ることになります。
ところでこの名称のYとかBとかですが、これはおそらくですが、一般日本人に
そうとわかる名称で活動しいらない雑音が入るのを防ぐためでしょう。
自衛隊発足後もYBグループは非就役船舶の保管業務のほか、海上トラック、
交通艇の保管、港湾防備作業、見張り監視、信号通信など、
およそ海自関係の雑役はなんでもやるようになりました。
自衛隊が軌道に乗るまでの便利屋さんといったところです。
どんな仕事もかつての海軍さんが中心になっている組織ですからお手の物で、
動乱景気のオーバータイムもここが稼ぎどきとばかりに引き受け、
アメリカ人将官にさすがにここまでは、と心配されてしまうほどでした。
しかし食糧事情も国内ではまだまだ良くなかったので、 米軍専用のレーションが
貯蔵品で変質したものとはいえ、出されるのは結構ありがたいことだったのです。
最初にYSグループが発足してから16年が経過していました。
往時のメンバーは人員整理と定年退職で次々と基地を去り、
敗軍の兵を語らず黙々として一人の名もない海の男となって働いた
アドミラルもキャプテンも、多くが墓の向こうへと去ってしまっていました。
ここで元大佐ご本人について少し補足しておきましょう。
元大佐は海軍兵学校48期。
海軍省の報道部に勤務したあと、航空母艦「瑞鳳」副長を経て、
以降ずっと航空隊司令を歴任し、終戦時には釜山の海軍航空隊司令でした。
昭和15年、この元大佐が報道部に勤務中作詞した、軍事歌謡の名曲
「艦隊勤務」は、現在でも歌い継がれています。
そして1964年。
神武以来の好景気に沸く日本で東京オリンピックが開催されました。
開会式の代々木の空を、航空自衛隊の5機のブルーインパルスが5つの輪を描いたのは、
敗戦後24年で、日本が復興を高らかに世界に宣言した歴史的瞬間でした。
そのヨットレースの競技場となった江ノ島ヨットハーバーに、
かつて食うや食わずの困窮生活から横須賀に転がりこみ、自衛隊の復活をその目で見た
老大佐の姿がありました。
老大佐の眼前には江ノ島、鎌倉、葉山沖一帯に錨泊する海上自衛隊の支援隊が
列線を隈なく張り、老大佐はその光景に思わず目を見張りました。
そこには懐かしいPF艇の改装型の姿さえあるではないですか。
まるで我が子が立派に育ったのを見るような思いです。
晴れ渡る秋空のもと、光る海に帆をなびかせるヨットの帆走に見とれながら、
老大佐はこの海を再び激動させてはならないと改めて思うのでした。