昭和27年4月26日。
この日海上保安庁の外局として隊員6000名の海上警備隊が組織されました。
それこそ世間の目をはばかるようにごくひっそりと・・・。
海軍の再建ともいうべき海上自衛隊の前身の誕生した瞬間でした。
戦争を放棄し、軍備を否定した新憲法下に置いてまるで隠し子のような発足とはいえ、
横須賀基地港内の岸壁に係留されたPF艇の艦尾には、星条旗に変わって
軍艦旗(この時には警備隊旗だった)が翻りました。
音楽隊は「われは海の子」を吹奏し、
どういうわけかアメリカ海軍の軍楽隊が威勢良く行進曲「軍艦」を吹きならしたそうです。
ここにかつて世界三大海軍の一であった帝国海軍の一員として、「われは海の子」と
アメリカ人の奏でる「軍艦マーチ」の音の渦の中、涙をこらえつつ立つ一団がありました。
雨の日も風の日も、厳寒の冬も酷暑の夏も、PF艇のキーパーをやってきたYSグループの老兵たちです。
この前年の昭和26年、吉田首相はリッジウェイ対象と会見を行い、
この時にアメリカからPF艇(フリゲート艦)18隻、上陸支援艇60隻を貸与のうえ
日本海軍創設を要請しました。
その後、旧海軍軍人を交えた「Y委員会」がその構想を練るために発足しましたが、
これに先んじて、すでに横須賀に係留されている貸与予定の艦船を保管する業務を
任されていた日本人グループは、「YSグループ」と呼ばれました。
「武蔵」艦長経験者であり、「大和」特攻にも「矢矧」艦長として参加した
古村啓蔵少将がアメリカ軍に特に招かれていた他、横須賀という土地柄もあって、
ほとんどが大東亜戦争の生き残り、百戦錬磨の老兵ばかりでした。
誰言うともなく自らを「幻の艦隊」と称するようになったこの集団は、
くたびれた復員服に身を包んでいても、気骨稜々のさむらい揃いでもあったのです。
この中の一人にある元海軍大佐がいました。
元大佐は、戦争中は12の航空部隊を遍歴し、軍人冥利に生きた時世も今は過去、
復員の際、終戦で解放された連合軍捕虜が結成した強盗に
列車の中で腰の長刀を奪われて「丸腰」の姿で帰郷をしてきました。
再開した妻子は給料の支払いが途絶えて明日の生活さえ憂う困窮状態。
生糧品の放出を騎兵連隊の主計士官が村役場に陳情に行ったところ、
富農でもある農協の責任者は、椅子にふんぞり帰ったまま
「もう戦争は済んだで、負けた兵隊に食わせるものはあらせん」
と嘯き、しぶしぶと供出した配給の薯はまるで鼠の尻尾のような屑ばかりでした。
東京で再起を誓った元大佐は、小さな新聞社に拾われますが、
公職追放に該当する履歴がたたって2ヶ月で解職、次に顧問名義で就職した映画会社は
赤色争議による重役総退陣に遭いこれも退職。
この後職を点々としている間に息子を結核で失い、妻も感染してしまいます。
芯が出た畳の上に海軍毛布一枚を敷いてそこで寝起きする窮乏生活に進退極まったとき、
教会の口添えで米海軍基地の労務者として糊口をしのぐつてを得ることができました。
ここで元大佐は司令官の秘書をしていた日本人女性からこんな情報を耳打ちされます。
「近くソ連からアメリカ海軍の貸与船舶が返還される。
これは横須賀で保管し、いずれ日本海軍が復活するとき、そっくり貸与するものらしい。
その管理の仕事で旧海軍さんを差し当たり200名ほと募集するそうだ。
行く行くはPF艇27隻、その他の船舶50隻となって、雇用人数は1,000名を超える。
そのマネージメントなら昔取った杵柄でちょうどいい仕事なのではないか」
月給は1万5千円、職種は顧問。
妻の看病をしている身には定収入が得られるのはありがたい話でした。
昭和24年8月の末に
未就役船舶管理部隊
というこの駐留軍労務者のグループが発足し、「海の老兵」の吹き溜まりとなりました。
朝鮮戦争のときには一部の人員が揚陸作戦に派遣されたりしたそうですが、
秘匿されたためうるさい世間の噂になることもありませんでした。
海軍が滅びた日本に、軍艦旗が再び翻る自衛艦隊の創設されるその日まで、米軍基地で
供与された船舶の子守をしていたのが、彼らYSグループのもと海軍軍人たちだったのです。
警務隊の旗が揚がった時、老兵たちの中には郷愁に誘われて涙したものもありましたが、
大方の新しい組織のメンバーはそのように捉えたわけではありませんでした。
彼らにとっては新生日本の新しい海軍の創設であり、懐古するものではなかったのです。
PF艇は昭和24年、ソ連から横須賀に回航され、返還と同時に警備隊に貸与されました。
回航員は港内の係留作業がすむとただちに退艦して母船に収容され横須賀を去ります。
数次にわたる回航にはいつも同じ顔ぶれが見られました。
ヤンキーの水兵さんはスマートなのに対して、ソ連水兵さんは明治時代の日本の兵隊さんのようで、
どこかで見たことのあるような懐かしくも泥臭い雰囲気を漂わせていたそうです。
回航員が退艦したばかりのPF艇には、およそ消耗品と名のつくものは一物もありません。
燃料タンクは舐めたように空っぽ。
時折巻きタバコが落ちていることもありましたが、大変不味いものでした。
PF艇が到着するにあたって、保管業務に備えて日本人従業員の緊急募集が行われ、
地方にスカウトが人材確保のために飛びましたが、馳せ参ずるものは全員が元海軍軍人です。
敗戦の荒廃の中生活に困窮していた彼らにとって、船に因縁のある仕事は魅力でした。
蓋を開けてみれば集まったのは中将級から海軍の飯も食いそめぬ終戦一等兵まで雑多、
アドミラルクラスは十指に余り、佐官級は赤穂義士もかくやと思われる豪勢な顔ぶれ、
旧華族の御曹司、いわゆる皇室の藩屏 (はんぺい)と思しき御仁さえもいたそうです。
思えば戦前戦後にかけての有為転変により、かつての陛下の股肱も
今や職業軍人という代名詞で蔑まれる怒りの失業者軍団。
200名のうち半数以上が准士官以上という陣容です。
司令官、艦長、司令の経歴を持つ将官や大佐級、作戦の帷幕にあった参謀、
かつて恩師の短剣をいただいた英才に太平洋で武功抜群を称えられた将兵。
特務士官、准士官、下士官のかつての精兵が雁首を並べたこの集団の存在を
ある日共産紙がデカデカとすっぱ抜いたつもりで書き立てました。
「大日本幽霊艦隊健在なり」
と・・・。
YSグループには職を求めて終戦時穴ばかり掘っていた穴掘り兵や、召集されたこともない
ただのおっさん、そして陸軍軍人もデタラメの履歴で潜り込んでいました。
もっとも面接係の海軍の古狸は「来るものは拒まず」のいい加減、もとい寛容さを備えていました。
業務中に海に落ちられては困るので泳げない者に手を上げさせ 、
そのなかでもいかにも陸軍面の風格を持った求職者に
「船は何に乗ったか」
「ハイ、関釜連絡船に乗りました」
「それでどこへ行ったか」
「ハイ、北支であります」
「・・・・・やっぱり陸軍だな・・・」
「ハ、もとい、憲兵は陸軍でも海軍でも受け持ちでした」
「よし採用決定」
軍歴の立派な海軍軍人も怪しげな軍歴のおっさんも、皆等しく
戦後の困窮生活で食い詰めていたことに間違いはなく、
来るべくしてこの「老兵の吹き溜まり」 に流れてきた同志となりました。
保管船舶の係留場を「ネスト」と呼びました。
彼らはそれぞれのネストに分かれ、さらに個々の船に分乗して保安監視と
保存整備の労務に従事しました。
ここでは昼夜交代の見張り当直も、日常の手入れ作業も皆が平等に行います。
提督も佐官尉官も、上等兵曹も国民兵ももちろん元陸軍さんも・・。
それはまさにデモクラシーを絵に描いたような理想の平等社会でありました(笑)
それから足掛け4年間、元船乗りの老兵たちは、PF艇群をまるで愛撫するかのように
丹精込めてネストに繋がれた愛娘を手塩にかけて育てあげ、
それは、彼女らが自衛艦となるその日まで続きました。
そのうちPF艇のほかに、LSSL、上陸支援艇60隻が横須賀に配備され、
YBグループと名称の変わった旧YSグループの従事者は、総員850名を越し、
こうなると海軍経験者だけを採用するわけにもいかなくなってきました。
帝大出身の秀才、映画会社の技師、アメリカ帰り、戦犯釈放者、
倒産した自営の社長も縁故を頼ったりしてやってきました。
吹き溜まりには違いないのですが、中には「ある事情で」一時しのぎに職を求め、
そのうち大学に進学して将来を約束される地位に就いた青年もいました。
彼らのほとんどは戦死した海軍軍人の子弟であったということです。
1950年(昭和25年)、朝鮮動乱が勃発しました。
韓国海軍に転身する船を急速に整備するため、YBグループは
半狂乱とも言える動乱体制に否応もなく巻き込まれることになります。
観戦修理廠の造船作業に伴って、嫁入り仕度のおめかし(サビ落としと総塗粧)
が彼らの日課となりました。
YBグループの組織は役職が全て英語となり、軍ではありませんから
マネージャー、サブマネージャー、技術者はスタッフ、エンジニア、
そしてボイラーマンと呼称されていましたが、先般の共産紙はわざわざ
この組織図に
鎮守府参謀長=トップマネージャー
などという解説をつけてその欺瞞を暴いたつもりになっていたようです(笑)
とにかく、動乱体制ではマネージャーとサブマネ、人事担当以外は、
総員がカンカン虫と旧軍で称したところの、船底から重油タンクの中を
油と汗とペンキまみれで這いずり回る重労働に甘んじました。
そしてそれも終え、韓国兵が乗り込んでくると、エンジニアの経験者は
米海軍士官の指示を受けて、彼らの指導にあたりました。
みずからが造修を手がけたPF艇試運転の際には、マネージャーやスタッフたちも
弁当を持って便乗しました。
マネージャーはかつて世界最大の戦艦「陸奥」に艦長として座乗した人物でした。
黒潮のたぎる東京湾頭に艇が出たとき、彼は「陸奥」とは大違いの狭苦しいPF艇の艦橋で、
冬の冷たい西風からいささかも顔を背けることなく、昂然と海を眺めていました。
寒さのあまり鼻水が出ていても、露ほどの関心も払うことなく立つ元艦長に向かって、
アメリカ軍のチーフが無言のままそっと真新しいハンカチーフを差し出すと、
彼はさりげなく受け取って鼻の下を横一文字に拭い、一言
「サンキュー」
といってそれを自分のポケットに突っ込みました。
その日、東京湾は富士山が裾まで捲れて白波が走る快晴でした。
このマネージャーが「誰」であったか、元大佐の記述には明らかにされていません。
本人の経歴にも戦後YBグループで警備隊に関わったことは一切触れられていないのですが、
わたしはこの人物が二代目「武蔵」艦長であった古村敬三少将だったのではないかと思います。
続く。