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海軍陸戦隊~「敵国陸軍」「敵国海軍」

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「呉海軍墓地」シリーズもそろそろ終わりに近づいてきました。
海軍墓地にある慰霊碑をきっかけに、慰霊されている軍艦や部隊などを調べることで
また少しですが海軍と大東亜戦争についての知識が広がったような気がします。
(こんなきっかけでもないと、「サラワマット越え」なんて一生知らないままだったかも) 


前回から陸上部隊の碑を中心にお話ししているのですが、
本日冒頭画像墓石は個人墓となります。
どうも戦前からあるもののようですが、どんな海軍軍人の墓かというと、

 

「海軍陸戦重砲隊」 。

海軍陸戦隊とは元来艦船の乗組員に武装させたものを言いましたが、1930年からは常設部隊となりました。
明治時代には一時強行移乗を目的とした「海兵隊」と称する揚陸部隊があったのですが、
(砲撃戦の時代なのだから)時代遅れだということで1876年には廃止になっています。
「海外陸戦隊規則」で陸戦隊が明文化されたのはその10年後のことでした。


ところで墓石に刻まれた文字を見ると、なんとここに見える全てが

明治37年(1904)8月~9月

にかけての戦死者の墓であることが判明しました。
1904年、皆さんはこの年何が起こったかよくご存知ですね?
そう、この年の2月8日に、 旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍の駆逐艦による
奇襲攻撃によって、日露戦争が始まったのです。

ちなみに日本政府が最後通牒を発令してから最初の攻撃までなんと2日も間があります。
これでも奇襲っていうことになったんですね。悠長というか。

この時第一次攻撃をした駆逐隊は「白雲」(平仮名にするとまずいので自衛艦にならなかったあれ)
「霞」「朝潮」「暁」の第一艦隊を始め駆逐艦10隻でした。

「杉野は何処」で知られる広瀬中佐の「旅順港閉塞作戦」は開戦後一ヶ月以内に行われ、
「鴨緑江(おうりょくこう)会戦」は5月1日。
このときはロシア軍は日本軍の力を舐めまくって兵力を分散したので、
十分な準備をした日本にフルボッコにされてしまいました。

8月に入って、あの黄海海戦が起こると程なく旅順攻撃も始まるわけですが、
海軍陸戦隊の重砲部隊はこの一連の旅順包囲戦に参加しています。


ここの墓石の立ち並ぶ戦死者は、この時の攻撃で戦死した海軍軍人で、
艦隊の乗組員から構成されており、武器の重砲は陸揚げした艦載砲でした。

写真では全ての日付は読み取れないのですが、手前の墓石は

「8月21日」「8月24日」

旅順の第一回総攻撃は8月19日に始まっており、この二人は
8月24日までの激しかった戦闘のうちに亡くなったらしいことがわかります。
そしてもう一基、確認できる墓石の戦死年月日は

「9月19日」

この日はまさに第二次総攻撃前哨戦の始まった日にあたります。
こういう風に実際に見たものと歴史的資料が合致した時、
なんとも言えない達成感をつい感じてしまうのですがそれはともかく()

この日の17時頃から、南山披山と203高地へ4,000名による攻撃が行われています。
しかし、その晩は月夜でロシア軍の攻撃は正確を極め前進することができず
翌20日に突撃は延期された、ということですから、この戦死者はその正確なロシアの攻撃に
斃れてしまったということなのでしょう。

ここに小さいとはいえ個人墓があるということは、隊の指揮官であったと思われます。


ところで、いきなりですが「敵国海軍」「敵国陸軍」という言葉をご存知ですね?
このブログでも一度ネタ扱いしたことがありますが、それほど我が皇軍の陸海は
仲が悪かったということを端的に表している言葉です。

戦後よく言われることであり、負けたのはこのせいだという説もあり、
(わたしも仲が良かったら勝ちはしないまでもかなり展開は変わっていたと思います)
また、この轍を踏まないために、自衛隊では初級教育を一括してすることになったというくらい、
諸悪の根源とされていた事案でした。

しかし、これはあくまでも組織としての問題で、国民にすれば同じ皇軍。
どちらがどうと評価されていたわけでは決してないと思います。
もちろん世間では海軍の方がスマートでモテたとかいう傾向もあったようですが、
それを言うなら陸軍のマントやブーツに萌える戦時下女子だって一定数いたわけで。

2・26事件で首魁として処刑された磯部浅一にも現役時代そんなファンがいたそうですし、
中橋基明中尉に至っては美男子の上に洒落者で、マントの裏を総緋色にし、マニキュアまでして
香水の匂いを振りまきながらダンスホールでイケイケだったそうですから、
まあその辺に関してはわたしは「人による」としか言いようがありません。



話がそれてしまいましたが、同じ兄弟で陸士と兵学校に行ったという例はいくらでもありますし、
要はお役所的な縄張り争いというものが対立を生んでいたということなんではないでしょうか。


では、なにゆえ陸海軍の仲が悪くなったか。

その理由を知ろうとすれば、明治維新以前まで遡らねばなりません。
昔、日本では、ほとんど陸軍しかその必要性が認められていませんでした。
たとえば戊辰戦争では、新政府軍にも旧幕府軍にも海軍力はほぼゼロだったくらいで、
国内の戦いでは、滅多に海戦も起こらないのですから当然です。

というわけで当時の軍予算は陸海で10対1といったところでした。

その後、西南戦争が起こり、陸海間の対立は決定的になります。
というのは西南戦争とは一口で言うと薩摩藩の反乱だったわけですから、
その後の新政府樹立後も、同じく維新の立役者となった長州藩出身との関係は最悪。
その後、陸海軍が独立して出来た時に、両者はそれぞれ一緒にやることを嫌い、

それだけの理由で「陸の長州・海の薩摩」

に分かれてしまうのです。
もうこの時点で不仲は確定ですね。

しかも、当初10対1の力であった陸海間の力関係は、海軍が当初陸軍の隷下であったため、
独立することになってからも、それが尾を引きしこりとなって残ってしまいました。
さらに予算の食い合い、人材の取り合い、国への貢献度のアピールetc・・・・・。
利益が競合するのですから対立しないほうがおかしいというものです。


さて、以上のことを心に留めて、日露戦争の経過を見てみましょう。

どう見ても、この戦争中、陸軍と海軍が「張りあっていた」もっと言えば
「いがみ合っていた」証拠をここにありありと見ることができます。

わかりやすくするために(またかよ)会話形式でやります。



陸「旅順は監視だけで十分・・・・・と思ってたけど、
 北上する軍の後方にロシア軍がいたらやばいから攻城軍作るわ」

海「陸軍の後援は必要無し!」

陸「あ?海だけでやるってのかコラ」 

=4月6日に行われた会議=

出席者 陸軍:大山巌参謀総長、児玉源太郎次長
    海軍:軍令部次長伊集院五郎

海「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」

陸「なこと言って、旅順港閉塞作戦失敗だっただろ?今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」

海「くっ・・・・機雷で封鎖作戦したる!」→失敗

陸「ほーら言わんこっちゃないw今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」

=バルチック艦隊の極東回航がほぼ確定=

陸「ほらほら、バルチック艦隊来ちゃうよ?
 旅順どうすんのよ。陸軍の助け欲しい?欲しいなら言ってごらん?」

海「ほ・・・・・欲しい」

陸「最初から素直にそう言えばいいんだよ可愛く無い奴だな」

海「・・・・おのれ陸軍ギリギリギリ」

→旅順攻略・開城\(^o^)/\(^o^)/



ふーむ。

これどういうことですかね。
旅順艦隊は海軍がやっつけるから、陸軍は手出しするな、と言っていた割に
旅順港閉塞やら失敗してしまったので、陸軍が業を煮やして陸から参戦、でおk?


そういえば「伝説の男」というエントリで、海軍の有名人、都留雄三大佐の少尉時代、
ちょうどこの旅順攻略の連絡係で偉そうにしていた(陸軍側は少尉と知らずに上官扱い)
という話をしたことがあったのですが、その一文に、

旅順攻城作戦が遅々としてはかどらず、見るに見かねた帝国海軍は
陸戦隊を編成し、乃木軍に協力させることになりました。

なんて書いてあるんですね。いや書いたのはわたしですが。
まあ確かに旅順開城までの戦闘は難航し「遅々として捗らなかった」のは事実ですが、まるで

「海軍が見るに見かねて陸軍を手伝ったから旅順は攻略できた」

みたいな言い方じゃありませんか。

この元文を書いたのはもと海軍軍人だったので(源内先生だったっけ)
このような海軍目線の記述となったようですが、いくら物は言いようとはいえ、
やはり歴史は公平な目で見なければいけないと思いました。


しかしこのころは、ロシアという共通の敵にそれでも一丸となって当たっていたわけで、
まだこれでも仲良くやっている方だったみたいですね。後々に比べれば。

この後陸軍は農村の疲弊を巡って皇道派と統制派、海軍は軍縮会議を巡って艦隊派と条約派に分かれ、
また陸海の垣根を越えて皇道派と艦隊派が接近するなど、(例:東条と嶋田)
後々の日本社会の問題点ともなる「お家芸:組織における派閥争い」が生まれてきてしまい、

「うちの軍隊がそんなに強いわけがない。」

とこれだけ見ても思う状態になりました。
こんなことで戦争に勝てるわけがありましょうか。

まあ実際勝てなかったんですけど。


しかし、勝ったアメリカにしても、陸海間の仲が悪かったことにおいてはある意味日本以上で、
日本の陸海間に禍根を残した戊辰戦争に当たるのが南北戦争というのも似た構造。
加えてこちらは、日本における天皇陛下のような絶対の存在がなかったのでトップ争い、すなわち
陸海どちらの出身者が大統領の椅子を取るかで大変な争いがありました。

ニミッツとマッカーサーが犬猿の仲だったのは有名ですが、マッカーサー(陸)とルーズベルト(海)、
ルーズベルトとアイゼンハワー(陸)、アイゼンハワーとマッカーサー(陸同士)・・・、
と不仲のエンドレスサークルが形成されていたのが実情。
あの戦争で日本軍が勝利したとされる戦闘の多くは、この齟齬の賜物だという説もあるくらいです。
(一例:重巡インディアナポリス轟沈)


こちらはよくこんなんで勝てたなと思うのですが、日本が国力において遥か下だったことが幸いしました。
日本が陸海内で同じようなことをやっていなかったら、かなりやばかったかもしれません。

ちなみに戦後すっかり仲良くなって現在に至る日米の両海軍もとい海軍と自衛隊。
少し前までは日米の元海軍軍人同士で集まると、会の最後には必ず皆で

「Beat Army!」

と気勢を上げて親睦を深めるというのがデフォだったそうです。




後世の我々は日露戦争を「陸の旅順攻略」、「海の日本海海戦」で
各々得意の分野で力を発揮し、勝ち取ったという綺麗な面だけに目が行きがちですが、
(日露戦争大ファンの司馬遼太郎先生がそう思わせたせい)
淡々と述べられている歴史だけを見ても、さぞいろいろあったんだろうと思わせる不穏さに満ちています。
ここにお墓のある陸戦隊重砲部隊は、陸軍とどのように連携したのでしょうか。
一体となって外敵と当たるべき戦場において

「海のモンに陸で大砲扱えるのかよ」

なんて言われていなかったことを祈るばかりです。
何しろ同じ武器なのに陸「高射砲」海「高角砲」と呼び方まで違ったのですが、なぜかというと

「向こうと同じ呼び方をするのは気に入らないから」

というだけの理由だったそうですし(呆)




 

 


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