海保の南極観測船「宗谷」が見学できるのをご存知ですか?
お台場の「船の科学館」横の岸壁に係留されて、いつでも無料で中をみることができます。
このことを知ってから一度見てみたいと思っていたのですが、連休最後の日に、
たまたま近くの未来科学館でやっているイベントを見たがっていたTOと
意見の一致を見たので、行ってまいりました。
これがモノレール越しに見た「船の科学館」。
なぜこんな角度で撮っているかというと、見学の前、車をパーキングに駐めてから
ゆりかもめで一駅となりにあるホテルでお昼ご飯を食べたからです。
煙突に見立てた展望台が高すぎることを除けば、本当に大型客船のようです。
しかし、現時点で(平成27年5月5日)本館は無期限閉館中。
別館でわずかながら展示も行われているのですが今回は立ち寄りませんでした。
この無期限閉館は2011年9月30日からのことで、建物が老朽化したためという説明ですが、
当時の民主党政権の仕分けで、予算が減らされたことが大きな理由であることは明白で、
閉館前に見られなかった残念さが、今更ながらこの政権への怒りとなって蘇ってきました(笑)
許さん蓮舫。
博物館の安い駐車場があるのに、気づかずに民間の高い駐車場に入れてしまった怒りが
さらにそれに拍車をかけました。
こちらは民主党には全く関係ありませんが。
「宗谷」は、正確には岸壁に横付けではなく、誰でも歩いていける通路を甲板に渡して、
バリアフリー状態で甲板レベルまでは見学できるようになっていました。
乗っていても全く波の動揺はなく、どうやら船底は海底に固定されているようです。
「不可能を可能にする・・・強運と奇跡の船”宗谷”」
という横断幕がかけられていますが、これは船舶振興委員会会長だった笹川良一が
「宗谷」をここに展示することに決まった時に、彼女に捧げた言葉だそうです。
南極でのかつての「宗谷」の勇姿と、タロ・ジロの姿がありました。
みなさんもご存知ですね?樺太犬のタロとジロ。
わたしはこの手のものに本能的な胡散臭さを感じて、当時も映画は見ませんでしたが、
南極に放置した犬が1年後に2匹生きて見つかった、
という話は当時大きな話題として社会現象にまでなり、それこそ今なら、
彼らに国民栄誉賞でも出されかねない空気だったのは覚えています。
国民栄誉賞が動物にも与えられるのかどうかは知りませんが。
「宗谷」の後方には水産庁の「白竜丸」が繋留されていました。
てっきりこれも博物館展示されているのだと思ったら、とんでもない(笑)
「白竜丸」の竣工は2014年10月31日。
つまりまだ半年も経っていないバリバリの新鋭艦だったのです
何をもってこの最新式設備を備えた水産庁の「漁業監視船」を、「宗谷」のような
退役した展示艦だと思い込んだのか自分でもわかりませんが、いやまあ、
船ってなんとなく遠目には新しいとか古いとかわからないじゃないですか?
え?そんなものはマストや通信設備を見れば一目でわかるって?
確かに写真を拡大してみれば、衛星通信アンテナなんかもありましたが(笑)
しろーとは真っ赤に錆びた錨くらいにしか目が行かないのよ。
「錨があんなに錆びてるんだからつまり古い船なんじゃない?」
「時間があったらあちらも見に行きたかったね~」
と関係者が聴いていたら噴飯ものの会話をしながら「宗谷」のデッキを渡りました。
驚くことに、「宗谷」の見学は無料です。
おそらく昔は「船の科学館」の観覧料に含まれていたのでしょうが、
今はこの船だけならただで見ることができるのです。
だから今はパンフレットすら配られていません。
入り口に立っていた係員が、よろしかったら寄付をお願いします、
とおっしゃるので箱の中に寸志を入れたところ、このようなカードをくれました。
しかし後からこれも知ったことですが、実はこの「宗谷」もつい最近、
今年の1月末くらいまではリニューアルのため閉館していたのだそうです。
老朽化が激しく(なにしろ艦体だけで言えば77歳ですから)、メンテナンスのため
募金を募ってようやく改装にこぎつけたばかりだったというわけです。
ところで、「ホーネット」について書いた時、
「日本には記念艦『三笠』以外に艦体が保存されていない」
のは戦争に負けたせいだ、と言ったことがありますが、厳密に言うと、
一応海の上で展示されている元「軍艦」があったんですね~。
それがこの「宗谷」だったのです。
ここお台場にある「宗谷」の艦体がこの世に生まれたのは1938(昭和13)年。
彼女はメイドインジャパンですが、最初の名前はロシア風の
「ボロチャエベツ(Волочаевец)」(正確にはヴァラチャーイェヴィェッツ)
でした。
当時、北満鉄道を日本がソ連から買収したとき、契約の一部としてソ連のために
対氷貨物船を3隻受注したのですが、そのうちの一隻がこれだったのです。
この写真は川南工業株式会社香焼島造船所で行われた進水式の時のものです。
しかし、戦争前夜の不穏な時期に契約破棄になったため、ボロチャエベツは
その名で呼ばれることのないうちに、
「自領丸」
と名前を変えて竣工しました。
つまり、ロシア文字のつけられていたのは進水式の時だけだったんですね。
試運転中の「自領丸」。
これは国際情勢というよりも、ロイドの公試試験の規格を満たさなかったという、
日本の造船業にとっては屈辱的な理由もあったようです。
「自領丸」はソ連向けに造られ、耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀、
つまりソナーがが装備されていたため、海軍は大変興味を示していたのですが、
ソ連との契約がこじれてしまい、しばらく民間の貨物船として就役していました。
函館で蟹缶などの水産物を輸送する仕事をしていたころのことですが、
濃霧で寸分先も見えないという悪天候に見舞われたとき、
彼女はソナーで水深を確認しながらゆっくりと航行し、無事に帰港しています。
ソ連との契約問題が片付いた昭和15年、「自領丸」は海軍に晴れて購入され、その名も
「宗谷」
となって今日にまで至るのです。
海軍軍艦色の灰色塗装を艦体に施され、艦尾には 軍艦旗を掲揚した
「宗谷」の艦首には、8センチ高角砲が装備されました。
ちなみに、ソ連から受注して同時に生まれた姉妹艦二隻、天領丸、民領丸は、
どちらも陸軍に徴用されて工作船となっています。
「宗谷」は運送艦、英語で言うと「カーゴシップ」にカテゴライズされ、
これはもっぱら港や基地と基地の間での軍事物資、人員輸送を任務とした船です。
つまりそれまでの任務と同じことをやっていたわけで、「運送艦」だったのは
この「宗谷」一隻だけでした。
海軍籍になってから彼女は北洋での輸送兼測量任務のために艤装をあらため、
基準排水量 3,800トン
速力 12.1ノット
の軍艦として完成しました。
主に北洋での輸送に用いられ、開戦後は南洋、ラバウル、ソロモン方面での輸送、
測量任務に従事していました。
笹川良一が「宗谷」を「強運と奇跡の船」と呼んだのはだてではなかったのです。
まず、この時代に激戦地にあって何度も奇跡的な偶然によって命長らえました。
まず開戦後の1942年3月、ショートランドで測量中に水上機の襲撃を受けますが、
このときには駆逐艦が撃退して無事。
翌月も測量中に水上機に攻撃されますが、このときも無傷でした。
なぜか「宗谷」の行くところ、敵が手薄のため2度にわたる無血上陸の支援に成功していますし、
僚艦が潜水艦攻撃に遭って沈没されることはあっても「宗谷」だけは被害なし。
1943年の1月は、ブカで測量地図を作っているときに敵潜水艦に遭遇しました。
3本の魚雷を、鈍足の「宗谷」は身をよじるようにしてなんとか回避したのですが、
ついに4番目の1本が右舷後方に命中。
総員が覚悟を決めたのですが、幸い不発弾だったため爆発しませんでした。
「宗谷」乗員はその後、この魚雷を甲板にあげて皆で記念写真を撮っています。
戦地でこの余裕、実に男前です。
彼女は戦地に投入されることが予想されていたので、武器も搭載されました。
四〇口径三年式八糎高角砲1基、
九六式二十五粍高角機銃5挺、
九三式十三粍機銃3挺、
九二式七粍七機銃1挺、
落下傘付き爆雷10~20発、
三式一号電波探信儀三型
おお、高角砲などもいっちょまえに持っていたとは本格派。
ところでこの赤字で書いた「落下傘付き爆雷」ですがね。
「宗谷」には爆雷投射機が搭載されていませんでした。
しかし、対潜水艦対策として爆雷は積んでおり、いざ爆雷戦となったら潜水艦上海面に
突進し、しかるのち機雷班が爆雷を手動、いや脚動で蹴り入れたのでした(T_T)
投雷後一目散に現場から逃げるわけですが、鈍足ゆえ爆発に巻き込まれるので、
せめて爆雷に落下傘をつけ、逃げる時間を稼いでいたというわけです。
潜水艦にとっても逃げる時間があったということになるがそれはいいのか。
その後も海上で翼を休めていた水上艇と遭遇して(水上機との遭遇率高すぎ)
撃ち合ったり、潜水艦「シードラゴン」からの攻撃を受けたりと、それなりに
修羅場を踏んでいるのにせいぜい測距儀が壊され、負傷者が出たという程度の被害で、
いずれも致命傷にはいたらず・・、
浅瀬に座礁して身動きが取れなくなっても次の日何事もなかったように浮いて離礁したり、
船団の中で唯一「宗谷」だけが無事だったり、横須賀の空襲で、「長門」はじめ
他の軍艦が大変な被害に遭っているのに「宗谷」だけが見向きもされなかったり・・。
これは「雪風」レベルの幸運度なんじゃないでしょうか。
幸運度だけでいうと、「宗谷」は戦後の第二第三の人生においても、
奇跡としか言いようのない偶然で喪失を逃れているわけです。
なんといっても、軍艦でありながら戦後経歴偽装、じゃなくて
色々と幸運が重なって民間船となったのが幸いして長らく現役で活躍し、
のみならず2015年の今日、いまだその姿をこの世にとどめていることがなによりもその証です。
改装したばかりといいながら、いたるところ経年によるサビの浮いた艦体。
さあ、今からこの中へと入っていくことにしましょう。
続く。