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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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「宗谷」~海の守り神

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見学している時には海軍時代の、それこそ修羅の戦場を
何度も奇跡的に潜り抜けたという彼女の「凄さ」をまだ知らなかったため、
それほどの感慨はなかったのですが、前回のエントリのためにその艦歴を調べて、
「宗谷」が恐るべき強運艦であったことを知り、今更ながらに感激しています。


もちろんこの神がかり的な強運の陰には、「宗谷」と行動を共にしていて戦没していった
数多の艦があったのも事実で、いわば彼女は僚艦によって生かされたのでした。


こんなに幸運なのだったら、例えば海自の派遣部隊などは、任務の無事を祈って
その運にあやかるために「宗谷」詣でを計画してみればどうかと思うくらいですが、
「宗谷」は戦後から海保の所有になり、現在でも海保に船籍があります。

つまりまだ「生きていて」、月に一度は海保の特殊救難隊の救助訓練が行われているため、
昔帝国海軍の船だったと言っても、海自とは”無関係”という立場です。 

余談ですが、海保と海自はその成り立ちから(戦後海保が先にできたのに、後から
公職追放の解けた旧軍軍人を集めて作った海上警備隊と一緒に防衛庁の下部組織に
入ることになったので、海保は猛烈に反対してそのとき独立したまま現在に至る) 
あまり仲が良くなかったという話があります。

しかし今はそんなことを言っている場合ではなく、実際に不審船の追跡の際、
連携の悪さから追跡に失敗するという事件があってからは、
情報交換・共有の仕組みの検討、共同での対処訓練の実施が行われるようになっています。

陸海で仲が悪く、一層戦況を悪くしたあの失敗を二度と繰り返してはなりません(笑)



砕氷船時代に使われていたらしい浮き輪とv(^_^v)♪ブイ。



前甲板には護衛艦とは全く用途の異なる装備が見られます。
ほとんどがロープを巻き取るキャプスタンばかりのように見えますが、
確かめようにもこの部分は立ち入り禁止になっていて近くに行けませんでした。



これもロープを巻き取るものの形をしています。



一つ上の写真にも見られるのと同じ形の装備が左右に一つづつあります。
ここであらためて「宗谷」の砕氷艦時代のスペックを当たってみたのですが、
なんと

武器:40mm単装機関砲×1、20mm単装機関砲×1

を搭載していることがわかりました。
まさかこれがその機関砲・・・・ではなさそうですが・・。


それにしても、南極観測船に武器が備わっていたのか!
巨大生物系に襲われた場合を仮定して?と思ったら、これ海賊対策らしいですね。
こんなに武器を搭載したらオーバーキル、じゃなくて過剰防備なんて言われなかったのか。

ちなみに海自の「しらせ」には船の設備としての武器はありませんが、
やはり海賊対策として小銃と拳銃を搭載しているそうです。



前甲板から見上げた艦橋と操舵室。

海軍の「宗谷」から復員船に転用されたあと、彼女には一度廃船の危機がありました。
海軍の艦船として酷使され、戦地で傷も負い、船体や機関部に傷みを生じていましたし、
海軍艦時代に艦本式ボイラーに換装していたため、商船として復帰するには無理と判断され、
もう少しでスクラップの運命だったのです。

しかし、そのときちょうど、海上保安庁が、灯台補給船を探していました。

「おいら岬の~灯台も~り~は~♪」

という歌がありましたが、昔は灯台は人力による管理で、海の安全を
この灯台守(海上保安庁灯台部)が家族と一緒に灯台に住み込んで守っていました。
灯台というのはたいてい汽車はもちろん道路もないような僻地にあるもので、
船による灯台守家族のための補給がたいへん重要な海保の任務となっていたのです。

しかも、灯台は全国津々浦々にあり、北の果ての灯台に物資を送るには
氷を割っていかねばならないことも多々あるわけです。
そこで白羽の矢が立ったのが、海軍の砕氷船だった「大迫」(おほどまり)でした。

(おほどまり)

日本で初めて作られ、海軍が唯一擁していた砕氷艦ですが、
肝心の砕氷能力があまり優秀でなかったうえ、輸送任務で28年間フルに稼働はしていた彼女は
老朽化が激しかったこともあって、代わりに「宗谷」がこの任務に指名されたのです。

「大泊」は終戦と同時に除籍となり、4年後に解体されて生涯を終えました。




おそらく今年始めまでかけて改装を施したのは上甲板構造物だったのでしょう。
この部分だけ大変塗装が新しくなっていました。

現在の「宗谷」には、海保の所属を意味するこのコンパスマークが
フェンネルにつけられていますが、このマークが初めてここに付けられたのが、
この「灯台補給船」時代なのです。

「おいら岬の灯台守は」の歌がヒットした映画「喜びも悲しみも幾年月」は、
高峰秀子と佐田啓二の主演による灯台守夫婦の、戦前から戦後25年間を描いた話ですが、
この映画にはかつて灯台補給船だった「宗谷」の、「灯台の白姫」と呼ばれた
真っ白な姿が映像に留められているそうです。


このとき、「宗谷」は竣工から20年を迎えようとしていました。
かつては戦場を駆け回り、時には敵潜水艦に反撃したりした日々も過去。
今や「宗谷」は燃料、食料や日用品、ときには子供たちへのおもちゃを、
首を長くして彼女の訪れを待ち続ける灯台守の家族たちにとって

「海のサンタクロース」

と呼ばれ愛される第三の人生を余生として静かにその生涯を終えようと・・・


していたのですが、そうや問屋が卸さなかったのです。




しかしその話はまた後日、ってことで、とりあえず艦内写真の続きです。
これは甲板下の階のための明かり窓でしょうか。



なにかボイラーのようなものとその蓋にも見えます。
いかなる衝撃を受けたのか、向こうの取手?の金属がぐにゃりと曲がっていて、
「宗谷」の長い歴史のうちいつ何が起こってこうなったのかなどと考えます。


ポールの先に鳥が停まらないようになっている掲揚棹には
見たことのない旗が掲揚されていますが、船の科学館の旗でしょうか。

海上保安庁の任務を彼女が終え、解任式を行ったとき、ここからは海保の旗が降納されました。

竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、解役が決まった彼女は、
最後の任務として、海上保安学校学生の実習を兼ね、全国14の港を巡る
「サヨナラ航海」を実施し各港で、お別れを兼ねた見学会を行って回りました。


(これから解役式を迎える”宗谷”) 

このときに訪れた舞鶴港では、海上自衛隊舞鶴音楽隊がファンファーレで迎えています。

青森港では、大湊地方隊のヘリコプターが飛来して、宗谷の飛行甲板に大湊総監の

「同じ海上に勤務する者として、
輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」

というメッセージが投下していきました。
一日船長の春日八郎が「さよなら宗谷」を歌い、岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が

太平洋行進曲を←注目

演奏しています。

 


保存先が船の科学館に決まり、稚内港を出港する「宗谷」は、
「UW1(ご安航を)」の国際信号旗掲げ、「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られて、
長年の母港だった函館をあとにしたのでした。

 

そして1978年(昭和53年)10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎え退役します。
この解役式が解役式でも海上自衛隊音楽隊が国歌を演奏し、
国旗、海上保安庁旗、長官旗がおろされ、「宗谷」は巡視船としての任務を終えたのです。

下線を引いて注目してみたのは、セレモニーの要所要所で海上自衛隊が協力していることで、
これはとりもなおさず、「宗谷」がかつて海軍の艦船であったということからでしょう。



おりしもお台場から見える海を一隻の警視庁の船が通りかかりました。



写真をアップしてみると、「ひので」という巡視艇(パトボート?)でした。
中には帽子でそうと分かる警察官らしい人影が見えます。
こうやって警察が海の安全も守ってくれているんですね。
 

守る、といえば「宗谷」は、海軍艦船時代、数々の修羅場をくぐり抜けて無事でした。
稀代の幸運艦であった「雪風」とはもちろん戦歴も全く違いますから比較にはなりませんが、
それでも、あの戦争中幾度となく敵と遭遇し、戦闘を行ってなおかつ無事だった貨物船は「宗谷」だけです。


(復員船時代の宗谷)


戦後になって、復員輸送の任務にあたっては、触雷で沈没した復員船もあった中、
「宗谷」は全く無傷で約1万9千人の復員を行いました。

ソ連の侵攻後、ソ連兵の略奪、暴行に遭い、彼らから逃れて命からがら乗り込んできたものの、
憔悴しきっていた人々の何人かが、輸送中の船上で亡くなっています。

「宗谷」では後にも先にも、このときだけ海葬が行われ、遺体が甲板から海中に落とされました。

そしてその後、彼女は前述の灯台補給船として、灯台守家族たちの命と生活を守る役目に就き、
巡視船になってからは海難救助出動は350件以上、救助した船125隻。
このときに救助した人数は1000名以上に上ります。

巡視船になってからの宗谷は「海の守り神」という異名を取っていたそうですが、
彼女がその生涯で救ってきた命の総数は直接間接的にあまりに多く、数字で表せるものではありません。



続く。 









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