南極観測船としての「宗谷」の乗員総数は130名。
そのうち観測隊員が53名、乗員が77名でした。
観測する人とそこに連れて行く人は別組織で、観測隊員は国立極地研究所を始めとする
政府機関の研究員・職員がほとんどです。
会社から派遣される隊員や、大学からも参加があります。
ここは機関長室の並びにあった
「機関長寝室」。
前回ご紹介した男前の機関長の寝室となるのですが、昼間は航空長室を兼ねました。
航空長というのは、空母並みの航空機収容力を誇る「宗谷」における
フライングチームの長ということですが、観測のための飛行には
このような重装備で乗り込んだようです。
今ならヒートテック素材なんかでずいぶんこの辺りが改善されているのでしょう。
空からの氷状観察や物資の移送など、飛行班の任務は重要かつ重大でした。
機関長寝室の並びにある「第五士官寝室」のプレート。
77名の海保職員のうち、何人がオフィサーに相当する「士官」だったのでしょうか。
たとえばこの第5士官寝室には広いスペースに寝台がたった一つだけで、
完全に個室であるうえ、上甲板レベルの船的には最も優遇された場所にあります。
船長、航海長、機関長、航空長といった船の幹部だけが、このような居室を許されました。
ソファやイスにかけられた白いカバーの裾にフリルがあるのが昭和風レトロです。
第6士官寝室とされている部屋です。
実はこの居室は後から作られたもので、南極観測時には、ここに
高層気象観測室
がありました。
「夕焼けが綺麗だから明日は晴れ」「月に傘が被っているから雨」
などと、昔の人は天気を予想していましたが、これは、地表の大気と高層の大気は性質が異なり、
地上の天候の変化に先立って高層の気象が変化することから生まれた予測法です。
高層観測によって天気を予測するためにバルーンなどを上げる方法が生まれ、
日本では終戦直後の昭和20年9月から、Radiosonde(ラジオゾンデ)による観測をしており、
ここにはそれらの高層気象観測のための機器が置かれていたようです。
黒板には
12/6 当直(Br)←ブリッジ?
Anton Island 263° D 10.9(?)
などと謎のメモが残されております。
士官寝室の廊下にあった洗面所。
士官室にあったのと同じ金色のねじ止めされたプレートにわざわざ
「洗面所」と書いてあるのがシュールです。
士官用の風呂はかなり広々としています。
一人ずつ入れたのならなかなか贅沢な入浴ですが、専用浴室を持っていたのは
船長だけだったそうで、だとすれば士官も何人かが一緒だったかもしれません。
真水を節約するため、南極では氷の塊を浴槽に入れ、蒸気で溶かしたお風呂だったそうですが、
それは良いとして、航海中はなんと海水のお風呂だったとか・・・。
掛け湯だけが真水だったということなんでしょうか。
第1便所。
艦内には合計4つの便所があり、海水を利用して流しました。
復員船でたくさんの人員を輸送するときには、甲板に仮設のトイレを作りました。
極寒地を航行する「宗谷」には雪が積もり、トイレはさぞかし辛かったろうと思います。
こういうところの細部を見ると、最初の建造当時のまま、改装のたびに
ペンキを何回も塗り重ねた様子がよくわかります。
電気の配線コードのカバーにはペンキの垂れ下がっている様子さえ・・。
皆さんは「南極料理人」という映画をご覧になったことがありますか。
この映画は、南極観測隊に参加し、観測ドーム「ふじ」で、隊員のための
料理を作った元海上保安官の書いたエッセイが下敷きにされています。
食事が最大の楽しみである南極基地で、毎日隊員たちを飽きさせない料理を作るべく
奮闘する、というストーリーでしたが、左の写真はまさにその一シーンのようです。
いかにそこでの食が重要だったかは、この映画で、料理人の西村(堺雅人)が、
スピーカーで「ワルキューレの騎行」を昼ごはんの合図に鳴らすと、皆が
雪の中を転けつまろびつ基地に帰ってきて、ものも言わずに暖かい豚汁と
おにぎりを詰め込むシーンに表現されていました。
(余談ですが、この「南極料理人」、わたしの”笑いのツボ”にはまりました。
劇場映画を見てこんなに笑ったのは初めてだったかも)
「宗谷」時代の昭和基地には発電棟を含む4棟の建物が建設されました。
左の写真は最初に越冬した11名の隊員です。
右側は夏になって氷が溶けた南極で、戸外で焼き鳥パーティをしている様子。
焼いているお肉は『トウゾクカモメ』だそうです。
こちら現代の昭和基地。
三階建ての管理棟を中心に居住棟、発電棟などが通路で結ばれていて、
日本とほぼ変わらない日常生活を送ることができるそうです。
「南極料理人」は8人の隊員に対し一人の調理人がいましたが、現在の昭和基地には
二人の料理人がいて、調理を担当しています。
彼らは「南極料理人」の西村のように海保職員ですが、調理師免許を持っています。
食材はすべて船に積まれてきたものだけで、生鮮食料品はありませんから、
モヤシやカイワレダイコンなどと栽培しているのも映画と同じです。
ところで、国立極地研究所のHP、たとえば
第56次南極観測隊員
のページを見るとわかりますが、メンバーになんと女性が含まれているのです。
女性隊員は、1987年(昭和62年)の第29次隊の夏隊に1名参加したのを最初として、
2名が1997年(平成9年)の第39次隊の冬隊に参加したのが、
日本における女性隊員初の越冬となりました。
南極観測隊員は全員が越冬するわけではなく、「冬隊」だけが冬を越します。
越冬隊は1年にわたって昭和基地、あるいはドームふじ観測拠点で過ごすのです。
その後も女性隊員は数名ずつ参加し、(平成18年)の第48次隊の7名が最多となりました。
男性と同じ条件で過酷な南極観測も女性への門戸が広げられているのですが、
昭和基地の医療が妊娠・出産等に対応していないので、妊婦は隊員になることはできません。
そのため女性隊員には、砕氷船が帰国する時点で妊娠反応試験を受けることが義務付けられており、
万一その試験で妊娠が明らかになった場合は帰国が命じられるのだそうです。
ところで、日本の南極観測隊は1956年から始まりました。
この前年度の1955年、「国際地球観測年」に、南極観測参加の意思を表明しています。
国際地球観測年(International Geophysical Year)
とは、地球における様々な現象を検証するために、1957年から58年にかけて、
一年間、世界各国で気象観測をしましょう、とする試みでした。
ある取材でそれを知った朝日新聞社が、日本も南極観測への参加をしようと声をあげたのです。
近年、この新聞社の「運動」によって、日本の世界的地位が随分と失墜させられましたが、
このころの朝日新聞はまともに「日本」の国際地位復活なんかを考えていたんですね。
それは嫌味としておいておいて()。
この会議で戦後10年も経っているのに、戦争を理由に日本の参加に反対した国があったのです。
どこだと思いますか?
はい、それはイギリスとオーストラリアだったんですねー。
世界中を植民地にして搾取していた日の沈まぬ国(元)と、移民のほとんどが流刑囚で、
新天地ではアボリジニを迫害し、 スポーツハンティングと称して彼らを殺害していた、
そういう国が、日本に対して、
「戦犯国である日本は国際社会に復帰する資格はない」
とかいってくれちゃったりしたんですね。こりゃびっくりだ。
今ならなぜかそのとき「日本」だった韓国が「戦犯」を理由に反対しそうですな。
日本側はそれに対し、1912年に南極に到達した白瀬隊の実績を挙げて反論し、
援護射撃としてガチンコで戦ったアメリカさんと、なぜかソ連が日本の参加を推したため、
会議の最終日になって、南極観測隊の派遣が決まりました。
さあ、残るは参加のための資金です。
朝日新聞は一大キャンペーンを張りました。
慰安婦は強制連行だったので謝罪と賠償を・・・ではなく、
皆で日本の観測隊を南極に送ろう!
という一大キャンペーンを。(しつこいけど嫌味です)
朝日新聞の奮闘のおかげで集まった寄付金は当時で1億4500万円。
さあ、それでは船はどうする?
海上保安庁が船を確保することだけは決まりましたが、とてもでないけど
当時のビンボーな日本には砕氷船を新造するだけの資金はありません。
それでは外国の砕氷船を借りる?これも残念ながらお金がありません。
今日本が保有している船を改造するしかないということになったとき、
いくつかの候補の中から最終的に選ばれたのが、そう、
我らが「宗谷」だったのです。
続く。