息子のキャンプが行われたイエール大学の広大なキャンパスには、
また学校の施設の一環として幾つかの美術館、博物館があります。
バイオリニストの高嶋ちさ子氏が留学していたというくらいで、
音楽学部もあるせいか、世界の楽器を集めた楽器博物館などもあるくらいです。
なまじの日本の美術館などおよびもつかないような所蔵品を誇る
イエール大学美術館などは、 驚いたことに入場料無料。
ゴヤの素描やエジプト美術、アフリカやアジアの価値ある所蔵品を備え、
近代アートも充実しているこの美術館がなぜタダで入れるのか不思議ですが、
それだけ大学の資金が潤沢であるということなのでしょう。
おそらくここもボストンのハーバード大学のように、ほとんどを賄えるくらい
卒業生からの多大な寄付が集まってきているに違いありません。
さて、最初にニューヘイブンに着いたとき、キャンプのチェックインが行われる
オールドキャンパスを探して走り回っていたら、
「SAMURAI」
という看板が目につきました。
一去年はボストン美術館で「SAMURAI!」とエクスクラメーションマーク入りで、
美術館所蔵の甲冑の公開をやっており、皆さんにもお伝えしたのですが、
アメリカ人がサムライ文化に大変興味を持っていることは驚くばかりで、
この夏、ここ以外のニューイングランドの博物館でも「サムライ」をテーマに
何か展示が行われているという情報を見ました。
蛇足ですが「サムライ」以上にアメリカ人が好きなのが「ニンジャ」。
「ティーンエイジミュータント・ニンジャ・タートルズ」
というアニメを最初にこちらで見たときは目を疑いましたが、
この亀ニンジャ、(名前がレオナルド・ドナテッロ・ミケランジェロ・ラファエッロ)
彼らの師であるネズミは、飼い主の日本人の敵討ちを心に誓っているとかなんとか。
こういう子供への媒体物にも普通に設定されているのを始め、テレビのCMでも
ニンジャは(相撲レスラーもかな) しょっちゅうお目にかかることができます。
例えば中国の仙人やフランスといえばバケットにエッフェル搭といった、
だれでもその国に対して持っている異文化の象徴的な記号としての「サムライ」。
アメリカの大学の中でもさらにその最高峰に属する知性の府、
イエール大学の美術館で「サムライ」はどういう展示がされているのか。
わたしたちは息子をキャンプに送り届けた後、イエール美術館に次いで
この「サムライ」を見学することにしました。
冒頭写真は簡単な展示のパンフレットですが、わたしはそこに着くまで
このイベントが行われているのがあの有名なピーボディ博物館であるとは
全く知りませんでした。
いつ気がついたかというと、特別展である「サムライ」を見終わって
次の展示室で巨大な恐竜の骨が現れた時でした(笑)
というわけでそのピーボディ博物館の「サムライ」。
サブタイトルとして
「and the culture of Japan's Great Peace』
と書いてあるわけですが、この「グレートピース」ってなんだと思います?
サムライの世紀ということばから想起されるもの。
それは完全無敵な「武装戦士」が、死に対する諦念を穏やかに顔に浮かべ、
その一方、造形と天然の美に深く関わっていた世界。
彼らの現実、その変遷とパラドックスはどんなドラマより複雑なものです。
こんな紹介に説明される「グレイト・ピース」とは、いわゆる「天下泰平」。
250年もの間平和であった「サムライの時代」は、つまり徳川の時代でもありました。
内乱が起きることもない平穏な時代には、文化が花開くとともに、サムライの
多層的なあり方と、そのしきたり、きまりがもたらされた、とパンフレットにはあります。
まずはピーボディ博物館外観をどうぞ。
全米でも最も古い大学併設の博物館ですが、これも実は「寄付」によるものです。
1866年、イエール大学の古代生物学の教授であったオスニエル・マーシュが、
裕福な彼の叔父であるピーボディに「おねだり」したものなんだそうです。
ハーバード大学でも「少なくてごめんなさい」と言いながら億単位の寄付をした
卒業者の未亡人がいたといいますが、アメリカの富豪が出身大学、
ことに名門大学に寄付する金額は桁外れなものです。
余談ですが、日本の大学を卒業した台湾人が母校に行う寄付も桁外れに多いそうで、
ことに早稲田慶応などに彼らは大変熱心に寄付をするそうです。
サムライですから、もちろん兜が展示されています。
この変わり兜、なんとウニをあしらったものです。
ウニだけでなく庇の部分にもトゲトゲをつけて、お近づきになりたくない感倍増です。
兜飾りは中世以降、己の武功を誇り、存在を誇示するために行われました。
大将のものは何かをかたどったものが多く、鹿のツノに耳もちゃんと付いたのとか、
帆立貝みたいなのとか、本当にデザインを楽しんでいたんだなと思います。
茶の湯も武士には必須というべき嗜みの一つでした。
武家茶道というジャンルがあるくらいで、別名「大名茶」というそうです。
茶の流派というか流儀は各藩・各大名によってことなりました。
戦国時代にあって、戦乱に明け暮れる武将たちがこぞって茶の湯に熱中したというのは、
精神の拠り所を戦いの対極にもとめるという「バランス感覚」だったのかとも思います。
いずれにせよ、「大名茶人」といわれる本格的な茶人が、名物茶道具の収集に力を入れたため、
派生的に茶道美術の発展にもつながったのです。
昔の雨具、蓑ですが、庶民の藁作りより凝っています。
堅牢に編まれており、おそらく雨雪はほぼ完璧に防げたでしょう。
長時間濡れたらむちゃくちゃ重くなりそうですが。
かと思えば総刺繍縫い取りの絢爛豪華な着物もありました。
この模様全てがて刺繍で行われたという驚くべきもので、数百年を経た今も
その輝きは全く損なわれておりません、
よほど権勢を誇る大名がつくらせた着物に間違いありません。
拡大しても何が書いてあるのかさっぱりわからないのですが、
右のネズミとヒキガエルは実在するもので、左の猪と狐は中の人がいます。
当時のコミックであると説明にはあります。
「仮名手本忠臣蔵」、通称忠臣蔵は、日本の武士の「忠誠」、主君に殉じる義を尊ぶ
サムライという階級のあり方を表す物語として、海外でも広くその名を知られますが、
さすがに妖術使いまで出してきたキアヌリーブスの「47RONIN」はあまりヒットしなかった模様。
まあ、有名だからネタにもなったってことなんですが。
ちなみに松の廊下の刃傷沙汰のあと、浅野内匠頭が切腹したのはその日のうちで、
仇討ち討ち入りはその年の年末の約9ヶ月後。
47士が切腹の仕儀に処されたのは事件後3ヶ月経った時でした。
彼らについて本が書かれたのは事件が起きてわずか1ヶ月後のことで、
沙汰を待つ赤穂浪士たちの耳にもそのことは届いていたということになります。
パネルで仕切られた通路を曲がったとたんクマー!
この巨大なクマは北海道のヒグマで、なぜ「サムライ」の展示に
サムライとは全く関係ない北海道の生活に関する展示があったのかわかりませんが、
おそらくピーボディがこれらの資料を借りた時に、
(これらはピーボディ所蔵ではなく全てイエール美術館のものだそう)
サムライに関する展示だけではちょっと地味というか、もう少しパッと目につく
派手なものがあってもいいよね、ということでついでに借りてきたという気がします。
ところでなんだって北海道ヒグマの剥製がアメリカにあるんでしょうね。
武士が旅に携えていった携帯用の硯と筆セット。
どう見ても一回使われただけなんですがこれは・・・。
行李とその中に収められていた雑納のような袋。
袋には墨で「籠子」と書かれているのですが、推測するに
行李の中で衣類を仕分けする「仕分け袋」だったのでは。
武家社会の終焉と写真の出現は入れ替わりのような時期であり、
さらに「写真を撮られると魂を取られる」といった迷信のせいで、
侍が写真をその姿に残すことは、明治政府のドラスティックな近代化への転身の割に
少なかったと言われています。
しかし、何人かの武士たちが積極的に、武家制度の終わり頃の、
西洋文化との融合する様を写真に残しています。
写真は「最後の将軍」であった徳川慶喜。
1867年に撮られたもので、フランス風軍服に同じくフランス製のサーベルを佩しています。
しかし、やはり日本人は着物を着ている時のほうがかっこいいですね。
文化というものはどちらにとっても融合しようとするもの。
というわけで、この女性、メイベル・ルーミス・トッドというマサチューセッツ出身の
ライターであり編集者も、日本から取り寄せた着物と傘で「コスプレ」しています。
この写真が撮られたのは1896年のことです。
日本人的に一番ウケた展示がこれ。
あまりにもテリがあるので、これがおはぎであることがぱっと見にはわかりませんでした(笑)
戦国時代の戦乱と混乱の世にもかろうじて天皇制は存続しました。
16世紀には彼ら(天皇)は大変慎ましい暮らしをしており、彼らの支持者が
ひっそりと貢ぎ物を届けることによって生活しているようなものだったそうです。
1560年代(後土御門天皇から正親町”おおぎまち”天皇 まで)までには
貢ぎ物をすることは「ritual」、つまり儀式のようになっており、毎朝屋敷の持ち主が
天皇に六穀で作られた餅に塩で味付けした小豆のペーストを塗ったもの(おはぎ)
を朝食として届けるということが慣習となっていたそうです。
「彼らの住む領地には、天まで届こうという城が建てられている間、
その同じ空の藁葺き屋根の下で天皇がこのような貧しい食事をしていた
ということを想像してみてください」
解説にはこのようなことをが書かれていますが、そもそもここが日本でなかったら、
天皇はとうの昔に為政者によって処刑になっていたであろうということ、
「貧しい暮らし」とはいえ、天皇家を存続させることが当然とされており、
どんな権勢を誇った為政者も天皇家を断絶しなかったという、日本の「特異性」について、
まずこれを書いた人は、言及するべきだったのではないかと思います。
さて、わたしはキャンプ終了後、息子にこれを見せてやるためにもう一度
ピーボディ博物館を訪れました。
そのとき、ちょうど解説員によるツァーが始まっていて、アメリカ人ばかり、
年配の解説員に率いられて説明を聞いていました。
わたしが少し先に進んで展示を見ていたところ、息子が追いついてきて、
「ママ、あのおじさんの言ってたこと本当?」
と聞きます。
残念ながらわたしは解説を小耳にはさむほど英語は聞き取れないので
なんて言っていたのかと聞くと、
「カニはサムライの生まれ変わりだと信じられていたって言ってたんだけど」
ははあ、それでここにわざわざホルマリン漬けの「平家蟹」が?
これはあのモースが持ち帰った日本での収集品の一つで、
「Samurai Crab」
となっています。
さらに説明を読んでみると、
漁師が引き上げたカニの甲羅に怒れる形相を認めたとき、誰言うともなく
この顔は戦いで海に没した武者たちの無念の現れだということになりました。
源平の戦いは大規模な海戦によって終焉しましたが、少年天皇(安徳)と
その乳母を含む多くが海に没して亡くなりました。
日本では、戦いに殉じた魂は怨念を残すものとして畏れられていました。
琵琶曲「平家物語」も、彼らの魂を慰めるために作られ、演じられたということです。
となっています。
解説員の説明は決して間違っているわけではありませんが、
侍はカニに生まれ変わると信じられていた
という説明では微妙に意味が変わってしまっているような・・・。
そもそも、「平家蟹」が「サムライ・クラブ」と訳されてしまっているあたりで、
一般的な伝説のようにアメリカでは解釈されてしまったのかなという気がします。
もともと平家がにというのはこんな甲羅の模様をしていたけど、
源平合戦以降、これが人の顔に見えるような気がしてきたので、
これは負けた平家の武士の怨念か、って話になったってことなんですけど。
ピーボディの解説員が、この後他の展示についてもどのような説明をしていたのか
聞いてみたいところでしたが、時間がなくて残念です。
というのを目の当たりにして、豊富な資料をもとに、最高の頭脳による研究と調査が行われていても、
微妙なところで、言葉の違いから生まれた誤解(ともいえない誤解)がそのまま定着した、
という例は、実は世界中に無数にあるのではないか、と思ってしまったのでした。