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海軍特務艦「宗谷」、引き揚げ船「宗谷」

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いろいろな時代の「宗谷」を今まで語ってきましたが、ここでもう一度
「宗谷」が海軍の特務艦「宗谷」であった時代のことをお話しします。

医大を卒業し、配属命令を受けてある海軍軍医が昭和19(1944)年に横須賀にやってきました。

乗艦する艦名は知らされていません。
埠頭には軽巡洋艦「阿武隈」が停泊していたので、これか!と喜んだのもつかの間、
命ぜられたのは、その横にいた小型でヘンテコな型の船だとわかり、

「こんな格好悪い船に乗るのか・・・・」 

軍医は心底がっかりしたといいます。

 

乗ってみてその嫌な予感は当たっていたことがさらにはっきりしてきました。
砕氷船型の丸い船底のせいでゆれが凄まじく、石炭で走るため、8ノットしか出ない船。
乗組員は「四十八ノット」ならぬ「始終八ノット」と評していたといいます。
通常の艦船の速度の半分で、目的地まで倍の日数がかかるため、常に

「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ズ」

と信号を掲げて、船団より先に出発するのが常でした。

 

この軍医に限らず、初めて「宗谷」に乗り込む者は、
彼女が「軍艦」とはほど遠いのを知って一旦はひどく落胆するのですが、
不思議なことに、その気持ちは

「この船に乗れて幸運だった」

いう感激に必ず変わるのです。
戦後の「宗谷」に乗った者も、彼女に対する評価はこの点全く同じ経過を辿りました。

 

昭和20年6月、「宗谷」は「神津丸」「永観丸」とともに横浜港で
飛行機生産用機材を積み込み、朝鮮の羅津(らしん)港に運ぶべく、
岩手県三陸海岸沖を航行していました。

このころは、すでに日本近海も制空権、制海権ともにアメリカに奪われており、
「特攻輸送」と呼ばれるほどそれは危険な任務となっていました。

 
「敵潜水艦を発見!」


「宗谷」が他艦に知らせようとした瞬間、轟音とともに大きな水柱が空中につきあがり、
同行の「神津丸」が真っ二つに割れて轟沈していました。
たちまちばらばらになった遺体や船体の一部が浮き上がってきます。
再び、轟音が轟き、誰かが悲痛な声をあげました。

「永観丸もやられた!」

 

 直ちに「宗谷」は爆雷攻撃を開始しました。
逃げ足の遅い「宗谷」は落下傘をつけた爆雷を人力で海に落とし、
投下するや否やその場から脱出しないと爆発に巻き込まれてしまいます。 

投下後、ズンという鈍い爆発音が響きました。
「宗谷」が投下した爆雷が、敵潜水艦を仕留めた音でした。


戦闘が済んだあとは、生存者救助のためにカッターが降ろされました。
波間に漂う浮遊物や死体の中から、注意深く生存者を救出していきます。
あのとき乗り組んだ軍医は、たった一人で負傷者の救命作業に当たりました。

一刻を争う、まさに修羅場というべき軍医の戦場でした。

自分は彼らの最後の望みの綱だ。
彼らの家族やまだ見ぬ子孫のためにもここで命をつなぎ留めなければならない。

その必死の思いで軍医は救命にあたったといいます。

 

このたたかいを乗り切ったことが、戦後、彼の医師としての原点となりました。
戦後、内地に戻って間もなく、山間の村に医師として赴任した彼は、
自転車一つで村を奔走し、地域の医療に後半生を捧げましたが、
その志を支えてくれたのが「宗谷」での体験であったといいます。

彼は、 医師を引退した時に、寺に頼んで

『宗谷院医王潔海居士』

と、「宗谷」の入った戒名を作ってもらっています。
黄泉(よみ)の国に行ったとき彼は「宗谷」に乗りたいと願っているのです。



 

 

「宗谷」はもともとはソ連からの注文であったことは以前もお話ししました。
砕氷型貨物船とという注文だったのですが、進水後にもいろいろ文句をつけて引き取らないため、
海軍が目をつけて、ソ連と話をつけ、測量艦「宗谷」となったという経緯があります。

「宗谷」は千島列島や樺太周辺の測量、また開戦後はサイパンなど南洋での水路調査を行いました。
最前線の南洋で、浅瀬や防潜網、機雷などを正確に記述した海図を作る役目なので、
敵の偵察機に測量中狙われるという危険も度々でした。

 

昭和19(1944)年2月、連合艦隊司令部のあるトラック島に停泊していた際に、
「宗谷」は米軍機延べ450機もの空襲に襲われました。
魚雷攻撃や爆弾投下で、目の前の僚艦が次々に撃沈されていきます。

 

「宗谷」の砲手は敵機を迎撃しようと奮戦しましたが乗員は次々と機銃掃射で斃れ、
甲板は肉片の飛び散る血の海と化しました。

 
襲い来る敵機の前に「宗谷」は回避行動をとりましたが、その途中座礁してしまいます。
空襲後も夜を徹して離礁作業を行うも、全く動けなくなったことが明らかになったため、
銃弾を撃ち尽くした「宗谷」は「総員退避」せざるを得なくなりました。

 

翌朝、トラック島の鎮まり返った湾内は見るも無惨な光景でした。
アメリカ軍が自ら「アメリカの行った真珠湾攻撃だ」と嘯いたこの攻撃によって
沈没した艦船は50隻にも達したと言います。


しかしその湾に「宗谷」だけがポツンと浮かんでいました。
自然に離礁して、乗組員を待っていたのです。

「なんてやつなんだ・・・・」 


乗組員たちは目に涙を浮かべて彼女の強運を讃えました。

 

しかも艦の状態を調べてみると、損傷は少なく、航行にも全く支障はなかったので、
「宗谷」はただちに負傷者たちを乗せて、内地に向かったのでした。

 
いつのまにか「宗谷」には“不沈船”神話が生まれており、それは
艦内に祀られている「宗谷神社」のお陰という噂もたちました。

 
しかし、「鬼」とあだ名された「宗谷」の砲術長は、


「そんなものをあてにするな! 信ずべきは日頃の訓練のみである!」

と朝晩、訓練に次ぐ訓練で乗員を鍛え上げたといいます。


艦隊行動中、他の間に先駆けていち早く敵潜水艦を見つけたり、
それを爆雷で仕留めたりしているのも、そうした猛訓練の成果でした。
“不沈船”神話の陰には、あくまでも厳しい訓練で鍛え上げた練度があったのです。

 

そして日本は敗戦しました。 

9月のある日、ラジオから

「宗谷乗組員は浦賀擬装事務所に集合せよ」

という放送がなされます。
終戦後も海外に残っていた邦人は、軍人・民間人あわせて7百万人に上り、
その引き揚げのために、残存していた海軍艦艇132隻が全て動員されたのですが、
「宗谷」はその中の一隻となったのです。

 

こうして「宗谷」に戻った何人かの元「宗谷」乗組員にとって、
全てが「我が家」のように懐かしいものでした。

一ヶ月の間に引き揚げのための準備を終えた「宗谷」は
日本中の留守家族の期待を背負って、10月に浦賀から出港しましたが、彼女には
占領軍の命令で、軍艦旗どころか日の丸を揚げることも禁じられました。

 

当時の日本近海に、は米軍が「飢餓作戦」で敷設した磁気機雷が無数に浮遊していました。
帰国途中に触雷して祖国を見ぬまま死んだ引揚者もいたのです。
しかし、磁気機雷が国際条約に違反していたことから、米軍はその公表を禁じ、
その後元海軍軍人の手によって行われた機雷を取り除くための掃海活動についても
そのことが国民に公にされることは最後までありませんでした。 

 

掃海作業は、多くの殉職者をだしながら、
日本人の手によって戦後7年の間続けられています。

 

「宗谷」はフィリピンから1千2百キロほどの西方海上にあるヤップ島に向かい、
そこに駐屯していた陸軍兵士を引き揚げのために収容す任務に当たりました。
彼らのほとんどが栄養失調で、まともに歩けず戦友の肩を借りて歩いている者も多く、
ある者はデッキに上がった途端に感極まって嗚咽しました。

しかし、彼らの多くは極度の栄養失調から胃が衰弱していて、
何人かは米を食べるなり亡くなってしまったりするのです。

「宗谷」ではこのとき初めて乗員の手による「水葬」が行われています。

 

フォリピンを出て何日か後、水平線上に富士山の姿が見えました。

「富士山だぞー!」

船内がどよめいたその瞬間に甲板上に倒れた兵士がいました。
「おい!しっかりしろ!」
その男は、日本の地を踏むその寸前だというのに、
抱き起こされたときにはすでにこと切れていたということです。


「宗谷」の引揚任務は、グアム、トラック、上海、台湾、ベトナム、樺太、北朝鮮などに及び、
3年間で約1万9千人の人々を祖国に連れて帰ってきたのでした。






「宗谷」が灯台補給船から国民の期待を一身に受けて南極観測船になるとき、
修理設計をおこなったのはは戦艦大和を設計した牧野茂が担当したのをご存知でしょうか。

改造修理したのは横浜の浅野ドック。造船所でなく船の修理工場でした。
横浜の造船職人が集められ、それこそ不眠不休で改造修理にあたり納期に間に合わせています。

前回のエントリで、「宗谷」を南極に送ることは当時の日本人の悲願であり、
それを叶えるために各企業が協力を惜しまなかったことを話しました。

新しい船をそのために作るお金もなかった当時の日本でしたが、企業協力だけでなく、
この計画を提唱した朝日新聞社が1億円を寄付すると共に、広く国民に募金を呼びかけ、
小中学学生までが参加して、最終的に1億4千5百万円もの募金が集まったのです。

 「宗谷」の船出を見送った鳥居辰次郎・元海上保安庁長官は、
『宗谷の思い出』でこう述べています。


「宗谷」の南極派遣は、その当時敗戦に打ちひしがれた無残な日本を甦らせ、
一般国民、殊に青少年を鼓舞し、新生日本における精神高揚に、どれだけ貢献したことか。



 「宗谷」は昭和13(1938)年2月16日に進水しました。

川南豊作という青年実業家が、長崎で閉鎖されていた造船所を買収して、初めて竣工した船で、
青雲の志にあふれた彼の口癖は

「会社の金も、自分の金も、国のものである」

というものだったそうです。

 

 彼は、買収した造船所の前社長・松尾孫八を顧問に迎え入れ、社名を
「松尾造船所」と命名して、彼を男泣きに泣かせるような人情を備えた実業家でした。

そうした彼の会社によって精魂込めて建造された「宗谷」。
それから30年後に南極観測船として改造された際の監督官・徳永陽一郎は、

 
宗谷を改造するために、ばらして中身が露わになった時、
あまりにも内部まで立派に造られていたので驚嘆することになった。

 

と、書き残しています。

戦時中、なぜ僚艦が次々と戦没する中、「宗谷」だけが生き残ったのかについては、
「宗谷」が砕氷艦仕様となっていたため、立てる波が必要以上に大きく、
それで魚雷が当たりにくかったという説があるそうです。

しかし「宗谷」が稀代の幸運艦であったのは、戦時中だけに限ったことではありません。


彼女は、彼女を生んだ人々にとって「渾身の芸術品」だったのです。
あらゆる危険を回避することができたのは、乗組員の練度、仕様の堅牢さに加え、
先人たちのあまりにも強い思いが、彼女に強運を呼び込んだという気がします。


 

続く。



前半参考* 桜林美佐著「奇跡の船宗谷」


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