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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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東郷平八郎の”写真初体験”~東郷邸・軍港の街舞鶴を訪ねて

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さて、庭を見学した後、わたしたちは東郷邸に上がることになりました。
昔舞鶴鎮守府長官の官舎であったところですが、最初の住人が
初代長官であった東郷平八郎だったのでこう呼ばれています。

鎮守府というのは今更ですが、海軍の根拠地であり、
艦隊の後方を統轄した機関をいいます。
もともとは海軍提督府といったそうですが、最初の鎮守府は1876年、
横浜に設置され、その後これが横須賀に移転しました。
つまり、鎮守府の最古参というか総本山は横須賀と認識されていたのです。

呉と佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年のことであり、
舞鶴はその2年後なので、横須賀以外は皆同じようなものであるはずですが、
舞鶴は一番遅くにできたこともあって、格でいうと下という考え方もあります。

なにしろ、ワシントン軍縮条約のあおりで「鎮守府」から一時廃止され、
「要港部」に格下げされていたくらいです。



東郷邸の玄関口頭上には歴代鎮守府司令長官と、要港部司令官が
このように分けられて記してあります。

前々回、連合艦隊参謀だった清河純一中将が「鎮守府司令官」でなく
「要港部司令官」であることに疑問を感じた方はおられませんでしょうか。
これは、1923年から39年までの間、舞鶴は「鎮守府」ではなかったためなのです。

ですからこの16年間の間に要港部司令官だった18人の後、
13代司令長官となった原五郎中将から終戦までが「舞鶴鎮守府司令長官」
と呼ばれることになったということです。


一つの見方をすれば、戦前ここの司令官になった海軍軍人は
海軍の中では「窓際」であったといえなくもありません。

清河純一は兵学校では在学中、品行方正賞なども授与されているようですが、
いかんせんハンモックナンバーは59名中10位でしたから、それを考えると
要港部長官というのは、そのわりには出世したというべきだと思われます。

・・・という話を念頭に置いていただいて、中を見ていきましょう。



玄関は和風の造りですが、一歩入るといきなり洋風です。
これは洋風の部分に応接室、接客室があったからです。
昔はこの部分は靴のまま入ったのかもしれません。



海軍機関学校の卒業式などに帽子を置くためだけに作られた台。
せっかく作ったので使っていない時には花瓶を置いたりすればいいのに、
と思ってしまいますが、フェルトを貼っているため、他の用途には使えません(笑) 

 

昭和天皇と東郷元帥が一緒にいる写真を初めて見ました。
式典当日とあるだけで、なんの式典なのかわかりませんが、
撮られた場所が軍艦の甲板であることから、観艦式でしょうか。



自筆のサインのある東郷元帥像。
この写真も今まで見たことがありませんし、検索しても出てこないので
東郷写真としてはレアなのではないかと思われます。

おそらく東郷邸が今まで公開されてこなかったせいでしょう。




応接室の椅子も当時のものでしょうか。
一度くらいは張替えをしていそうですが、テーブルの上の札には
座らないでください、と注意書きがあります。 



応接室の窓から外を望む。
内側から見ても白い窓枠は実にエレガントな雰囲気です。



窓際に飾られている軍艦は(状況から見て)「三笠」。



廊下の部分にはガラスケースが置かれ、日露戦争関係の資料が展示されています。

「参戦二十提督 日露大海戦を語る」

「旅順港閉塞隊」

「旅順現状写真帳」

「東郷元帥一代の東郷元帥一代の記念」

といった当時の出版物。
上段見開きは「軍神広瀬中佐」として、

「(右)明治37年3月27日第二回旅順閉塞の壮挙に戦死せる中佐
(明治元年生・享年三十八才)
(左)第一回閉塞船報国丸を沈没せしめ任務を果たし終わらんとしつ
甲板を疾駆し去る広瀬中佐」

 

せっかくですので疾駆する広瀬中佐の絵を拡大してみました。
漫画っぽい。



廊下の壁には、セオドア・ルーズベルトが翻訳させた東郷元帥の
「連合艦隊解散の辞」英語版が掲げられていました。

冒頭には
「将軍命令 No.15」とあり、ホワイトハウス付で出された声明として
国のために戦う者であれば、陸海軍を問わず平時であっても武の心構えをもつべきとした
この言葉を胸に刻むべきである、故にこれを全軍に配布する、といったことが書かれています。

「連合艦隊解散の辞を読む東郷さんの肉声をお聞きになったことがありますか」

と海将補。
ありますと答えると、

「あれでは終戦の勅ではありませんが、現場で聞いていて分かった人はいなかったでしょうね」

聯合艦隊解散式訓示 



確かに。途中で咳き込んでるし。



こちらも日露戦争関係グッズ。
「露艦隊来航秘録」「露艦隊 幕僚戦記」「露艦隊最後実記」
などの戦記本、右上はよくわかりませんがロシア語の本です。
真ん中はまるで見てきたように描かれた「オスラビア」轟沈の図。

日本海戦の勝利がいかに当時の日本人を熱狂させたかが伺い知れます。



さて、ここでとっておきの画像を。
後列右の白いスーツを着たイケメン君が東郷平八郎。
説明によると「春日艦時代のもの」とあります。

先日、日本初の海戦は「阿波沖海戦」である、と書いたわけですが、
この海戦に参加した「春日丸」に東郷は三等砲術士として乗り組んでいます。
この写真は全員「春日丸」の乗組員であるということですが、
着物に帯刀の同僚がいる中、東郷は一人軍服に軍帽を携え、なぜか傘を持って写っています。

ときに東郷平八郎、二十歳。

小柄ではあったものの目鼻立ちの整った美男子である彼は、いつもモテモテだったといいます。
このころは快活でむしろおしゃべりという性向であったようですが、このあと、
留学のお願いをするために交渉した大久保利通が

「東郷はおしゃべりだからダメだ」

といったこと、そして念願叶って留学で渡ったロンドンで

「To go, China」

などと民族的差別にあったことから、 極端に無口になったといわれます。


こちらの写真は東郷(右端)が23歳のとき、とあるのですが、
上の写真で全員が乗っているソファらしきものが全く同じであること、
東郷平八郎の髪型がどちらも全く同じであることから、
同じ日に同じ写真館で撮ったものとわたしは思います。

それにしても不思議な写真で、左の男性は大きな瓢箪を抱え、
真ん中の既婚女性(眉毛がない、つまり引き眉をしている)は
串に刺した団子をもっています。
東郷はというと、鉢のようなものを抱えていますが、なぜか二人とも
目をレンズから逸らしたままで写っています。


東郷平八郎が二十歳のころというと1868年。

このころはまだ日本に初めての写真館ができてから7年しか経っておらず、
おそらく彼らの写真が撮られたのも、日本に数件しかない写真館でのことです。

つまり、「春日丸」の乗組員は、この日、

「新しく柳川にできた写真館にいってみやうぢゃないか」

というノリで、皆で連れ立って噂の写真というものを撮りに行ったに違いありません。
ということは、これが東郷平八郎の「生まれて初めての写真体験」ということになります。


魂を抜かれる、なんて噂も当時はあったくらいですから、ドキドキの東郷青年が
思わず目を伏せて写ってしまったのもわからなくはないですね。



続く。





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