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東郷邸の一心池〜海軍の街舞鶴を訪ねて

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海上自衛官の案内で巡る舞鶴海軍&海自施設のツァー、
ついに最後の行程になりました。

海軍記念館のある初代舞鶴鎮守府司令長官、東郷平八郎が官舎として
二年間住んだ「東郷邸」の見学です。



海軍記念館のある舞鶴地方総監部から、車で先導していただいて
山の方に5分ほど走ったところに東郷邸はあります。

案内の方が時間を急いだのは、わざわざ地方総監の将官が
わたしたちに東郷邸の案内をするために、現地でお待ちくださっていたからでした。

東郷邸は、グーグルで見ても正確な場所が特定できません。
海上自衛隊の保管となっているため、検索すると舞鶴地方総監が出てきます。

東郷邸の前にある駐車スペースに車を入れていると、すでに門の前には
真白い制服の肩に、二つ桜に錨の金も眩しい自衛官が佇んでおりました。


さっそく名刺交換をして、見学スタートです。



車を停めた道沿いの柵の向こうには海保の官舎があるそうです。

「昔は海軍の土地だったのですが、戦後、先に海保ができたもんだから、
こういうところを取られてしまったんですよ」

いきなりそれですか。



鎮守府司令長官の官舎なので、やはりセキュリティには気をつけたい。
ということで、セコムもアルソックもない当時は、屋敷の周り一面に玉砂利を敷きました。
玉砂利は踏むと特に深夜は音が響くので、鶯張りの廊下と同じ役割をします。



敷石伝いに門から入って行く人には関係のない話です。
敷石は途中で二手に分かれ、海将補は右へとわれわれを先導しました。



そこには目立てした白砂の美しい小さな庭園がありました。

わたしはここをご案内いただける話をしていたとき、

「東郷邸っていっても官舎なんですよね」

というと、そうですということでした。
初代長官が東郷平八郎だったからこう言っているだけで、
終戦まで歴代鎮守府長官が住んでいたわけですから、正確には

「東郷平八郎も住んだ!舞鶴鎮守府長官庁舎」

と言うべきなのです。
まあ、これもキャッチフレーズというものなんでしょうな。
東郷邸は舞鶴市の近代化遺産に指定されていますが、管理は海上自衛隊が行っています。



「それでは庭に入ってみましょう」

「えっ!目立てしてあるのに」

「構いません。わたしどもが毎朝掃除しますので」

そう言って中に入って行く案内の広報の方。
座敷に土足で入って行くようなこの罪悪感は何?



本施設は海上自衛隊の所有であり、現在も幹部会議に利用されています。
正式名称は「海上自衛隊舞鶴地方総監部会議所」となっています。

本来非公開だったのですが、舞鶴市制70周年を記念して平成25年5月27日の
「海軍記念日」に初めて公開されたほか、昨年も、舞鶴で開催された
「海フェスタ京都」の際に一般公開されてそのとき好評だったことから
今年の四月、定期的な一般公開を始めることにしました。

公開日は毎月第1日曜日(1月は第2日曜日の予定)午前10時~午後3時。
入場無料で駐車場はありませんとのことです。

しかし、その際、庭に入れるかどうかはわかりません。



庭に案内されたのは、この「一心池」をみるためです。

初代長官であり、この官舎の最初の主であった東郷平八郎中将の晩年の趣味は
園芸だったといいますが、明治35年、つまりこの官舎に住みだして1年目に、
狩猟の途中に見かけた改修中の庭を見かけて、作業していた庭師に声をかけました。
すると庭師は、自分の作っていた不思議な形の池について

「一心池というのは、心という文字を模した池に一文字の橋をかける手法で、
中国の禅の思想を含み、極楽浄土や神仙境をはるかに遠く隔てた大海を意味する」

と説明しました。
東郷中将はいたく感銘を受け、その庭師に依頼して官舎の庭に池を造らせました。
しかし、説明された海将補は

「わたしにはどうみても心という字には見えないんですが」

ときっぱり言い切られます。



いや、まあ、こういう角度から見ても・・・ねえ?

しかも、このなんだか日曜工事で作ったみたいなコンクリートの池は、何?
これは、平成5年に護岸されていた石をわざわざ取り除いて、
コンクリートで固めてしまったそうです。

風情も何もあったもんじゃありませんが、それもこれも
すべての管理をお金のない自衛隊に押し付けるからこういうことになるんですよ。

違う?



邸内にあった説明の写真を見てもよくわかりません。

さらに解説すると、橋の部分が「一」を表します。(わかる)
くねった形の池が「心」の「し」の部分で(わからない)
木と石を配してこれを「心」の点三つに見立てるというのです。(わかるような)



昔は池の周りに植わっていた程度の木だったのでしょうが、
明治34年(1901)に植えられて114年が経過した今では、
ただでさえわかりにくい池の形や築山を覆い隠すくらい葉が茂っています。

庭創建当時に庭師が

「月は波心に落つることあり」


の意味を込めて配した組み石のほとんども、いまでは厚い苔に覆われて
埋もれてしまい、もはや見ることはできなくなっています。


「一心池」と書かれた碑石ですが、この時を揮毫したのはなんと、
「旅順港閉塞作戦」の立案者であった有馬良橘。
この碑石を作ることが当時の舞鶴鎮守府長官によって決まった昭和16年、
たった一人だけ存命だった東郷元帥の元参謀として、80歳にして筆をとりました。

有馬良橘は予備役に入ってから、生涯明治神宮の宮司を務めており、
昭和5年に東郷平八郎が逝去したとき、葬儀委員長に推挙されたのですが、
神官が葬儀に関わることを禁止した通達に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり、
葬儀委員長の方を辞任しています。
代わって委員長を務めたのが加藤寛治でした。


終戦になってここもまたGHQに接収されることが決まった時、
関係者はこの碑石を東京の東郷神社にある「御成池」端に移しました。

おそらくアメリカ人はこの石の意味がわかったからといって
排除したり損壊したりすることはなかったと思われますが、
当時の日本人には、昨日までの敵国人がどんな振る舞いをするかは想像もつかず、
とにかく別のところに移そう、ということだったのでしょう。

昭和44年になって東郷記念館が完成したとき、その落成記念祝賀の席上、
舞鶴地方総監に転勤する星野清三郎海将(海兵63)に、

「この碑石は本来舞鶴旧長官邸にあるべきもの」

と持ち帰ることが依頼され、24年ぶりに元の場所に里帰りし現在に至ります。



建物の鬼瓦の部分にはさりげなく錨のマークが。



ここにも。
瓦は葺き替え、雨どいも近年新しく補修したようです。



すべての部分に錨が付けられている模様。

軒下の照明は、一心池をライトアップするために取り付けられたようです。



廊下の突き当たり、張り出した部分はトイレかな?
現在も現役で使われている施設なので、当然改修されているでしょう。



呉の鎮守府長官邸と全く同じ、和洋折衷の建物となっています。
洋式建築の部分では長官の公務が行われ、外国の高官を迎えることもあったに違いありません。



わたしはカメラ派ですが、その他2名はスマホ写真派です。



洋館部分外壁細部。
唐草のような装飾が瀟洒なイメージです。

日本式家屋を作る大工と、こういう様式建築の大工は、
全く別だったと思うのですが、どうやって作業したのでしょうか。



さて、庭からの見学を終わり、敷石伝いに今度は玄関に回っていきます。
わたしが庭から座敷の写真を撮ろうとしたら、

「この後上がっていただけますから」

と制止されました。
なんと!中に入れるとは全く期待していませんでした。



115年前、東郷平八郎が踏んだその同じ敷石をつたって、
いよいよ舞鶴長官公邸(元)に入っていきます。


続く。


 


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