舞鶴地方総監の自衛隊を訪問し、岸壁の護衛艦見学、
そして海軍記念館の見学を駆け足で行いました。
海軍記念館は大講堂の控え室に当たる部分です。
昭和8年、天皇陛下の舞鶴御行啓が行われることになり、
海軍機関学校が置かれていた小高い土地に、天皇をお迎えし
御臨降を賜るための場所が作られることになりました。
当時のお金で6万円、今の3億円くらいの費用をかけ、
わずか3ヶ月の工事で完成させたのが、この大講堂とそれに付随する記念館の部分です。
中に入ってみると、江田島の海軍兵学校大講堂ほどではないとはいえ、
突貫工事で作られたというのに築80年越えてなお美しさを維持しており、
いかに堅牢に当時の建築物が作られていたのかが伺い知れます。
大講堂の正面から見て左手の壁にはこのような巨大な油絵がかかっています。
東城 鉦太郎作、「旅順港閉塞作戦」。
ご覧の通り、日露戦争の旅順港閉塞作戦において、「福井丸」からいままさに
脱出せんとする乗組員たちを描いたものです。
ロシア海軍の旅順艦隊は、旅順港を根城にして兵力の温存をはかるとともに、
そこから出撃しては日本近海での攻撃を繰り返し、連合艦隊はこれに苦しめられていました。
有馬良橘中将の発案で行われたこの作戦は、瓶の口のような形の旅順港の入り口に
船を沈没させて中に旅順艦隊を閉じ込めてしまうというものでした。
そこで、三次にわたって閉塞のための決死隊が派出されます。
この絵はご覧のように、第二次作戦で戦死し、軍神と称えられた広瀬武夫中佐が
戦死する前の退避行動を描いているのですが、作者の非凡さを感じるのはこの構図です。
絵の中心となっているのは被弾した「福井丸」から脱出するボートに
今ロープ伝いに移乗しようとする乗組員であり、ボートの乗組員たちとなっています。
この絵における「主人公」のはずの広瀬少佐(当時)は、脱出する部下の上で
舷(ふなばた)から身を乗り出して気遣わしげに見守っているものの、
その姿は闇に溶け込むように判然とせず、顔すら明確に描かれていません。
ご存知のようにこれはあの悲劇の戦死の起こる前を描いたものであり、
広瀬中佐はこの直後、杉野孫七上等兵兵曹を探して弾倉に降り、
見つからないまま部下に促されてボートに乗り移ったところで戦死します。
それは一瞬のことで、隣に座っていた乗組員もその最期を見ませんでした。
まさに一瞬で広瀬の体は消え、隣に座っていた者はマントに血糊を浴びました。
そのマントは、現在江田島の教育参考館に保存されているそうです。
画面の右上にはロシア軍のサーチライトが数条光っており、息をひそめながら
ボートで待機する「福井丸」の乗員をサーチライトが一瞬照らし出しています。
この後、このサーチライトで発見された「福井丸」が、ロシア軍の砲撃を受け、
その砲弾がボート最後尾に座っていた広瀬中佐の体に直撃し、
一片の肉塊を残して海中に没するという運命がおとずれることを、
この絵の前に立つ日本人なら全てが知っているからこそ、(ここ伏線)
この瞬間を描いた絵はより一層ドラマティックであり、悲劇を感じさせるのです。
「額縁をよく見てください」
案内の自衛官が指差しました。
金の縁取りに囲まれた木材の所々には瑕疵にもみえる何かが見えます。
「これは、閉塞作戦で広瀬中佐が乗っていた船の木材なんですよ」
日露戦争終結後、旅順港の「福井丸」は引き揚げられ、その船体は
様々な「記念品」に加工され、世に出回ったのですが、この額縁もその一部です。
以前「三笠刀」といって、三笠の艦体から作った刀についてお話ししましたが、
このころはこういう記念品を作っている「余裕」があったということなのでしょう。
引き揚げられるまでの期間に付着した牡蠣の殻、そして船喰い虫の跡、
「福井丸」に使われた金属部分までが残されているのです。
本講堂は現在でも舞鶴地方総監部が式典などで現役使用中です。
「対して舞台の右側正面の絵をご覧ください」
バランスをとるように、こちらにもほぼ同じ大きさの絵画をわざわざ制作したようです。
「伊勢神宮に行かれたことがありますか」
「はい」(二人揃って返事)
「それではここがどこかお分かりですか」
「御手洗場(みたらしば)ですね」
こういうことを即答するのはわたしではなくTOの方です。
伊勢神宮の内宮には、まず五十鈴川という、自動車会社の「いすゞ」の
名前の元になったという川があり、そこにかかる橋を渡っていきます。
(軍艦『五十鈴』、護衛艦『いすず』ともにこの川に因んでいます)
この橋、宇治橋は聖俗界を分ける境界といわれ、ここを渡ったら
まず御手洗場で手と口を清めてお参りをするのです。
絵の額に使われているのは伊勢神宮の遷宮の際に出た神殿の木材です。
この額の製作には、職員が斎戒沐浴してあたったということです。
さらに絵の一部を拡大したものをご覧ください。
御手洗場の今も残る石段には三人の人物が見えます。
一人は神職であり、後のふたりはセーラー服の水兵とその母親です。
息子は先に手を清めたらしく、手拭いを使っており、その母親は
息子に手拭いを渡してから今度は自分が水辺に膝まづいています。
作者の中村研一画伯は、ジョージ6世戴冠式の折には軍艦「足柄」に乗って
渡欧した経歴があり、おそらくその関係からか、藤田嗣治などとともに
戦争画と呼ばれる作品を19点(これは藤田よりも多い)戦時中に作成しています。
有名なのはマレー沖海戦を描いた作品でしょうか。
藤田はご存知のように戦後そのことを糾弾されてフランスに行ってしまいましたが(笑)、
中村画伯の経歴にはそのようなパージに遭ったとは書かれていません。
なぜここに伊勢神宮の絵を海軍が依頼したかですが、最初に
「福井丸」の廃材を使って作った閉塞作戦の絵ができ、もう一対バランスをとるために
やはり伊勢神宮の遷宮の際に出るお下がりの木材を使って額を作ることが、
まずここに飾る絵のアイデアとして出たのではないかと思われます。
そのアイデアありきで山下画伯に依頼されたのが、御手洗場の絵だったのでは・・。
大講堂天井。
見る限り、はめ込み式の灯りや大型の送風機が最近付けられたようです。
現在も自衛隊の式典が行われるのですから、送風機は夏場対策ですね。
かまぼこ型の天井には変わった形のシャンデリアがありますが、
なんと、これは舵輪をそのまま利用しています。
江田島の大講堂の照明は「舵輪をかたどったもの」ですが、これはそのまま。
さて、ここで御行啓のときの写真をご覧いただきましょう。
巨大な国旗の交差したアーチを、天皇陛下のお車が今通り過ぎんとするところですが、
左に見えている軍楽隊のいる方に上がっていけば、海軍記念館があるはずです。
右には今も残る海軍機関学校の校舎らしきものが見え、
その前には、すでに一種軍服に身を包んだ海軍軍人が整列しているのが見えます。
手前には線路が見えていますが、これは、
今回地方総監の近くで目撃したこの汽車と関係あるでしょうか。
これがいわゆる「阪鶴鉄道」というやつかな?
「知り鉄」の方、どなたかご存知でしたら教えてください。
さらに陛下のお車が現在の海軍記念館の車寄せに停まっている様子。
参考までに現在の海軍記念館。
昔は全くなかった木が立派に生い茂っています。
昭和8年、天皇陛下御行啓の際の大講堂の写真。
「旅順港閉塞」の絵が左端に見えています。
おそらくこちら側の壁には「旅順港」と向かい合わせに「御手洗場」があるのでしょう。
あと大きく現在と変わっているのが天皇陛下のお立ちになっている部分です。
GHQに接収されたあと、講堂は畏れ多くも()ダンスホールとなっていました。
陛下のおられた場所はこちらも畏れ多くもダンスバンドのステージとなり、
そのため、この頃より一段高く改装工事がなされることになりました。
現在でも舞台袖にあるドアは、床が高くなってしまった分、低いまま使われています。
しかし、米軍はこれら2枚の絵には手をつけませんでした。
やはり山下画伯の描いた「マレー沖海戦」のようなものであれば撤去したでしょうが、
「閉塞作戦」の絵も、広瀬中佐を知らないほとんどのアメリカ人にとっては
「兵員が船に乗り移って脱出しているだけ」の絵であり、(そもそも日露戦争の絵だし)
ましてや御手洗場の絵は「ただの風景画」にしか見えなかったからに違いありません。
しかし、そのおかげで、この二枚の絵は、現在も昭和8年当時から変わらず、
ずっとここにあるのです。
大講堂の説明を終わり、もう一度記念館の展示室を通り抜けて外に出ます。
ところでここに海軍記念館を作ることになったきっかけというのは、これでした。
記念館入り口に鎮座する東郷平八郎元帥の胸像。
昭和20年、敗戦となって日本に進駐軍がやってくることがわかったとき、
関係者は様々な軍資料を廃棄しましたが、この胸像はアメリカ人の手に渡って
「見世物」になったり損壊されるのを防ぐため、ある場所に隠されました。
そして、戦後の混乱期、おそらくはそれを隠した本人もそのことを忘れたか、
あるいはこの世を去ってしまい、そのまま18年が経ちました。
昭和38年、西舞鶴港埠頭をパトロールしていた警官が偶然埠頭に埋められていた
東郷元帥の彫塑を発見し、海上自衛隊に寄贈したのですが、それを契機として
ここに海軍記念館を作るという運びとなったのです。
舞鶴の海軍関係者からゆかりの品の寄贈を募り、それらの収集品を展示する
海軍記念館が出来たのは、彫像発見の次の年である昭和39年のことでした。
続く。