帰投途中に見かけ、艦内アナウンスでも説明のあった「海堡」と
祝砲の撃たれた観音崎砲台との関係に気づいてしまい、軽いエピソードで入れるつもりが
まるまる1項を割いてお話しすることになってしまい、最終回が一つ遅れてしまいました。
しかし、帝都地下の要人用秘密通路や地下要塞のように、
我々のあずかり知らぬ世界がかつてこんなところにあったということを知り、
つい興味を惹かれて皆さんにも聞いていただきたかったのです
というわけで、「ちょうかい」が木更津港に入港しようとしているところから続きです。
「両舷前進最微速」
「80度よーそろ」
「赤黒なし横つけて」
先に停泊している「あすか」の艦橋デッキに鈴なりになっている人々が
はっきりと見分けられるようになった頃、艦橋ではこんな掛け声がかかりました。
艦橋α「曳船これ使ってます?」
艦橋β「使って・・・・ます」
曳船が押しているかどうか艦橋からではわからないものなのですね。
そしてついに、
「両舷停止」
そのあとも左にふれたり、前進最微速をとったりして行き脚で調整し、
お任せすべきは曳船にお任せして、ピタリと位置を決めます。
「あすか」「ちょうかい」「こんごう」と岸壁に並んだ三隻が
見事に艦首を揃えて停泊しているのも、なんでもない景色に見えますが、
操舵と曳船の共同作業の賜物だとわかります。
「前進ヌキアシ」
「抜き脚」とは・・・・多分「行き脚」の反対だと思う。
このあとも「両舷停止」と「内角何度」「左後進最微速」が何度となく繰り返され、
「内角1度」から、
「ただいま岸壁と並行」
「行き脚止まった行き脚なし」
「わずかに後進抜足」
「両舷軸ブレーキ完」
「両舷軸を止める」
「両舷軸回転下降」
「両舷軸ブレーキ脱」
そして艦橋後ろで(わたしの横ですが)操舵していた1等海曹が帽子を外しました。
このときはまだ操舵中ですが、向こう側にいるこの道何十年!みたいな風格の海曹です。
正帽の下はベテランらしく髪は半分白髪でした。
このときわたしはふと艦橋にかかっている時計を見ました。
示されていた時間は4時39分45秒。
木更津に向かう航路航行中、たしかアナウンスで、
木更津入港は4時40分になると言っていたような気が・・・。
お、恐るべし。自衛隊のミリミリ(使い方ヘン?)恐るべし〜!
入港作業はこれで終了、と判断し、わたしは艦橋からウィングに出てきました。
今日1日ここにいてすっかりおなじみになった光景ですが、さっきまでとは違い、
向こうに「あすか」のマストが見えています。
訓練展示中は人多すぎで近づくことのできなかった艦橋デッキの端も、
もはやそこから外を見ようとする人など一人もいません。
艦首部分を眺めると、そこには一団の曹士が固まって立っていました。
赤い腕章のインカム付きは通信係として、残りの人たちは、これから入
「ちょうかい」の左舷に曳船が防眩物を運んでくるのを待ってそれを取り付け、
また「こんごう」が入港してきた時にもやいを掛けるために待機しているに違いありません。
艦首旗は入港と同時に揚げられたばかり。
日没までの停泊時というのが艦首旗の掲揚に決められているので、
もうすぐ降ろされることになるのですが、その辺は疎かにすることなどあり得ません。
甲板にいた人々は今頃ラッタルに向かって移動し始めている頃かもしれません。
しかし、艦橋にいる人々はここから先が長いことを知っているので、
下艦はかなり先のことと心得、のんびりと最後のひと時を楽しんでいます。
わたしの近くにいた男女がこんな会話をしていました。
「ああ、終わりましたねえ」
「次は3年後・・・・・ってことで」
「3年後か・・・その時生きてるかどうかもわかんないのに」
「そんな・・・縁起でもない」
女性は笑っていましたが、わたしはそれを聞いてはっとしました。
前回観艦式で、それまで観艦式どころか自衛隊の行事にどうやったら参加できるのか、
全く門外漢でそれすら知らなかったわたしが、なぜ「ひゅうが」に乗れたかというと、
ある防衛団体の会合で知り合った、防衛大学校卒の会社経営者のおかげでした。
わたしが自衛隊に興味があるということで、その方が防大の「コレス」にあたる
元自衛官に頼んでくださって、「ひゅうが」乗艦が実現したのです。
しかし、陸自、空自と順番が巡って、海自の観閲式の順番が巡ってきたそれから3年後、
すでにその方は、夫人共々この世の人物ではなくなっていました。
去年の暮れに、まだ若々しくお元気そうだった夫人が癌のため急逝し、
周囲の衝撃の覚めやらぬまま半年経った今年の初夏に、その方はまるで
夫人の後を追いかけていくかのように、病気で逝かれたのです。
そのことをわれわれに知らせてくださったのは、3年前、その方を通じて
前回の観艦式のチケットを手配してくださった、元自衛官でした。
今回わたしは、観艦式に参加しながらも、まるで青々(せいせい)とした空の一隅に
ポツンと小さい黒い雲が浮かんでいるような思いがどうにも拭えなかったのですが、
この男性の一言によって、それが、この夫妻のことであったと思い当たりました。
3年前の観艦式の一日、わたしはそのご夫妻を中心としたメンバーと共に、
今日と同じように護衛艦に乗り、訓練展示に目を見張り、艦内ツァーをご一緒し、
横浜の大桟橋に「ひゅうが」が着いた後は、皆で中華街に繰り出して
そこで美味しい中華料理を夕食にいただいて帰ったものでした。
社交辞令としての会話ではありましたが、別れるときには
「また3年後もご一緒できるといいですね」
と言い合ったことを思い出します。
わたしたちは勿論、この夫婦が、次の観艦式の時には自分たちはこの世にいないなどと、
そのときほんの少しでも予感することは果たしてあったでしょうか。
祭りの後。
そんな切なさを感じずにはいられない、華やかだった観艦式の終わる瞬間、
わたしがこの男女の会話から、人の命の儚さと運命について、
誰もが例外なくそれを従容として受け入れるものであるという摂理を思い起こし、
改めてやるせなさと共にそれを噛み締めていると、夕映えの木更津港を、
帰投してきた「こんごう」が、曳船を従えてこちらに向かってくるのが見えました。
「ちょうかい」の艦橋からはそれは全くの逆光となり、
この写真で見るより、はるかに艦影はそのままシルエットのようでした。
二隻の曳船は、見ていると寄り添うように「こんごう」に近づき、
その艦体を押し始めました。
「こんごう」の艦橋では今、先ほどまで「ちょうかい」で行われていたように、
息もつかぬ操舵の専門用語が同じように繰り返されているのでしょう。
そのとき、わたしはデッキ前方に「ちょうかい」艦長中村1佐の姿を認めました。
先ほどまで艦橋を満たしていた整然と秩序ある喧騒の空気も嘘のように去り、
艦が完全に停泊した今、何かを確認するためかデッキに出てこられたのです。
コメント欄でも今回艦長の任務とは何かをずいぶん教えていただいたのですが、
操艦が巧いかどうかということは艦長にとってごく当たり前の能力であって、
艦長は船の機能すべてを把握し、その機能を指揮する文字通りの「指揮官」なのです。
ところでいきなり余談です。
かつて、野党民主党の某議員が政府与党に対して憲法クイズをしたり、
貴重な国会の場で漢字の読み方テストをして、それに答えられないと
鬼の首を取ったように為政者の資格なしと言い募るということがございました。
これなど、艦長にもやい結びの速度を海曹と競わせて、負けたから艦長の資格なし、
と言っているようなもんなんですね。
野党なら政策で論議し、代案を出して大いに論戦していただきたい。
それが国民の期待するあなたたちの役目でしょ?
最近、政権与党の品格や教養を一言で断罪しつつ故に与党の資格なし、みたいな
ご意見をコメント欄に頂戴しましたが、
教養品格に優れた政治家必ずしも善政を敷くに能わず、
況や鳩山由紀夫においてをや
とでも言わせていただきましょうか(笑)
まあ、政治家ならずとも教養品格に溢れているに越したことはないんですけどね。
話が大いに脱線しましたが、この艦長という職は全体の長であり、
絶対的権限を持たされている護衛艦の権威者です。
なかでもイージス艦のような巨大戦闘艦の艦長というのは、この観艦式の行われる前のような、
非常時における参入を考えただけでも、大変な重責であり、それだけに
判断力と統率力も、人並み以上に優れた自衛官が任されるに違いありません。
というようなことをなまじ思い込んでいると、実物がそばに来ただけで、
イージス艦の艦長、キタワァ━.+:。(n'∀')η゚.+:。━ッ!!
というモードになってしまったとしても、これは誰に責められましょうか。
日頃はあまりこういうことを良しとしないわたしが、
「艦長、一枚写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか」
そのように言葉をかけ、夕日に赤く染まる中村艦長をカメラに収めると、
それがまるで皮切りのように、周りの人たちが次々と艦長と写真を撮りだしました。
さて、そこから下艦までがまた長かった(涙)
艦橋への階段というのは一方通行になっているのですが、艦橋にいた集団を下ろすため
どちらも下降用にしても、狭い階段の踊り場に溜まった人は一向に減りゃしねえ。
そんなことをしているうちに「こんごう」が停止して舫かけが始まると、
人々はその間一斉に足止めされてしまいました。
やっとのことで甲板レベルまで降り、最後まで丁寧で全く疲れを見せぬ様子の
自衛官たちの敬礼と挨拶に送られ、埠頭を踏んだのは、乗船してから10時間後。
午後5時半ごろのことでした。
ともあれ、木更津港は岸壁がそのまま駐車場なのでここまで帰って来ればあとは楽勝、
と思いつつ車に乗り込んだのですが、とんでもなかったのです。
全てが観艦式の車でもなかったでしょうが、一斉に大量の車が集中したため、
アクアラインの入り口は、大渋滞となり、自宅に着いたら午後8時半。
車から降りる頃には、眠さと疲れで疲労困憊しておりました。
埠頭に降り立ち、車に向かう時に気づいた遥か向こうの富士山のシルエット。
ちなみに、2015年10月18日の日の入り時刻は、国立天文台のHPによると1703です。
かくして平成27年自衛隊観艦式も終了しました。
操艦、訓練と、接遇などを通して今の自衛隊の力とその実態を目の当たりにし、
ここでそのご報告ができたことを、幸せに思います。
この場をお借りして、今回の観艦式参加にあたってご配慮いただいた方々、
コメント欄で応援、ご教示をいただいた方々に心から御礼を申し上げる次第です。
ありがとうございました。