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P-3C体験搭乗〜自衛官の父

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航空教育隊基地でP-3Cの体験搭乗をしたときのことをお話ししします。

後から招待してくださった方に聞いたところ、やはり体験搭乗のための飛行では
高度をせいぜい1500フィート(457m)しか取っていなかったそうです。
スカイツリーの高さは635mということなので、この高さでは
あまり東京に近づかない当日の短縮コースは妥当だったと言えます。

しかし、なぜ曇っているとコースが短くなるのかについてはよくわかりません。
視界が悪くなるというほど暗いわけでもないし、むしろ逆光とかもなく、
コンディションは決して悪いとも思えなかったのですが・・。



さて、しばらくコクピットからの飛行を見学していると、クルーがやってきて
後ろにいた人と場所を交代するようにといわれ、移動しました。

ハッチから入って右側にはクルーが食事もできる4人掛けのテーブルがあり、
その窓際に座ると、最初からそこにいたらしい初老の男性が正面に、
前から移動してきた一人がその横に、先ほど名刺交換した方が横に座ることになりました。

そこに座ると窓際とは言っても小さな丸窓からかろうじて外が見えるだけなので、
4人はなんとなく雑談を始めました。
お一人はご子息が海自隊員で、「あ」のつく護衛艦に乗組になったばかりだそうです。

「観艦式には来られないんですか」

「息子の船は来ないんですよ」

今年の観艦式はとにかくいつもと違ってチケットが全く(その時点では)出ない、
一般公開の人数も抑えられているし、いつもなら自衛官が配ることのできる
チケットも、まだ(その時点では)全く手元に来ていない状態らしい、
とその方に内部事情?を教えていただいたりしていました。

わたしもその後、イージス艦は日本海に展開するかもしれないので、
基本的に一般搭乗(応募による)は乗せず、招待客にも

「なんかあったらそのときはすみません」

という全く嬉しくない予告とともに招待券が配られている、という話を聞いたのですが、
結局無事に観艦式も行われることになり、杞憂で済んだのは幸いです。




ところでいきなり余談ですが、舞鶴で東郷邸を案内くださった海将補とお話ししたときのことです。

海将補ご自身が潜水艦出身であるということから、呉地方総監部訪問でお会いした、
潜水艦出身の海将(当時)の話題になりました。

その後この海将は退官なさっているのですが、先日、安保法案の公聴会が横浜で行われた時、
自衛隊の立場から出席して賛成意見を発言したらしいということをこの時伺いました。

横浜の公聴会というと、バカ左翼どもが道端に寝そべって通行妨害したあのときですね。
物理的にそれを阻止すれば廃案になると思うあたりが、とても日本人離れした思考だなあ、
とわたしなどつい思ってしまったものですが、それはさておき、あのときマスコミは、
とくにニュースショー系の番組は、公聴会には反対意見ばかりが出されたような報道をしてませんでした?

憲法学者の相変わらずの違憲見解だけを大きく取り上げこそすれ、このとき
自衛隊の立場からの賛成違憲がいかなるものであったのか、そもそも、
元自衛隊員が公聴会の壇上に立ったということすら、わたしたちはほとんど
知らされることはなかったという記憶があります。

これもマスコミの報じない自由の行使ってやつですか。

「それでもとにかく一歩進みましたね」

わたしがこのようにいうと、海将は、はっきりとはないにせよ、
自衛隊の中にも色々と考えがあって、というようなことをおっしゃいました。

ふーむ、なるほど・・・・。

しかし、わたしがもっとも注目した海将補の発言は、少し前にも書きましたが
このようなものです。

「自衛隊が実際にどのような活動をし、どんな現場に当たっているかを
もし克明に知ることがあれば、おそらく誰もそれ以上反対できなくなると思います」

 それ以上反対できなくなる

 それ以上反対できなくなる 

 それ以上反対できなくなる

 ・・・・ 


これは先ほどの「自衛隊の中にも色々いて」という発言とある意味矛盾するわけですが、
こちらについては、自衛隊も人間の集団ですから、
自衛隊の公式見解と違う意見を持つ人が一定数いても、仕方のないことなのかもしれません。

前海将は公聴会の場で、おそらく自衛官が現場から見た防衛の最前線について、
法案必要の立場から現状を述べられたのではなかったでしょうか。

先日はアメリカが中国を牽制するために南シナ海にイージス艦を航行させました。
中国はこれに激怒し、「あらゆる措置を取る」と言明したそうです。

この記事を送ってきてくれた方は、

「 冷戦期間中、海上自衛隊は宗谷、津軽、対馬三海峡に常時、船を張り付けて来ました。
中国と長い我慢比べの始まりです。
あたごは出さない方がいいかもしれません。

重巡愛宕 捷一号(レイテ)作戦中、1944年10月23日パラワン島沖で戦没」


と書いてこられました(笑・・・・って笑ってる場合じゃありませんが) 

 




さて、P-3Cの機内での話に戻ります。
わたしたちが時折小さな丸窓から外を確認しながら話をしていたところ、
わたしの正面に座っていた男性が、

「息子は海自の航空学生をしておりました」

とさりげない調子で話し出しました。
それと同時にわたしは、男性が膝に置いていた額のようなものに気づきました。
その視線に合わせるように、男性はゆっくりと、こちらに向けてそれを置きました。
ブルーの背景に、海上自衛隊の制服を着た若々しい自衛官の写真です。

「墜落事故で殉職しまして」

わたしとそこにいたもう一人の男性は、その方の言葉に息を飲みました。
当ブログでも直後にお話ししたあの航空事故で、ご子息を失った父上が、
この基地開設記念式典に招待され、遺影を抱いて乗っておられたのです。


驚きですぐには声も出ないわたしと男性に向かって、
父上は静かな様子で遺影を差し出しました。
隣に座っていた80歳くらいの男性がまず遺影に向かって手を合わせ、
わたしもまた、しばし黙祷させていただきました。

そして、お会いしたことはないけれど、せめてその面影を胸に刻もうと眺めるうち、
海曹の制服をまとい、白い正帽を被った凛々しい青年の顔がたちまちぼやけました。
向かいの男性もティッシュを何枚も出して目元を拭っています。


父上の話によると、青年は普通大学に入学し、その後どうしても飛行機に乗りたい、
パイロットになりたいという夢を叶えるために、自衛隊に入隊したそうです。
そして、航空学生として訓練中、2名の教官とともに事故に遭い帰らぬ人となりました。


後日、海将に体験搭乗のお礼と感想を申し上げた際知ったのですが、
ご両親を招待したのは他ならぬ海将であったそうで、つまりあのP-3Cには
わたしを含め、海将の招待客ばかりが集まって乗っていたようでした。

そのときに聞いたところによると、この事故については、計器を使わない
有視界飛行の訓練中、折しも天候が崩れ、霧の山中を飛ぶうち山麓に接触したらしい、
と、夏に事故調査委員会の報告書が上がってきたばかりなのだそうです。

「らしい」というのは、事故機となった練習用ヘリコプターOH-6EDに
フライトレコーダーはなく、通信が途絶えてからの状況は全て調査による推測だからです。

素人考えで、計器飛行のできない機体で有視界飛行の訓練をするのは危険ではないのか、
と質問してみると、昔「いせ」の出港準備を見学したときに書いたように、
マニュアルだけで最低限の操作をする基本的な訓練を疎かにしていると、
やはりいざという時のためにならないという考え方が現場にはあり、そのためあえて
旧式機も使い続けていたという答えが返ってきました。

ちなみに、この墜落で現行のOH-6EDが1機になってしまったので、
自動的にこれも退役になったということです。

教育航空集団54年の歴史において、初めて死者を出した今回の事故は、
計器飛行のできない旧型機、天候の急変、訓練飛行と、あってはならない偶然が
不幸にも何重にも重なったための結果だったのです。

「運命だったんですね」

わたしの右側に座っていた男性がこう言いました。
それに対して父親は、ただ

「運命です」

と繰り返しました。
そうでも思わないと、この偶然が自分の息子にもたらした不条理な死を
到底受け入れることができなかったのかもしれません。 

 

学生だった2曹の実家は、この基地の比較的近隣であったため、
事故現場へは基地から鹿屋に家族を運びました。
Wikipediaによると、最後の通信が途絶えてから機体が発見されたのはほぼ1日後。
ご両親がどんな思いでこの基地を飛び立ったのか、その心痛は察するに余りあります。

「最近やっと落ち着いてきたところです」

そうおっしゃる父親の様子はむしろ淡々として、その様子は
身を削るような慟哭の日々を乗り越えてようやく到達した、
あまりにも悲しい諦めの境地をかえって彷彿とさせ、胸が痛みました。
しかも、

「すみません。こんなときにこんな話をして」

楽しい体験搭乗に水をさしてしまった、とおっしゃりたかったのか、
しきりにこういって謝るのです。
わたしも、二人の男性も、とんでもない、と首を横に振りました。
そのときクルーが前からやってきて、正面に座っていた方は、

「この方、事故で息子さんを亡くされたんですよ」

と感極まったように告げました。
クルーはそのことを前もって承知していたようで、ただハイと頷きました。
特に感情を込めない淡々とした様子でしたが、

「まだコクピットを見ていない方がおられましたらどうぞ」

と男性に前に行くことを促すために来たようでした。
遺影を両手で抱くように持った男性は、わたしたちに一礼してコクピットに向かいました。

コクピットからの景色を、搭乗員を夢見ていた息子の遺影に見せてやりたい、
という一心で、おそらく息子を亡くした親にとっては、
何よりも辛い気持ちを呼び起こすであろう航空基地にわざわざやってきたはずなのに、
最後まで皆に先を譲っていた姿に、高潔な人格が表れているような気がしました。


しばらくしてテーブル席が一つ空いたまま機体は最終着陸態勢に入り、
隊員が安全ベルトを締めるようにと言いに来ました。
P-3Cの安全ベルトは旅客機のそれとは違い、少々複雑な形状をしているため、
わたしはいつまでたってもうまくはめることができず、手伝ってもらいました。

着陸の衝撃は旅客機よりも軽く、Gもそんなに感じないまま、タキシングに入り、
前にいた男性など、

「あれ?いつの間に着陸したの?全然気がつかなかった」

と言ったくらいです。
まあ、気づかなかったのはずっと話をしていたせいもあると思いますが。

乗ったときの逆で、タラップを降りると一列になってまたマイクロバスに乗り込み、
格納庫前のエプロンまでそれで移動しました。
バスから降りて戻るとき、わたしはもう一度、後ろを歩いている男性に挨拶しました。
そこでもまた、

「あんなことをしゃべってしまって申し訳ありません」

と謝る男性に、わたしは心からのお悔やみと共に、ご一緒できて光栄だったと告げ、
息子さんのことは決して忘れません、と付け加えました。



偶然この事故について当ブログで取り上げたときにも書いたことですが、
今回もマスコミは「自衛隊の不祥事」、「近隣の不安」といった視点に立ち、
自衛隊の事故であるがゆえに、どんな人間が関わり、どんな未来が失われたか、
さらには、隊員の遺族がどう思うかなど一切斟酌しない調子でこれを報じました。

だから、というわけではありませんが、縁あってお話しさせていただいた
父親と、その息子であった若い自衛官のことを、せめて少しでも多くの方に
知っていただくのも、またわたしに与えられた使命であろうと考え、
追悼の意を込めて、このことをこのブログでお話しすることにしたのです。



見ず知らずの同乗者に写真を見せ、辛いお気持ちを語ってくれたことは、
たった23歳で夢半ばのままこの世を去った息子のことを、誰かに覚えていてほしい、
知ってほしいという父親の願いの表れであったと信じるがゆえに。






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