元「イントレピッド」乗組員、レイモンド・T・ストーンは、第二次世界大戦中、空母「イントレピッド」で
電信員としていくども見ることになった「カミカゼ・エクスペリエンス」を書き残しました。
「MY SHIP!」
というのがそのタイトルです。
前回「カミカゼ体験ショー」のときにお話しした、1944年10月29日の
砲座にいた10人中9人が即死した特攻と、11月25日の、69人もの乗組員が戦死した
零戦2機の特攻(5分と時間を違えず突入は行われた)以外にも、
「イントレピッド」は計5機の突入を受け、そのため二度帰国、修理を余儀なくされました。
同著は、その体験を、戦友を失った経験も加え回顧しているものです。
ところで話は変わりますが、大変不思議なことがあります。
日本語で「イントレピッド」を検索すると、特攻による被害をこのように書いてあります。
1944年10月にレイテ沖海戦に参加、10月30日に日本海軍の特攻機が銃座に激突し、
10名が死亡、6名が負傷した。
乗員による熟練したダメージコントロールでまもなく発艦作業を再開する。
同年11月25日、2機の特攻機が激突、士官6名と兵員5名が死亡する。
艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。
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なぜ日米の彼我でこんなに数字が変わってきてしまっているのでしょうか・
日本版ウィキによると、特攻作戦における「イントレピッド」の犠牲者は、
2回の特攻を受けただけで戦争中を通じて全部でたった21名ということになってしまうのです。
それでは一体これはなんなのでしょうか。
壁に描かれた272名の名前は、すべて日本の特攻機突入による死者重軽傷者です。
今点灯している名前は69人分、つまり11月25日の特攻によって
亡くなった人だけでこれだけがいるということなのです。
日本版ウィキが、特攻突入における死者の数をこれだけ少なく表し、
さらにどちらの被害も軽微なものだったと強調する理由はなんなのでしょうか。
そもそもWikipediaというのは、誰でも編集に携わることが可能なので、例えば人物についても、
偏向した記述をして貶めるような情報操作するというようなことが多々行われているそうです。
そういう形態を知って、このあからさまな特攻の被害の矮小化を見ると、
「特攻隊の戦果は小さかった」=「特攻は所詮戦況にも寄与しない無駄な作戦だった」
=「特攻は犬死にだった」
としたい「誰か」の意思でもあったのかとさえ勘ぐってしまいます。
戦後、というかいまだに日本では「特攻の与えた被害は大したことない」という論調で、
それを美化するな、と声高に叫ぶ人がたくさんいます。
確かに「外道の作戦」であり、与えた損害と失われた人命の、あえていうなら
「費用対効果」でいえば、「割に合わない」戦法であったと後世から見れば思えます。
しかも、特攻を命ずる方も、1機が効果的にダメージを与えられる小型船舶ではなく
「死者の花道」として丈夫な戦艦や大型空母を狙って死にたいという搭乗員の「冥利」を無視できず、
非情な命令を下しながら、最後まで非情になりきれないという日本的情緒が、
ある意味作戦としての「無駄」を生んだという意味では、彼らにも一理あります。
しかし、この作戦が彼らに与えた心理的効果は実際の被害以上のものでした。
沖縄では精神変調をきたす兵が続出して、ニミッツが「これ以上は無理だ」
と上層部に弱音を吐いたのは有名ですし、帰国後の心的外傷も問題となりました。
何より、アメリカ海軍の「カミカゼ・トラウマ」は、その後の艦隊戦における思想に反映し、
イージスシステムもこの流れを汲んでいるとさえ言われているのです。
特攻に効果がなかったという論調は、戦後のGHQの日本に対する思想統制に遡ります。
アメリカ側が戦後の統制下にある日本にそのように思わせたがった理由はよくわかりますが、
未だに日本人が現実にこのように残る特攻の甚大な「戦果」をなかったことにするのは、
特攻隊員とその命を愚弄することに等しい行為だといえましょう。
正確な史実=特攻の効果を見て見ない振りまでして、彼らを侮辱することと、
戦争と特攻を「あってはならないこと」とすることの間にはなんのつながりも
主張を裏付ける効果もないし、それはいまだに頑迷なる戦後レジームの闇から
精神が一歩も抜け出せていないことを意味するとわたしは断言するものです。
さて、さらに、10月29日の死亡人数は、「マイシップ!」のストーン氏によると10名とありますが、
当「イントレピッド」博物館の名簿によると12名です。
名簿にはちゃんと全員の名前と階級が記されているので、ストーン氏の記憶違いの可能性が高いでしょう。
というわけで、もしどなたかWikipedia編集経験者がおられたら、
10月29日 12名死亡
11月25日 69名死亡
と日本語版wikiを書き換えていただけませんでしょうか。
ちなみにWikipediaの英語版には、特攻による犠牲者の数どころか、
特攻突入による損害を受けたことについても全く書かれていません。
さてそこでもう一度「マイシップ!」に戻ってみましょう。
「イントレピッド」に突入した日本軍の特攻機は全部で5機。
これは、戦争中を通じて米海軍の艦船の中では最多となります。
そのうち3機が、10月29日1機と11月25日の2機。
この「イントレピッド」博物館上でも明らかになっている日付です。
それでは4回目はというと、これもwikiには記されていないのですが、
1945年3月18日のことになります。
右舷船首から突入してきた特攻機を、ガンナーが撃ち落としたのですが、
その時に爆発した機体の破片や火のついたガソリンがハンガーデッキに降り注ぎ、
それがいくばくかのダメージをもたらしました。
3月18日に特攻を出しているのは海軍菊水部隊の彗星隊で、
この1日だけで39名の特攻隊員が戦死した記録があります。
この記録から考えずにいられないのは、前年度、組織的な特攻隊が行われ始めた頃には
アメリカ側の犠牲は甚大なものであったのに、この頃になると、
「イントレピッド」の射手に撃ち落とされたこの特攻機だけがかろうじて
軽微な損害を与えただけであったという風に、与えた効果があまりにも僅少だったことです。
そして、39名の大量死。
特別攻撃隊隊長は岩上一郎中尉(室蘭高工)と野間茂中尉(福知高商)という、
どう見ても経験の浅そうな学徒士官です。
しかもその他の学徒士官の出身校を見てみると
宇部高工 長岡高工 第二早高 早稲田専 明治専 青森青教 台中高農
など、専門系が多いのに気づきます。
そして戦死者名簿で思わず目を見張ってしまったのが、
丙(特)飛
という文字です。
丙特飛とは正式には丙種(特)飛行予科練習生といい、昭和19年設立されました。
これは志願で海軍に入隊してきた朝鮮・台湾出身者のうち、
航空科希望者を予科練に組み込んだものというカテゴリなのです。
実際には台湾出身の特攻隊員はいませんでしたから、これは間違いなく、
全部で20名いたという朝鮮半島出身者の特攻隊員であろうと思われます。
その名も、
勝俣市太郎2飛曹と、益岡政一2飛曹。
どちらの名前も通名のまま戦死者名簿に記されています。
そして、乙特飛という、戦況の悪化に伴い、乙飛を志願した練習生の中から
更に選抜して特攻のためだけに短期養成を行った搭乗員が6名も参加しています。
カミカゼの恐怖に立ち向かう、したたかな顔を持つアメリカが、対特攻のための戦略を練り、
守りを堅固にしていくのと反比例して、当初の精鋭部隊もすでに消耗し、日本の特攻隊は
技量も経験も全くない学生隊長が率いる即席養成の搭乗員を投入していたのです。
「マイシップ!」によると、最後に「イントレピッド」に被害を与えた特攻は
1945年4月16日に行われました。
「零戦と”コンベンショナル”(月並みな・ありきたりの)な航空機で行われた大量特攻」
とアメリカ側が記すところの特攻隊は、菊水三号作戦と呼ばれる、神雷桜花隊、銀河隊、
菊水部隊など、海軍176機、振武隊から成る陸軍52機による攻撃です。
このうち特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。(陸軍は帰還一機のみ)
この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足していたため、
ほとんどが旧式の九七戦で行われました。
この日の大量突入に対し、「イントレピッド」は43機を掃射撃墜しています。
しかしながら一機の特攻機が、対空砲をくぐり抜け、フライトデッキに激突。
この機体はハンガーデッキにまで突き抜け、その時の爆発で10名が死亡しました。
さて、それではもう一度日本語版のWikiがここをどう説明しているのか見てみます。
その間、3月18日と4月16日の二度にわたって神風特別攻撃隊の特攻機の
体当たり攻撃により損傷したが、沈むことなく無事に終戦を迎えている。
まあ、沈まなかったから今博物館になってるんですけどね。
まず、この2回の攻撃が神風特別攻撃隊ではなかったことを突っ込み隊。
じゃなくて突っ込みたい。
特攻とくればなんでもかんでも「カミカゼ」と呼ぶなんて、あんたどこのアメリカ人?
少なくとも日本人なのならば、せめて
特別攻撃隊(菊水三号作戦による)
とか、
神雷桜花隊や振武隊からなる特別攻撃隊
くらいは調べればわかることなんですから、大雑把にならずにきっちり書いていただき隊。
それに、実際の「イントレピッド」の被害が甚大であったことには毛ほども触れず、
「無事に終戦を迎えている」って、それなんか違うんじゃない?
さて、冒頭写真は、
九九式一号2型改
と刻印があるので、 99式20ミリ機銃の部品であろうかと思われます。
99式20ミリは海軍が使用していた航空機銃であり、これは
零戦の部品であることはほぼ間違いありません。
菊水三号作戦の時には特攻に使う零戦は無くなっており、
桜花・陸攻・銀河・97式艦攻・彗星
という陣容でしたから、10月29日か11月25日、いずれかに突入した特攻機の部品でしょう。
上の左は8ミリ機銃でしょうか。
煙を噴き上げる「イントレピッド」の写真をバックに、この時に戦死した乗組員の
残したノートにパープルハート勲章などが添えられています。
スクラップ帳だったようですが、何が書いてあるかよくわかりません。
フットボールファンだったのでしょう。
これも特攻隊突入で死亡した乗組員の遺品。
「カミカゼショー」が終わってからわたしとTOは顔を見合わせました。
「どうでした」
「うん・・・」
「なんか、アメリカ人って特攻機に人間が乗っていたって全然思っていないみたい。
なんていうんだろう。まるで天災に遭ったような・・?」
何月何日カミカゼがきました。何人死にました。
この時死んだ誰々は大変勇敢でした。
「イントレピッド」にとって最悪の日でしたが、乗組員はそれに打ち勝ちました。
めでたしめでたし。アメリカ万歳。
これは日本側にも言えることですが、戦っている相手を「人として」見ようとしない、
確かに特攻機には誰か、名前のある日本人が乗っていて、その人間が操縦してくるわけだけど、
それについてはあまり考えないようにしている、というのが近いでしょうか。
どちらもむしろ「個人の顔は見たくない」というのが、わたしたちには
到底知る境地に至ることのない、自我を崩壊させないために機能する、
戦場にあるものの「本能」みたいなものなのでしょうか。
一人の人間ではなく「カミカゼ」という得体の知れない不気味な敵、
こちらの命を巻き添えに自殺攻撃をしてくる理解しがたい「何か」に対して、
「イントレピッド」の隊員たちはそれが「誰か」であることを決して考えまいとしながら、
必死で、無心に、戦い続けていたのかもしれません。