今からちょうど75年前の今日、1941年1月5日。
イギリス空軍ATA所属の操縦士が、一人、
悪天候のため、任務中墜落し殉職しました。
女性パイロット、ファースト・オフィサーである
エイミー・ジョンソンです。
それに遡ること12年前、ロンドンに住む一人の秘書が、
イギリス人女性で初めての飛行機免許を手に入れました。
驚くべきことに彼女は免許取得後わずか2~3週間で、
イギリスからオーストラリアまでの長距離単独飛行を成功させてしまうのです。
最小限の道具と、予備のプロペラを「ジェイソン」と名付けた愛機、
デ・ハビランドDH60G・ジプシー・モスに積んで、
スリムでボーイッシュな彼女は19日半後、着陸したダーウィンで
熱狂的な観衆に迎えられました。
この偉業達成に対し、国王ジョージ五世は
「コマンダー」の位の大英帝国勲章を授けています。
大英帝国勲章はこのジョージ五世が創設した、
一般人(軍人と政治家以外)に与えられるもので、
スポーツ選手や芸能者など、広範囲に与えられる「庶民的な」勲章です。
ビートルズを始め、エルトン・ジョン、ビル・ゲイツ、
日本人では蜷川幸雄や尾高忠明(指揮者)などがいます。
彼女はまたその年の優れた飛行家に与えられる賞、
ハーモン・トロフィを受賞、さらにはオーストラリアからは
名誉市民ライセンスを送られています。
ところでこの「女流飛行家列伝」を連載して書くようになってから、
「世界最初の」というタイトルを、ほとんどの飛行家が持っているのに気づいたのですが、
この「飛行機黎明期」、飛行機操縦のパイオニアを自負する飛行家たちは、
誰も挑戦したことがない、世界の各都市間の飛行の「一番乗り」を競って、
そのキャリアに「箔」をつけ、歴史に名を残そうとしていたらしいのです。
とはいえ、最初に大西洋横断をしたチャールズ・リンドバーグの名声には遠く及ばず、
ほとんどの飛行家にとってそれは「後追い」の「一番乗り」だったわけですが。
しかし男性飛行家が一度成功している航路も、「女性初」となるとそれも一つのタイトルなので、
「今までほかの女性が飛んだところのない都市間はどこ?」
と、全ての女性飛行家は日夜虎視眈々とそのチャンスを覗っていたのです。
彼女がこの「イギリス→オーストラリア」に続いて挑戦したのは
「ロンドン→モスクワ」を一日で到達することでした。
そしてさらに次の目標はどこであったかというと、
「モスクワ→東京」 。
そう、エイミー・ジョンソンは当時飛行機で日本に来ていたのです!
しかしながら、当時の日本で彼女の飛行到着はどのように迎えられたのか、
またどのような報道がなされたのか、
そういったことは日本語では見つかりませんでした。
英語ではかろうじて当時の新聞記事が見つかったので、
ベルリン発のその記事のその内容を貼っておきますと、
AMY JOHNSON ONWAY TO TOKYO BERLIN, July 27.
Leaves Berlin for Moscow
Miss Amy Johnson, who is on her way to Tokyo,
arrived here at 6 a.m.She left Lympne in a Puss Moth a phreys.
She refuelled and left at 15run. for Moscow.
This is her second attempt to fly to the East.
She began a flight to Pekin early in the year,
but damaged her plane in landing near Warsaw.
She went on to Moscow by train and returned to London later.
これによると、彼女は、その少し前に北京行きの挑戦をしたものの、
機のダメージのため、ワルシャワに不時着してこのときは不成功裏に終わったこと、
アジアへの飛行挑戦は日本が二回目だということが報じられています。
さて、大成功だったオーストラリアへの飛行ですが、これはなんというか、
ビギナーズラックという面もあったらしく、
到着地からセレモニーのためブリスベーンに移動する行程で、
彼女は何と着陸寸前にクラッシュさせてしまいます。
幸い彼女は無事で、成し遂げたばかりの栄光に味噌をつけることもなく、
しかもこの事故がきっかけで、一人の男性に巡り合います。
男性の名はジム・モリソン。
彼は彼女と同じ「世界一を常に狙う」パイロットで、後に彼女の夫になりました。
ただし、この「のち」というのは8時間後のことです。
つまりモリソンは彼女と出会った日のうちにプロポーズし、二人は結婚したのでした。
以前お話ししたルイーズ・セイデンの回の時に、
世の男女というものが「出会う」「気に入る」「結婚する」ということを
抉りこむように進めずして少子化など解決するわけがない!!
と熱く語ったエリス中尉ですが、さすがに8時間後のプロポーズというのは、
「ポーズだけでも、もう少し考慮するふりをした方がいいのでは」
とまっとうな心配をしてしまいます。
それが杞憂ではなかった証拠に?即断即決のこの結婚生活はすぐに破綻し、
エイミー・ジョンソン・モリソンは1939年には元の名に戻りました。
この結婚の破綻の理由というのは、二人が同業者同士であり、
ライバル同士だったことであるのは歴然としています。
たとえば妻が、夫の立てた新記録を新婚早々あっさり破ったりしたら、
野心ある飛行家の夫は面子の面から言っても決して面白くないでしょう。
エイミーが破った夫モリソンの記録とは、ロンドン→ケープタウンの単独飛行時間でした。
ただ、女性男性関係なく、この「都市間飛行時間」などというのは、
機体の性能はもとより、その時の偏西風や気候条件によって
大きく結果が左右されるので、必ずしも結果が実力によるものとは言えない、
という面もあったのではないかと思ったりもするのですが。
だからこそ、このころの女性飛行家というのは、
男性に互して引けを取らない記録を残すことができたのでしょう。
体重が軽いというだけでも当時の飛行機ではかなり有利でしょうし。
1940年第二次世界大戦が勃発すると、ジョンソンは
ロイヤル・エアフォースの副操縦士に昇進し、
戦中を通じて、その死の訪れる日まで飛び続けました。
そして運命の1941年1月5日。
凍てつくような冬の強風が吹きすさぶイギリスのテムズ川河口に、
イギリス空軍ATA(Air Transport Auxiliary・航空補助)所属、
エイミー・ジョンソン操縦のエアスピード・オックスフォードが墜落しました。
ジョンソンが事故機から落下傘で脱出したことは確認されましたが、
逆巻く波にどす黒い色の海、そしてひっきりなしに降る雪、
海上に落下した彼女の生存は絶望的と思われました。
そのときテムズ川河口付近で航行していたイギリス海軍の
HMSハスルメールから、ウォルター・フレッチャー中佐が、
誰もがためらうような荒れ狂う冷たい海に飛び込みました。
そして救おうとしたATAの女性飛行士とともに、波にのまれて溺死したのです。
フレッチャー中佐は死後その勇気と功績を称えられてアルバート勲章を贈られました。
この事故にはわかっていないことも多く、
このときに死んだフレッチャーとジョンソン以外に
ジョンソンが輸送していた第三の人間がいたはずであるのに、
事件後どこからもその名前が出てこず、
政府もその死んだはずの人間の名を秘匿していることから、ジョンソンは
政府の極秘任務を負っていたのではないか、という見方もあるのだそうです。
さらに1999年、つまり近年になって、
こんな衝撃的な話が関係者から出てきました。
「ジョンソンは、機体認識に使う識別コードを間違えたため、
イギリス軍に撃墜された」
という説です。
つまりイギリス軍では日によって識別コードを変更していて、
彼女がそれを勘違いしていたため撃墜された可能性があるというのです。
このことを語った、彼女を撃墜したイギリス軍にいた人物の話です。
”彼女はリクエストに対し、二回間違った返事をした。
その瞬間、16口径の砲弾が火を噴き、彼女の機はテムズ川河口にダイブした。
われわれはそれが敵機であったと信じて疑わなかったが、
次の日の新聞を見て自分たちが撃ち落としたのが誰だったか知った。
士官たちがそこにやってきて、
『このことは誰にも言わないように』と口止めした”
有名な飛行家でもあったエイミーは、その死を世界中から惜しまれました。
とくにイギリスでは、その生涯が何度も映画化され、伝記が出され、
彼女のことを歌った歌が作られ、そして彼女の名を冠した建物や学校、
通りは、世界中のイギリス領だった国に今でも存在するのだそうです。
アメリア・イアハートのように、若い絶頂期で姿を消してしまったからこそ
人の記憶に残り、今なおその存在が語られるというのは世の常ですが、
わずか38歳で任務中殉職したこの女性飛行士にも、皆が深い賞賛と哀悼を捧げました。
しかし、その死の陰に隠された苦々しい真実を思うと、
彼女が果たそうとしていた国への忠誠が、彼女自身の実につまらないミスで
踏みにじられたという後味の悪さを感じずにはいられません。
彼女はおそらく機を攻撃された瞬間、自分が置かれた状況を確実に把握し、
同時に自分が取り返しのつかない失敗をしたことを知ったでしょう。
そして、最後の瞬間、祖国から裏切られたような絶望を抱きながら、
くろぐろとした深い波の逆巻く海に沈んでいったのではなかったでしょうか。
エイミー・ジョンソンの遺体は、何か月もかけて捜索されましたが、
今日に至るまで、彼女が飛行機に積んでいたカバン以外の痕跡は
何も見つかっていません。