お台場の「船の科学館」横岸壁に繋留してある「宗谷」、
この連休に見学したとき、こんな展示がありました。
「猫だ」
「まさか猫がいたとか?」
「まさか~。女の子のウケを狙ってぬいぐるみ飾ってるだけだよ」
そんな会話をTOと交わし、それっきりそのことは忘れていたのですが、
このエントリ、ことに犬ぞり隊として連れて行った樺太犬のことを調べる過程で、
「越冬隊には猫と鳥もいた」
という文章に目が止まったのです。
ということは、あのぬいぐるみは、本当にあの部屋にいた隊員が世話していた猫を
再現したものだったのか・・・・。
さらに調べてみると、出てきたのは「三毛猫たけし」というキーワード。
やっぱり詰めが甘い、ぬいぐるみはどう見てもトラ猫だし、と思って画像検索したら、
どおおお~~~ん(効果音)
白黒写真ではほとんど白トラにしか見えないお猫様の姿が。
やっぱりあのぬいぐるみはわざわざ似たものをチョイスしていたのです。
ところで、三毛のオス猫が大変珍しいということをわたしは生物の時間に習ったものですが、
この三毛も「たけし」という名前が示す通り、珍しいオス三毛でした。
ネズミを捕ることから、船にはよく猫が飼われていましたが、軍艦にも乗っていた例が
時々見受けられます。
ナチスドイツ軍とイギリス海軍の船、縁あってどちらもに乗っていた
アンシンカブル・サム(浮沈のサム)
という猫などは特に有名です。
他にも・・・、
例その1、戦艦ミシシッピ。訓練された猫(笑)
ハンモックもそれにかけられたラッタルも迫真の出来です。
例その2。米陸軍航空隊。
このあと猫が毛糸にじゃれついて、抱いているパイロットの膝を
蹴って飛び出すところまでわたしには見える。
例その3。フランス海軍。
例その4。イギリス海軍。
ベッドを作ってやった水兵さんの愛おしそうな目をご覧ください。
例その5。ドイツとか?オーストリア?
面白い画像が多く、ついつい盛大に寄り道してしまってすみません
日本では昔から「船の守り神」として三毛のオスが珍重されてきました。
「宗谷」の南極行きが決まって、日本中が期待で沸き、当時の有名無名に関わらず
多くの企業が「宗谷」のために開発した製品を持ち寄ったりしている中、
動物愛護協会のご婦人が一匹の三毛オスの子猫を連れてやってきました。
「三毛猫のオスは縁起がいいそうです。
南極での生活での心の慰めにもなりましょうし、ぜひ連れて行ってやってください」
こうしてお守りも兼ねて猫を乗せていくことに決まった「宗谷」では、
さっそく名前を決めることになりました。
多数決で決まったのが「たけし」。
第一次越冬隊の永田武隊長の名前を取って付けられました。
永田隊長は東京大学の教授も務めたことのある地球科学者で、観測隊に参加し、
昭和基地の建設などの推進力となった人物ですが、観測隊のリーダーとして、
隊員の皆さんにはなんというかいろいろと思うところもあったようで(笑)、
この名前はもっぱら面白くないことがあったときに、
「こらたけし!」「おいたけし!」
と隊長の名を呼び捨てにして、憂さ晴らしをするために付けられていたようです。
そういえば、艦長時代の山口多聞中将は、大変厳しかったため、
乗組員に「人殺し多聞丸」というあだ名を奉られていました。
毎日毎日顎を出すほど訓練を繰り返させられた乗組員は、山口艦長そっくりの店主がいる
飲み屋で、おやじに向かって「おい多聞!」「こら多聞!」と八つ当たりしていたそうです。
たけしはすっかり「宗谷」のアイドルになりました。
同乗していた樺太犬たちとはご飯も一緒に食べ、仲良くしていたようです。
まだ子猫のころのたけし。
スーツを着ている人がいるところをみると出港前でしょうか。
隊員たちの無聊を慰め・・・というよりすっかりおもちゃと化しています。
こういうものに押し込まれると嫌がる猫も多いと思うのですが、どうやら
たけしくんはおっとりしたおとなしい子だったみたいですね。
南極到着後は、極寒の地でも好奇心旺盛。
ブリザードもなんども経験し、零下30度の気温でも外に出て日光浴と
運動を自主的に行っていたようです。
第一次観測隊にはカナリヤもいました。
炭鉱に入る炭坑夫が必ずカナリヤのカゴを持って入るように、
カナリヤには空気の清浄度を知らせるという実用目的があり、
樺太犬は犬ぞりの動力でしたが、猫というものは実用的な役にはちっともたちません。
しかし、たけしは猫にしかできない仕事がありました。
あるときは疲れ切った隊員の膝で、ある時は寒さに震える隊員の寝袋で、
そしてある時はお気に入りの隊員のフードにちゃっかりと潜り込んで・・。
たけしは人間と暖を分け合い、心を和ませてくれたのです。
たけしは隊員たちの動くおもちゃでもありました。
椅子の上に立ってテーブルに顎を乗せ、手を伸ばして目を瞑る、
このポーズは本人の、そして隊員たちのお気に入りとなりました。
たけしは一度昭和基地で死にかけました。
犬ぞり隊が出て行ってしまい、基地の中を探検していたたけし、
暖かい電気室に潜り込んでしまい、送信機の上に飛び乗って感電したのです。
ばん!と音がして電気が消えたので皆がすぐに気づきました。
たけしの肩の毛は燃えて、焦げ臭い匂いが漂いました。
隊員たちが皆もうダメかと思う中、こんこんと眠り続けたたけしは、
一命を取り留め(きっとあの医務室で手当てを受けたのでしょう)
だんだん元気を取り戻してきました。
たけしは通信室の佐久間敏夫隊員(南極物語では横峰新吉という役名だった)
に一番懐いていました。
佐久間氏自身が後年いうところによると、昔から動物に好かれるたちで、
昭和基地でたけしに会った途端、お互いが「親しみを覚えて」近づいたのだそうです。
たけしは寝るときにいつも佐久間隊員の寝袋に潜り込んで、お腹の上に乗ってきました。
昭和基地での佐久間隊員は常にたけしの重みを感じて寝ていたそうです。
その佐久間隊員が、ある日作業の気晴らしに外に出て歩いていたところ、
後ろからなんと、歩けるようになったたけしが付いてきていたのです。
冷たい氷の中、肉球を真っ赤に凍えさせて、大好きな佐久間さんの後を付いてきたのです。
「たけし・・・」
佐久間隊員はうれし涙を流しました。
こうして一年が経ち、たけしとカナリヤ、そして子犬は、
(樺太犬たちは残してこなければならなかったのはご承知の通り)
隊員たちとともに日本に帰ることになりました。
犬たちを引き継ぐことは決まっていたので、隊員たちは第二次越冬隊の隊員のために
犬に大きな名札をつけておいたといいます。
ところが、周知のように「宗谷」は悪天候で氷に閉じ込められ、接岸できませんでした。
昭和基地の隊員たちには、最小限の荷物を持ってセスナに乗るようにと命令が出されます。
このとき、たけしはなんらかの異常を感じて佐久間隊員のそばを離れませんでした。
厳格な重量制限のため、観測データと最小限の私物しか持ち込むことができなかったのですが、
佐久間隊員は、迷わずそばにいたたけしを抱き上げて、セスナに乗り込みました。
このあと、第二次隊員を送り込むチャンスを狙って、「宗谷」は待機し続けました。
しかしついに天候は回復せず、それは不可能ということがわかったとき、
隊員たちは、置き去りにした犬たちのために、泣きながら南極を去るしかなかったのです。
そして帰国。
たけしは佐久間隊員の胸に抱かれたまま、報道各社のカメラに収まりました。
そして、佐久間隊員が家に連れて帰り、家族の一員となる予定でした。
報道写真には、帰国後すぐに佐久間家で撮られた、たけしの姿があります。
奥さんとお母さん、そして佐久間隊員の息子に囲まれ、これから日本で幸せに過ごすのだと
誰もが思っていたのですが、帰国してわずか一週間後、たけしはふらりと家を出て行って、
そのまま行方不明になってしまったのでした。
たけしはいったいどこにいってしまったのでしょうか。
大好きな佐久間さんと暮らせることになったのに。
帰国以来、あちこちから引っ張りだこの佐久間さんが、
ほとんど帰って来られなかったので、家にいるのも不安になったのでしょうか。
佐久間さんは、たけしは「南極」を探しに行ったのだ、と今でも思っているそうです。
昭和基地に戻るために、家を出ていってしまったのだと。
だから、たけしの魂はきっと昭和基地にいるはずだと。
佐久間さんは、自分が死んだら自分の魂も昭和基地に行くから、
そこでたけしに会える、と信じて生きてきました。
そのときには、自分の後をつけて氷の上を歩いてきたたけしにそうしたように、
「ずっと探して待っていたんだよ」
と言って抱き上げてやるつもりなのだそうです。
「宗谷」シリーズ・終わり
参考:絵本 『こねこのタケシ 南極だいぼうけん』
阿見みどり 文 わたなべあきお 絵 銀の鈴社