お台場の「宗谷」見学記、続きです。
昨日の「宗谷」シリーズ、新年の挨拶も何もなしにいきなり始めてしまいましたが、
年頭のご挨拶を追加したつもりがなぜか反映されていませんでした。
あらためまして、皆様あけましておめでとうございます。
年末に中の方から送ってきていただいた「海自カレンダー」は、1月が「しらせ」でした。
それを見て、砕氷船はやはり一月のイメージ?と思ったため、
まだ完了していなかった「宗谷」シリーズを三が日で終わらせようと思ったのです。
南極観測隊が南極大陸に日章旗を掲げたことを号外にした朝日新聞。
1955年1月30日、日本人初の観測隊が上陸に成功しました。
もともと朝日新聞が世論を盛り上げて観測隊派遣は実現したのですから気合入ってます。
これは、上陸成功直前の1月、「宗谷」に向けて打電された文部大臣と、
海上保安庁長官からの激励電文。
「刻下の困難を克服し無事接岸せられんことを祈る」
まさに日本中が、「宗谷」の動向に注視し成功を祈願していたのです。
前回、この国家プロジェクトに向けて数多の有名企業がこれに協力を惜しまなかった、
ということを何点かの例をあげて説明しましたが、このほかにも例えば、
こういう物も生まれました。
缶ピースじゃないか、って?
そう、紙パッケージだったタバコを、南極でも湿気ないように、当時の専売公社は
わざわざ缶に入れて「宗谷」に提供し、それを同時に発売しました。
あるいは、ロッテ製菓の発売した「クールミントガム」。
今はどうだか知りませんが、昔はペンギンの絵の描かれたパッケージで売られていたこのガム、
ロッテが越冬する隊員のためにビタミン補給のできる仕様になっており、
さらにはそれまで無色だったガムに、遭難の時に役立てるために着色したと言われています。
(が、何もガムでなくてもいいような気もするのでこの話は眉唾ですが)
そして、公にはなりませんでしたが、隊員たちの「極限状況における精神衛生のお供」として、
通称「弁天さん」という特殊な人形型玩具も用意されていました。
(ただこれは、これも噂によると、あまりにも環境と状況が寒さで過酷なため、
実際に使用されたことは一度もなかったということです)
当時は最新式であったであろうタイプライター。
英文タイプライターはさすがに国産のメーカーではなく、これは
スミス・コロナというアメリカのメーカーで、1955年といいますからこの直前、
初めての電動小型タイプライターを発売したばかりでした。
瞬く間にアメリカの学生や社会人の必需品ともなったこのタイプが、
さっそく南極観測隊のためにも購入されたと見えます。
ちなみにスミス・コロナは、第一次世界大戦のときから
スプリングフィールド1903小銃( Springfield 1903 rifle)
を製作していました。
タイプライター会社が小銃・・・・わかるようなわからないような。
こういうところにさりげなく置かれているものはまず間違いなく
隊員たちが愛用していたものであると思います、
緑のパッケージは柳家のヘアートニック。
船窓のうち一つはこんな風に破損していました。
これだけヒビが入っても形態を保っているのは、よほどガラスが厚いのでしょうか。
公開されていないばかりでなく、誰も立ち入らない部分がかなりありそうです。
今では部屋の大きさがどういう理由では半分くらいになってしまっているようですが、
昔はもっと広く、第一次観測の時にはここが観測隊長の居室となりました。
数名で会議や打ち合わせなどもできたそうです。
船内至る所にあったらしい「航海科倉庫」。
この倉庫には予備の信号旗や航海用具の部品が収納されていました。
廊下には必ず手すりが張り巡らされています。
天井は低く、これがもし当初の予定通りロシアに渡っていたら、
さぞロシア人たちは苦労するだろうと思われます。
ロシア人といえば、わたしが船内を見学していると、外国人男性を含む
ブループが同じところにいたのですが、彼らが話しているのはロシア語。
案内している日本人男性もロシア語でその男性と会話しており、
「宗谷」の解説員に向かって、彼は
「この人はロシアで船に乗っていた人である」
というようなことを説明していました。
もしかしたら現役時代の「宗谷」とかかわりのあった船で、日本に来た目的の一つが
繋留展示されている「宗谷」を見ることだったのかもしれません。
館内に展示されていた写真。
説明がなくこの外人さんがなんなのかわかりませんでしたが、
どうも雰囲気的にロシア人のような気が・・・。
写真の印画紙を提供しているのがオリエンタルで、これも調べてみると、
現在サイバーグラフィックスという社名になっている1919年創業の
オリエンタル写真工業株式会社の、シーガルという商品名であることがわかりました。
オリエンタル工業は国産で初めて映画フィルムを供給した会社で、
さらには戦後、日本最初のネガカラーフィルム「オリカラー」および
「オリエンタルカラーペーパー」を発売しています。
引伸用印画紙「シーガル」を発売していて、このポスターはその宣伝だと思われます。
現在も、同社は「ニューシーガル」という名前で印画紙を生産しています。
科員用船室。
このように、船に対して横向きに位置するベッドを「横ベッド」というのですが、
南極観測の航行時、ローリング(横揺れ)があまりにも激しくて、
航海に慣れた科員たちも全く眠るどころではなかったということです。
しかし見る限りほとんどのベッドは横ベッド・・・・(T_T)
暑さも乗員を苦しめました。
観測隊がインド洋を通過するときには、特にこの部屋をはじめとする左舷側は
決して日が沈まないため、太陽の光を終日浴びて(もちろん夜も)
地獄のような暑さであったということです。
この「エアスクープ」とは、扇風機だけではとてもやりきれない暑さをしのぐため、
舷窓に取りつけて外気を呼び入れるためのものです。
ハンガーかけのフックからいっぱい生えてきた風のコンセント。
ちゃんと白と黒を塗り分けているあたりがこだわりです。
エンジンの煙道。
ボイラーの熱気がここを通るのですから、この辺りも釜のように暑かったはずです。
南極の氷の中に入ってからは暖がとれたのでしょうが・・・。
潤滑油タンク。
エンジン室の周囲は煙道が通り、吹き抜けになっています。
天井に明かりが見えていますが、これは外光でしょうか、それとも照明?
南極観測時に着用した防寒着。
この部屋は観測隊員が二人で一室を使用していました。
こういった防寒衣類も、繊維会社などが開発した特殊素材で
特別仕様のものがつくられ、全て支給されていました。
鐘淵紡績が開発した「カネカロン」がコートの素材として使われ、
ミトンや帽子など、全てが企業の協力によるものです。
雪原に立てるつもりの旗は、竹竿を使っていたんですね。
医務室がありました。
実際に使われていた医療器具が埃をかぶって当時のままに置かれています。
おっと、診察台では今まさに苦しんでいる人とそれを診察する医師が!
船室なのにレントゲンの設備まで搭載していたようです。
それはいいんですが、この医者が、体を折り曲げんばかりに苦しんでいる患者を
何もせずに平然と見下ろしているような・・・。
「もう手遅れですな。」
さて、 「宗谷」についてはあまりしらなくとも、おそらく「タロとジロ」を知らない人はいますまい。
「宗谷」初の南極観測で隊員とともに越冬した樺太犬は19頭いました。
(一匹は子供を作らせるために雌を連れて行ったそうです)
当時は雪上での移動に犬ぞりを使うしかなく、彼らは大陸旅行に活躍しました。
翌年になってやはりこの「宗谷」に乗った第二次越冬隊がやってきます。
第二次越冬隊を乗せた「宗谷」は悪天候に阻まれて、昭和基地に上陸できませんでした。
基地から110km離れたところに接岸した「宗谷」に、第一次越冬隊を収容し、
越冬を断念した第二次隊とともにやむなく帰国の途につきます。
というのも、「宗谷」はこのとき氷に阻まれて身動きできなくなり、
氷陸に乗り上げるなどして満身創痍の状態だったからです。
このとき15匹の樺太犬を残していった理由は、当初第一次越冬隊は、
自分たちの代わりに第二次越冬隊がすぐに昭和基地にヘリコプターで着任し、
犬たちを「回収」するものと思っていたからだそうです。
しかし実際には、15匹の犬を、それも鎖に15匹つないだまま置き去りにすることになり、
このことはたちまち世界中の知るところとなりました。
「犬殺し」「犬を殺すなら永田隊長と11人は日本に帰ってくるな」
こんな言葉が投げつけられ、隊員たちは苦悩しました。
第一次越冬隊の隊員で、犬係をしていた北村隊員は、第三次越冬隊に志願しました。
第三次観測隊がヘリコプターで2匹の犬を発見したとき、犬係の北村には
最初それがどの犬なのかわからなかったそうですが、順番に名前を呼んでいったところ、
「タロ」で一匹が尻尾を振り、「ジロ」で一匹が前足を上げるしぐさをしたため、
2匹が「タロとジロ」であることが判明したのでした。
「これ、酷くないか?」
この展示を見たとき、一緒にいたTOがわたしにいいました。
「置き去りにするのに15匹鎖につないだままだったって・・・」
「え、じゃあタロとジロってどうやって生き延びたの?もしかして」
「仲間を・・・・」
「ひえええ」
そもそもなぜつないだままだったかというと、彼らはソリにつながれている状態が
一番安心できるように飼育されていたからだということでした。
しかし説明が現場にも一切なかったので、わたしたちもまた、当時の世間と同じように
「南極観測隊ひでー」
と単純に思ってしまったのですが、実際はそんなに簡単なことではなく、
観測隊はギリギリまで第二次越冬隊を送り込もうとしていたのであり、樺太犬の残留は
もうどうしようもなくなった苦渋の果ての決断だったのです。
タロとジロはまだ若かったため、鎖から抜けて(抜けることのできた犬は何匹かいた)
アザラシの糞(ミネラルたっぷり)を食べていたという説、ペンギンなどを狩って食べた説、
ソ連の飛行機が食べ物を落としてやったという説とともに、やはり仲間の肉を喰った説もあります。
が、つながれてそのまま餓死した何匹かの犬が食い荒らされていなかったことから、
共食い説はあまり信憑性がないともされます。
いずれにせよ、1年後に第3次越冬隊と再会したとき、彼らは丸々と太っていました。
この話が世間に感動とともに広がり、映画化されるなど社会現象となるに伴って、
第一次観測隊の成功のころ以上の世間の関心が、南極観測隊に向けられました。
そこで、案の定こんな噂も流れました。
実はタロとジロは生きてなどいなかった。
犬を置き去りにして世間から責められた第1次越冬隊だけでなく、
南極観測隊全体への非難をかわすため、こっそり樺太犬を二匹、
日本から連れて行って、あたかも1年間彼らが生き延びていたかのように装った。
その目的は達せられ、世間は非難どころか 再会の物語に涙し、
1次派遣のとき以上に南極観測隊に対する関心が高まった・・・・。
しかし、天網恢恢疎にして漏らさず、人の口に戸は立てられずの言葉通り、
もしそんなことがあったら必ず内部からその証拠のようなものがでてきて、
やがてそれは世間の知るところになっていたでしょう。
だいたい、この隊員と犬たちの信頼しあった様子から、誰がそんなことを思うでしょうか。
彼らはその後も南極に残って越冬隊とともに過ごし、
現地で亡くなったジロ、日本に帰ってきて老衰で亡くなったタロ共に、
剥製となって在りし日の姿を今もこの世にとどめています。
最終回に続く。