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「宗谷」~「日本人だけの手で」

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さて、第二次南極観測隊が日本を出港して難局に向かったのは、第一次観測隊が
南極に到達したのと同じ年の10月21日のことでした。
第一次観測隊の滞在が1年を迎える頃に、ちょうど南極に到達するという予定です。

しかし、この年、南極は「大荒れ」で、日本からの観測隊だけでなく
他国の砕氷船が5隻、氷に閉じ込められてしまいました。

「宗谷」は第一次観測のとき、ビルジキールをはずしていたため
最大60度まで船体が傾き、甲板の犬が海に落ちそうになったくらい揺れましたが、
その経験を踏まえ、今回は特製のビルジキールを装着した上、
砕氷能力を1.2mにアップして臨んでいました。

改装された「宗谷」の砕氷能力は当時世界の砕氷艦のトップクラスだったのですが、
その「宗谷」が閉じ込められるくらいの氷です。

馬力と砕氷能力の劣る砕氷船では、とても「宗谷」を助けるどころではありません。




「宗谷」は第一次観測隊のとき、艦載機にセスナを積んでいたのですが、
今回は今回はビーバー機(DHC-2型)といわれる水上機を搭載していました。
「昭和号」というこの飛行機は、海面からでないと離発着できなかったため、
「宗谷」は「昭和号」の飛び立てる海面を探してうろうろしているうちに、
ブリザードに捕まって身動きができなくなり、氷に閉じ込められてしまったのでした。




さて、「そうや」は苦労して一旦外洋に出、砕氷能力が1mのクラスであったアメリカ海軍の
「バートン・アイランド」号に救援を求め、支援を受けて密群氷に再度突入せんと試みました。
なんとか進まなくては、第2次隊員を第1次隊員の交代もできません。

しかしこれ以上船が氷を進むことは不可能と判断したため、艦載機を飛ばして、
第一次隊員を「宗谷」まで空輸で連れ戻すことを決定しました。

写真は、おそらく「バートン・アイランド」号か雪上の艦載機から撮られた「宗谷」。
この写真を見ただけで、二進も三進も動かなくなっているらしいことがわかります。



砕氷能力はあっても「宗谷」は古い船をリサイクルしたという性質上、エンジンは
ディーゼルエンジン直結方式で、始動・起動も遅く、航行速度も遅いため、
このような状況となった時に身動きできなくなったとも言われています。


「昭和号」で第一次観測隊員と最小限の荷物を収容したあと、代わりに
第二次隊員と荷物を昭和基地に輸送したところで、天候が悪化してきました。

そして「バートン・アイランド」号の船長から、「宗谷」に離岸勧告が出されました。

三人の第二次隊員と荷物はもう一度「昭和号」に積み直され、
樺太犬を置き去りにするという苦渋の決断を強いられて、
満身創痍の「宗谷」は、第二次観測隊の上陸を断念して日本に帰ることになります。

このとき、せめても母犬と子犬だけでも連れて帰ろうと、「昭和号」は
重量を軽くするためにガソリンを抜いたということです。

その後、「バートン・アイランド」号の後ろを航行して「宗谷」は外洋に出ました。


この失敗を踏まえ、第三次観測隊は搭載ヘリの規模にこだわりました。
シコルスキーS58型ヘリが2台積まれることになり、人員と荷物の輸送に活躍したそうですが、
このような大型ヘリが砕氷艦で運用されていたのは、当時日本だけだったそうです。



これ、なんだと思います?
照準器のように覗き込んでいるおじさんがいますが、何かを見るものではなく、
丸いガラスの部分をぐるぐると回転させることで外側に付いた雪を振り払う
「砕氷船仕様のワイパー」なのだそうです。

今ならもう少し違う方法がありそうですが、確実にこの窓の部分だけは
覗き込む部分を確保できるわけですし、なんといっても簡単な方法ですよね。



中に入ることはできず、外側から覗き込むことしかできませんでしたが、
ここが海図室、チャートルームです。
当時使われていた三角定規などがそのまま残されて展示されています。

そしてこの角度からはどうしても見ることができなかったのですが、
この海図室の向こう側には航空機と通信を行い指令を送る航空司令室があり、
右側の壁面には艦内神社である「宗谷神社」がありました。

第一次観測隊のために、「宗谷」には大規模な改装が行われました。

新船首部の取り替え、復原能力の大幅強化、デリックブーム新規交換、
レーセオン社製の観測用/航海用40マイル大型レーダー及び見張所新設、
蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装、ファンネル換装、
救命艇4隻及びダビットを換装、宇宙線観測室新設、後部マストを門型に換装、
居住区換装、舵の換装、豆腐製造機新設、
ヘリコプター発着飛行甲板新設、ヘリコプター格納庫の新設、バルジタンク新設、
ベル47G型ヘリコプター2機搭載、セスナ180型1機搭載、
ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー、音響測探儀を最新の物に再装備等。

ほとんど新造艦になったといってもいいほどの大改造で、これにあたっては
日本の幾多の企業がこぞって新技術を提供したというのはお話ししたところです。

このとき、「宗谷」からなくなってしまったものがありました。
それが戦前から当たり前のようにあった艦内神社、「宗谷神社」でした。

第一次観測に出発したとき、「宗谷」は戦艦「大和」沈没地点で、そして
ルソン沖で慰霊式を行い、献花を行っています。
にもかかわらず(というのもなんですが)、その直後大変な台風に見舞われた
「宗谷」は、最大各40度の横揺れに見舞われて搭載機が損傷してしまうのです。

改装によってビルジキールを撤去してしまったことが揺れの原因でしたが、
船の安全に不安を持った「宗谷」船長がそのとき思い出したのは、
出港前訪ねてきた元海軍士官の、

「戦時中宗谷が沈まなかったのは、艦内の宗谷神社のおかげだった」

という言葉でした。
もっとも、現場で訓練にあたる下士官などは、

「宗谷神社のご加護などあてにするな!」

を合言葉にビシビシと兵を鍛えまくっていたそうですが。


とにかく、こういうときの神頼みとばかり、砕氷船「宗谷」は
艦内神社をふたたび祀ることになりました。
1957年1月24日、第一次観測隊は南極への公式上陸を果たし、
その後、上陸したオングル島北にある小島に「宗谷神社」を分祀して、
この島に「宗谷島」と命名したということです。



舵輪は自由に回して遊ぶことができます。
なんども暴風雨に見舞われ、激しい横揺れに耐え、氷の壁を切り開いてきた、
そのとき舵が取られたのはまさにこの舵輪でした。



磁気コンパスなども南極に挑戦することが決まってから取り付けたものでしょう。



「汽笛用の紐」と書かれているのですが、この紐がどこにつながっているのかはわかりませんでした。
汽笛って紐を引っ張って鳴らすものだったんですね・・。



コードが束ねられていた管は、もう必要がないので切られてしまっています。
この操舵室の内部は塗装されて間もないようでした。
おそらく今年1月に終了した大規模改装工事で手が加えられた部分に違いありません。



舵輪の上部に天井から突き出してある伝声管。



もしかしたら金属部分は改装のときに磨かれたものでしょうか。
本来はこのラッパの内部のような緑青がういているはず。



ジャイロのコードも切断されてしまっています。



「宗谷」備え付けの救命ボートは動力付きです。
救命艇と作業艇を兼ねた兼ねており、南極では物資の運搬や交通に役立ちました。



「海上保安庁」の文字は、おそらく南極観測の役目が終わって、
巡視船として最後のご奉公をしたときに書かれたものと思われます。

南極観測隊の乗組員は、三つの集団で構成されていました。

「学者」・・・・観測をする

「登山家」・・・南極で設営を担当する。「山屋」とも言われていた

「船員」・・・・「宗谷」乗組員

です。
猫にもその名を付けられた第一次隊の隊長、永田武はノーベル賞候補にもなったほどの
世界的な学者であったため、南極に1年間滞在する危険な任務に参加することには
国内はもちろん海外からも懸念の声があがったといいます。

「登山家」のトップにも西堀栄三郎を据えました。
京大卒の学者であり技術者でもあるカリスマ登山家。
統一教会の信者で日韓トンネルの推進者というのはちょっとあれですが、()
「雪山賛歌」の作詞をしたことでも有名です。

そして「宗谷」の船長は松本満次。
この船長の冷静な判断が、不可能と言われた南極接岸を可能にしました。

日本はこのプロジェクトを、日本人だけで成功させることにこだわり続けました。
第三次観測隊まで、オブザーバーとしても外国人をいれずに行ったのもその表れです。

一つの観測隊に3つのセクションを作り、それぞれに業界トップの人間を据えて
「船頭多くして」の状態だったこと、日本人だけにこだわりすぎたことは、
セクショナリズムで組織が硬化する原因となり、悪く言えばこれが
第一次隊のトラブル、第二次隊の中止ににつながることになったといえなくもありません。


しかし、その頃の日本国民にとって、敗戦から立ち上がるためのきっかけとなる、
そして日本の力を再び世界に示すチャンスとなる南極観測隊は、
何が何でも、日本人だけの手で行わなければならなかったのです。

そう、何が何でも。







甲板上も改装が終わったばかりで白いペンキに青と黒のフェンネル、
通風筒の内部の、鮮やかな日の丸の赤が大変美しい。

通風塔とは、船の下層階に空気を供給するためのものです。



これで艦内見学は終わり。
ラッタルで外にでる途中、こんな小さなボートを発見しました。



おそらく一人か二人乗りの短艇で、連絡とか救助用の動力付きモーターボートだと思いますが、
このMavericks(一匹狼)と名前もトップガンなちびボート、
直接海に浮かべないでフロートの上に乗せて展示してあります。
何かあるとひっくり返ったりしてしまうから・・・?



「宗谷」を眺めることのできるベンチには、灰皿が設置されていました。
錨のモチーフが妙に粋なデザインです。



「船の科学館」がまるで大型客船で、向こう側の岸壁に繋留されているように見えます。
展示されるにあたって、岸壁の反対側にも固定が3箇所されています。




ちょうど5時になった時、どこからか係の人が出てきて、艦尾に揚げられていた国旗を、
まるで洗濯物でも取り込むようなさりげなさで降ろしていました。

しかし、彼が他の何人かの解説員のように「元宗谷の船員」なのだったら、
側から見るだけではわからない、誇りとこだわりがこの作業にも込められていたはずです。


さて、それでは「宗谷シリーズ」の最後に、「宗谷」が有名になるきっかけにもなった、
あのタロとジロ、その他の話をしたいと思います。


続く。





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