冒頭絵はフランス空軍でエースパイロット(フランス語でア・ジャポネ)
と呼ばれレジオンドヌール勲章を受けた、飛行家、滋野清武男爵。
第一次世界大戦時、唯一のエースだった日本の男爵。
しかも彼はフランス娘を妻に伴って帰国し、飛行機の操縦を日本に広めるために
尽力した人物ですから、もう少し名前が一般に膾炙しても良さそうなものです。
しかしながら、現在、航空の歴史に通暁してでもいないと、
バロン滋野という名前を知っているものは滅多にいません。
この人物の、特に帰国してからは順風満帆とはいえなかった
薄幸の晩年が影を落としているからなのでしょうか。
飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)
女流パイロット列伝~木部シゲノ「男装の麗人」
飛行機の免許を取るために、飛行学校をだけで世間の話題になり、
本人が好んで男装をしていたことから「男装の麗人」として一斉を風靡した、
この時代の申し子のような一飛行家について、著書で彼女を取り上げていた
あるフェミ作家への非難を兼ねて書いてみました。
はっきりいって、飛行家としては突出した実績を残したわけでもない彼女が、
どうして当時世間にこれだけもてはやされていたかについては、
「男装した時に初めて魅力を発揮する女」
に属したからではないか、と推測してみました。
いずれにせよ資料がなさすぎて、なんとも言えません。
コンピューターサイエンティストで大学教授でアクロバット飛行家。
世の中にはこんなとんでもない「リケジョ」(死語?)がいたんですね、
ってことで、オマージュの一頁を捧げました。
女性として初めてオートジャイロの免許を取り、その後も
世界初のティルトローター(ご存知の通り大変難しい)の操縦資格を持ち、
VTOLの・・・・・・。
とにかく回転翼にかけては右に出る者のない女性飛行家。
ところで、わたしはここ何年か、夏の間、加州シリコンバレーで過ごしていますが、
車でとんでもない豪邸の(アメリカ基準で、いずれも広大な前庭とバックヤード付き)
立ち並ぶ、「アサートン(ATHERTON)」という住宅街を通り抜けることがあります。
彼女について調べたとき、彼女の住んでいる町であることを知りました。
「アサートンにある快適な住まいの、花の咲き乱れるバックヤードののデッキチェアで、
退院した78歳のお婆ちゃんが空を見ながら考えていたのは、
翌週サンカルロスのヒラー航空博物館で行われる
「ヴァーチカル・チャレンジ・エア・ショー」で乗る、「スカイクレーン」、
シコルスキーS−64のことでした。」
日本のいわゆる高級住宅街などではとても望めないような、豊かな緑をたたえる
その一角を通るたびに、まだ健在であるらしい彼女のことを思うわたしです。
2014年末の掲載ですが、その年の年忘れギャラリーには載せなかったので、
ここであらためて登場です。
初の中国人女性として、彼女はアメリカの飛行界には受け入れられましたが、
白人の男友達(そもそも友達だったのか?)に必死の思いで貯めたお金で買った
愛機を壊され、弁償もしてもらえなかったため、失意のうちに帰国しました。
彼女のGreat Expectationsは、その瞬間全て消えたのです。
アメリカ海軍航空史の黎明期に名前を残した二人の人物を取り上げました。
まず、初めて船の甲板から飛行機で飛び立ち、初めて着艦し、そして初めて
着艦事故で死亡したユージーン・イーリー。
海軍軍人として初めて自分の操縦する飛行機で空を飛んだ、
セオドア・”スパッズ”・エリソン。
彼は単身赴任中のアナポリスから、重病の娘の身を案じて夜間単機で飛び立ち、
事故を起こし、その体はイーリーが人類最初に離艦を行った同じ海で発見されました。
東京裁判で日本人被告の弁護をしたアメリカ人弁護人については、
ずっと一度扱ってみたいと資料を集めていました。
参考にした本の中にやはり弁護人であった清瀬一郎博士の「東京裁判」があります。
そこに、あの、戦勝国による「見せしめ」のための裁判の論告中、
アメリカの原子爆弾投下について言及したブレイクニー少佐の「その後」、
つまり、裁判後日本に残り、弁護士として活動していたところ、
飛行機事故で死亡した、と書かれていたことは当時大変なショックでした。
東京裁判についてネット上にログが立つと、当エントリが取り上げられることもあるようです。
靖国神社の遊就館にいくといつも目にする、硫黄島の戦いの際
戦死した士官の体からアメリカ軍によって発見された英語の遺書。
それが、第27航空隊司令官、市丸利之助少将の書いた
「ルーズベルトに与うる書」でした。
大国アメリカのみならず、欧米諸国の人種的奢りを追求し、そして
彼らの虐げてきた有色人種の人権を取り戻すために立ち上がった
日本という国の「理」と、正当性を訴えてやまない
この手紙は、ルーズベールトが死去した後に、アメリカの新聞に掲載されました。
海軍兵学校同期会の江田島訪問に、卑怯な手を使って紛れ込んだわたしは()
そのツァーの行程で海軍墓地を訪れました。
この項は、そのときに慰霊碑を紹介しながら、帝国海軍の艦艇について
あらためて思いをはせる、という形であげたうちの一つで、
俊英艦であったのみならず、人命救助に類い稀な実績を上げた駆逐艦「濱風」の
きっと男前であったに違いない艦長、前川万兵衛海軍中佐を、
写真が見つからないのをいいことに、妄想と、
こうあって欲しいという勝手な願望を込めて描いてみました。。
掃海隊を暮れに見学したことで、またなんどかペルシア湾の掃海について
触れることにもなったのですが、その指揮官であった落合二等海佐(当時)は
この太田實海軍中将(戦死後昇進)の息子でした。
昭和20年、米軍の上陸に追い詰められた海軍陸戦隊の司令官として、
壕の中で他の幕僚とともに自決した太田司令。
撤退命令が出たにもかかわらず、持久戦を行うことを選んで後の死でした。
このときの「命令拒否」を、わたしは「獣民を少しでも巻き込まないため」だと
このエントリで推測しましたが、太田中将の最後に残した遺書の内容からも、
おそらくその通りだろうと誰しもが納得することでしょう。
「沖縄県民斯く戦ヘり 県民に対し後世特別の御高配賜わらんことを」
ところで、わたしは先日、ある人物から、初めて太田中将自決の跡を訪れたときに、
そこがいつもそれまで夢に見ていたのと同じ場所であると思った、という話を聞きました。
その夢というのは、爆音の後、石段を血が流れてくるといったいつも同じもので、
その人は、なぜ自分がこんな夢を何度も見るのか不思議だったということですが、
壕をみたとき、太田中将と共に自決した幕僚に、自分と同じ名を持つ軍人がいたことを
初めて知り、衝撃を受けたのだそうです。
輪廻転生を頭から信じているわけではありませんが、もしかしたら自決した幕僚の意識が、
何かのきっかけで、時空を超えて血族に受け継がれるなどということもあるかもしれない、
とわたしはこの不思議な打ち明け話を聞いて思ったものでした。
別の項で使用した太田中将の息子、落合元海将補。
太田中将とほぼ同じ顔です。
ちなみに、当ブログの記事がいくつか掲載されているNAVARのまとめが、
その他の情報も含めて大変参考になったので、最後に挙げておきます。
アイスクリームとアメリカ海軍 潜水艦
特に同じサイトの記事、「変態兵器伊400型」というのにウケました。
それではみなさま、よいお年を。