お正月映画で公開されていた「杉浦千畝」をご覧になった方はおいででしょうか。
リトアニア領事であった杉浦千畝に、国外脱出のための日本へのビザを
発給してもらったユダヤ人は、ソ連経由で日本海側から日本に入国し、
そこからニューヨークやその他の亡命地に逃れることができました。
今現在、杉浦が発行したビザによって生き延びた人の子孫は、
全世界で4万人になるといわれます。
映画のシーンにもありましたが、ドイツ侵攻前、リトアニアの日本領事館には、
ビザを求めて柵の外側でユダヤ人たちが徹夜で待機し、ビザが発行されるや否や、
着の身着のままで脱出していきました。
しかし、一刻を争う事態を甘く見て、脱出できなかったユダヤ人もいました。
杉浦に、「これは移民じゃない、脱出なんだ。早く街を出なさい」と強く勧告されても、
なまじ金持ちは財産の始末に手間取ってそれが遅れ、やっと駅に駆けつけた時には
すでに駅は封鎖されており、杉浦にせっかく書いてもらったビザを破られ、射殺されたり、
収容所に送られたりした人もいた、というエピソードが映画では描かれていました。
そんな収容所の一つであるダッハウで、収容所を解放した日系人兵士が、
雪に埋もれたユダヤ人を助け上げ覗き込むシーンがあります。
彼は杉原にビザを出してもらったにもかかわらず、逃げられずに収容所に送られ、
いまや瀕死の状態に陥っていたリトアニア出身のユダヤ人でした。
もうろうとした彼の目には、その顔がビザを書いてくれた日本領事に見え、
「センポ」(杉浦の海外での呼び名)
と思わず呼びかけるのでした。
このシーンに描かれていたように、ヨーロッパ戦線に投入されていた日系人部隊が、
ドイツのダッハウに到着した時、そこにナチスが作った収容所があることを発見しました。
ダッハウ収容所は、当初政治犯を収容するために作られ、戦争中から
ユダヤ人の収監者が大勢を占めるようになってきましたが、ユダヤ人だけでなく
ポーランド人、ソ連軍の捕虜、そしてキリスト教聖職者がも収容されており、
アメリカ軍がここに侵攻してきた時には、チフスの蔓延と栄養状態の極度な悪化、
収容者に行われる強制労働と頻繁に行われる制裁で、収容所の状態は酸鼻を極め、
餓死寸前の収監者が幽鬼のように彷徨う地獄となっていました。
収容所を発見したのは、収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていた
日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊です。
しかしなぜか、このことは1992年(ブッシュ政権下)まで公開されませんでした。
アメリカでは公文書を一定の時間が過ぎたら公開するという
アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)の定められた50年が経過するころだった、
という考え方もできますが、厳密にはこの時点で、まだ50年には3年ほど間があります。
アメリカではブッシュ政権、そしてクリントン政権下において、
日系アメリカ人たちに対し、かつてのアメリカ政府の扱いを改めて謝罪し、
そして日系兵士たちに叙勲が行われるなどの復権式典が何度となく持たれています。
おそらく、最初に日系アメリカ人に公的に謝罪を行うことになったブッシュ政権で、
この隠されていた事実も少し早くはなるが公開するべきだということになったのでしょう。
しかし、1945年当時、いかに二世部隊が継子扱いされ、イタリアでは
多数の戦死者を出しながらドイツ軍の要塞を打ち破る戦功をあげたのに、
ローマへの凱旋はさせてもらえないなどの屈辱的な扱いを受けていたとはいえ、
なぜダッハウの発見までが秘匿されねばならなかったのでしょうか。
前にも一度、当ブログでは「ダッハウの虐殺」について触れたことがあります。
「虐殺」といってもナチスのユダヤ人虐殺のことではありません。
アメリカ軍が収容所を占領した後、ドイツ軍人やカポと呼ばれるユダヤ人の「手先」が
戦闘行為ではなく、武装解除された上でリンチを受けたのち、銃殺されたり
収容者に引き渡されて撲殺されたりしたことを言います。
ダッハウは戦後すぐ、アウシュビッツより有名なホロコーストのメッカとされていました。
実際にも人体実験は行われ、ガスでの殺戮もあり、ほとんどの収監者は
半年も生き延びられないという状況ではありました。
なかでも親衛隊の空軍軍医、ジグムンド・ラッシャーが行った人体実験は、
これが人間のすることかと暗然となるような残酷なものです。
(ラッシャーは別の罪を問われナチスによって処刑になっている)
しかしながら、少なくともアメリカの主張する組織的殺戮、つまり
ナチス政府がユダヤ人の抹殺を命令したという事実はなかった
ことが、今日、公的にも証明されています。
1945年4月29日、442連隊の第522野戦砲兵大隊の連絡斥候は、
あの悪名高いダッハウ収容所の最初の発見者となり、
解放者となって、3万人の収監者を解き放ちました。
彼らの祖国合衆国において、1万2千人以上の日系アメリカ人が西海岸から
強制的に10箇所のリロケーションセンターに移送されたのは3年前のことです。
522大隊の何人か、そして422連隊のほとんどの兵士たちは、収容所の出身者でした。
家族を収容所に残したまま、自分たちをそこに追いやった他ならぬアメリカのために、
ここヨーロッパで、我が身を犠牲にして戦っていたのです。
これがダッハウの本当の発見者をアメリカ政府が隠し続けた理由でしょう。
ダッハウ開放は、本来英雄的な戦功として、大々的に宣伝されるべきものでした。
しかし、もしそのことを報道するとなれば、開放したのがほかでもない、
アメリカ政府の手によって作られた民族隔離収容所出身の者だった、
ということを語らないわけにはいかなくなります。
ダッハウで行われていなかった「組織的なユダヤ人抹殺」が、あたかも実際にあるかのように
一つのガス室を論拠に喧伝した(実際にはそこで大量の殺人が行われたわけではなかった)
ことも、つまりはそれを発見した人種に対して、アメリカが現在進行形でどんな扱いをし、
ナチスと同じような収容所で、非人道的行為を行っているかが公になるからです。
「アメリカも日系人に同じことをやっているじゃないか」
という批判に対して、
「我が国の日系人の扱いは、ナチスがユダヤ人にやっているのとはまったく違う」
というために、そして自分たちの「戦闘行為ではない虐殺」を正当化するために、
「ホロコーストがあった」ことにしておく必要があったのではないでしょうか。
現にアメリカには、日系人は収容所に集められたものの、食べるものにも困らない
快適な暮らしをしているというアメリカ政府の行った宣伝に、そう思い込まされて、
より一層彼らに憎しみを向ける者もいた、と山崎豊子 著「二つの祖国」には書かれていました。
これは第442連隊の二世兵士が山中でドイツ軍の士官と兵を捕虜にした時のことを
絵に描いて遺したものです。
山中で見張りをしていた彼は、身を隠すのに絶好な木の幹で敵の来るのを待っていると、
ドイツ軍の兵士二人が丘を登っていくところを発見したので発砲した、とあります。
かれは身振りで狙撃手に武器を落とすように、そして士官には
彼の銃ベルトを外して捨てるように言った、ということが書かれています。
この二世兵士にとって初めて敵と対峙した瞬間だったのでしょう。
敵に発砲したのも初めての経験だったに違いありません。
ガンといえば、彼らが使っていた銃も展示されていました。
ケースの横に添えられた札には、ダグラス・マッカーサーの言葉があります。
"Never in military history did an army know so much
about the enemy prior to actual engagement.”
アメリカ軍の歴史において、軍が交戦に先んじて
これほど相手のことをよく知っていたことはなかった
「相手を先んじて知る」ことができたのは、他でもない日系二世たちを
アメリカ軍に組み入れ、日本人の風習や慣習、行動原理や思考までを
あらかじめ情報として収集できたことを言います。
これは裏を返せば、当時の日本軍から見た彼らは「裏切り者」だったということです。
わたしは日系二世のことを調べるまで、彼らが日本に対して帰属意識を持つのが
当然であると何となく信じていたところがあるのですが、一世ならともかく
アメリカ生まれの二世は、軍に加わる時点で、日本人であることを
どこかで捨て去っていたのではないかと思います。
今回、ダッハウ開放をネットで検索していて、
「日本人がダッハウを開放した。正確に言えば日系アメリカ人であるが」
という記述を目にしましたが、この言い方には違和感を覚えました。
彼らは自分自身が「日本人」であるとはみじんも思っていなかったでしょうし、
実際にも、彼らが「日本人」であったことは、生まれて一度もなかったのです。
彼らが渡米一世ではなく、あくまでも「二世」であることを考慮しないと、
なぜ彼らが大挙してアメリカ側に立って戦ったのかを理解することはできないでしょう。
なぜかこのホーネット博物館の日系部隊コーナーにあったナチスドイツ旗。
武装解除した時に取ってきたんでしょうか。
日系二世部隊を描いたコミックが展示されていました。
ダッハウ開放時の、ドイツ兵と将軍(ダッハウの責任者に高官はいなかったため、
これが誰であるのかは謎)が会話しているシーン。
「いいえ、将軍閣下(ヘア・ゲネラル)」
「畜生!その時何か見たか?」
「アメリカ軍の格好をした日本の兵士を見ました」
「神がどちらの側に居られたのか、わたしは今わかったよ」
「アウフヴィーダーゼーン、わたしの若者たち、アウフヴィーダーゼーン」
lowenというドイツ語がわからなかったので適当に訳しました。
この展示場には、有名な日系アメリカ人軍人の写真がいくつかありますが、
これもその一つ。
彼に自衛隊の制服を着せたらそっくりな方を、実はわたし存じ上げています。
技術軍曹だったベン・クロキも442部隊出身です。
真珠湾攻撃が起こってすぐ、かれは空軍に加わりました。
不幸にもかれの最初の「戦闘」は、偏見と差別、無理解からくる周りの反発でしたが、
それを跳ね返すようにかれはヨーロッパ戦線で30もの危険なミッションをこなし、
B-29の爆撃手として「サッド・サキ」というニックネームで
周りに受け入れられるようになりました。
右の写真は、同機の下でパイロット、ジェンキンス中尉とのショット。
トーマス・サカモトはMISのトップでした。
フクハラがそうだったように、彼もまた日本で学校を卒業したため、
日本語に長けていてMIS学校の教授を務めることができたのです。
志願してマッカーサーのオーストラリアでの任務に付き添ったサカモトは、
そこで日本軍の「捕虜第1号」を尋問し、その部隊に自殺攻撃をすることを
勧告文書を撒いてやめさせることに成功しています。
かれは終戦後、ミズーリ感情での降伏文書調印に立ち会うという名誉を得ました。
日本の占領政策に携わった後、サカモトは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加します。
なぜ降伏調印に立ち会った記念を旭日旗の上にする(笑)
どうもこの辺のセンスが日本人には分かりかねるのですが、まあとにかく、
この旭日旗がかっこいいから、ってことでよろしいですかね。
あなたは降伏調印式に立ち会いました、という証明書。
小泉首相が訪米した時には、ホワイトハウスに日系アメリカ人軍人の代表として、
前述のベン・クロキ(左から二番目)が招かれました。
戦後50年を経て名誉回復された日系アメリカ人と、あらたに叙勲が行われた日系部隊。
彼らは、こうやって同期会を行なっております。
なんだか兵学校同期会のおじいちゃんたちとそっくりの雰囲気です。
戦争が終わった今、日本の血を引くアメリカ人である彼らは、
「どこの国に生まれ、どこの民族の血を持ち、どの国に忠誠を誓ったか」
という自分の心の深淵から解き放たれ、
どちらかを選ばなくてはならないことを強制されない世の中になったことを、
何よりも歓迎しているに違いありません。