というわけで、時間厳守の自衛隊が
7:20〜7:25 移動 場所*松阪港〜桟橋 備考*徒歩
と予定表に書いてある通り(笑)、きっちり7時20分になってから
一同は徒歩でフェンスのところから乗艦する「いずしま」に向かいました。
乗艦は7:30分で、これも1分の狂いもなく始まったのはさすがです。
ラッタルの前で乗艦を待つ人々。
本日参加の報道は20人強、わたしとミカさんは「一般人」枠での参加です。
報道にはわたしの「天敵」である地方紙のC紙やH紙、そうでもないY紙などで、
前回より場所が中央寄りであることから御大のAそしてM紙など、
どんな態度で臨み、どんな記事を書いてくれるのかある意味楽しみしていた
両紙からの参加がなかったのは(ネタ的にも)残念でした。
今検索したところ、「伊勢経済新聞」という地元の経済誌が
当日の訓練についてわりとしっかりした記事を書いていました。
伊勢湾で大規模機雷処理訓練
「海将補 岡浩さん」とか「ぶんご航海科の福江信弘さん」など、
自衛官に階級をつけない書き方は如何なものかとは思いましたが。
伊勢経済新聞の記事を読んでいただいてもおわかりのように、
今回の機雷戦訓練は10日間にわたって行われます。
この日の訓練はちょうど中盤にかかったころであり、いずれの訓練も
このころにメディアツァーを行うのかもしれないと思いました。
参加艦艇は全部で21隻、人員は約1,100名で前回より少しだけ小規模です。
掃海母艦は「ぶんご」だけ、掃海艇は全部で15隻。
掃海艦2隻、掃海管制艇2隻が参加艦艇の陣容であり、これに
ヘローキャスティングを行うMH-53E(機体番号29)が1機だけ参加します。
何度かご説明している通り、伊勢湾は掃海隊の定期訓練がこの時期に行われ、
それは陸奥湾(7月)、日向灘(11月下旬)とともに訓練機雷を使った訓練で、
実機雷を使った、つまり本当に機雷を掃討して爆破処理を行う訓練としては、
毎年6月の硫黄島の訓練が年1度行われています。
それにしても、この4箇所の訓練海域を見て気付くのは、
伊勢湾(伊勢神宮のお膝元)
日向灘(海軍時発祥の地である美々津神社がある日向)
陸奥湾(霊場恐山を要する下北半島から臨む湾)
硫黄島(日米の激戦地であり未だ多くの魂が眠る)
と言った具合に、どれも霊的な因縁の深い地域であることです。
ここで行うことが長年の間に決まってきた経緯はわかりませんが、
決して偶然の結果ではないとも言い切れないものを感じます。
一旦食堂に案内された我々は、出港をごらんくださいということで
皆とりあえず艦橋に上りました。
「いずしま」はもちろん初めてです。
というか、前回の「えのしま」と比べてさらに艦内が狭いのに驚きました。
赤と青に別れたツートーンの艦長椅子。
「いずしま」の艇長は「えのしま」と同じく3佐が務めますが、
一般の自衛艦で「2佐」の印となっている赤青は、掃海艇・艦では3佐です。
他の掃海艇と同じく30名少々の乗員が乗り組んでおり、すべてを
この単位で行うので、まるで艇長を家長とする「一家」のような雰囲気です。
ある意味家族より一緒にいる時間が長く、お互いのことを知る間柄かもしれません。
本日この「いずしま」に座乗しメディアへの広報を務めるのは、
第1掃海隊司令、宇都宮俊哉2等海佐。
赤いストラップは掃海隊群においては司令官の印として2佐が着用します。
出港準備のときには司令も艦橋で作業を見守ります。
出港ラッパを吹く瞬間を撮るために、わたしはずっとここで彼の一挙一動を見張っていましたが、
なんか色々とあるらしく、ラッパを持っては戻し、吹きそうになってはやめ、
の繰り返しで一向にその瞬間がやってきませんでした。
出港の「今!」というのがどういう状態なのか、門外漢にはわかりませんが、
何かがどうかなって「今しかない」瞬間というのがどうもあるようでした。
出港ラッパ吹鳴のとき、ラッパ奏者は左手でマイクを吹き口に当てます。
手前で動画を撮っているのはミカさん。
この瞬間にこれほどこだわって撮っていたのはわたしたちだけでした。
出港ラッパの後はするするといった感じで「いずしま」は岸壁から離れていきます。
「えのしま」との大きな違いは、全体的なサイズであり、この
後方を臨む眺めでありましょう。
「えのしま」は艦橋甲板から後ろがすとんと見えたものですが、
こちらは煙突が二本屹立していて、後ろの眺めはその間から確保します。
これ以前の掃海艇は掃海具を展張したりする関係で、船尾甲板に広さが要求されましたが、
本型では掃討重視の艇とされたため、そちらはあまり重視されなくなったのです。
上記の伊勢経済新聞の記者も書いていますが、
(多分この取材をしているときにわたしも近くにいて二人で話を聞いていた)
ペルシャ湾派遣において海上自衛隊の掃海部隊は大変評価されました。
以前当ブログの「ペルシャ湾の帽触れ」というエントリで書いたことがあるように、
他の国は小さな掃海艇は輸送してきていたのに、彼らは掃海艇で現地までいったのです。
「よくまあこんな小さな船でここまでやってきたな!」
海外の掃海部隊は一様にまずそれに驚きました。
そして戦後の朝鮮戦争のときに行った掃海技術を駆使して、難しい海域を
啓開した海自掃海部隊には惜しみない賞賛が各方面から上がったと言います。
しかしながら、当の海自部隊にとってはマンタ機雷などのステルス機雷は初体験で、
この対処に困難を極め、技術の立ち遅れを認識することになったのも事実でした。
この経験から、英国製の「サンダウン」型を土台に作り上げたのがこの
「すがしま」型掃海艇であったということです。
「サンダウン」級より排水量を大きくすることは許されなかったため、
居住性を確保する目的で船首楼の部分はかなり延長されているそうです。
この眺めは、二本煙突にすることによって艦橋からの視界を確保している
この「すがしま」型の特徴的なものだということができますが、
こうやってみると後方の眺めはともかく、肝心の左右の眺めが悪いですよね?
初めて採用された二本煙突ですが、運用されてからやはりそのような意見が出たため、
次世代の「ひらしま」型からは煙突は1本に戻されました。
出港と同時に信号旗が降ろされたり揚げられたりし、
乗員はきびきびと信号旗の紐を固定します。
これらすべて一瞬の間に行われ、多くない乗員が一人の無駄もなく
各自の持ち場を粛々と務める様子はいつ見ても感嘆するしかありません。
彼らにとってはルーチンですが、初めて見るものには全てが日頃の
たゆまぬ訓練の成果であると思えます。
出港した「いずしま」は灯台の立つ突堤の横を通過しました。
突堤の中も外も、まるで湖のような凪で海面には漣しか見えません。
「いずしま」と刻印された鐘。
時鐘は掃海艇でも時間ごとに鳴らされるのかもしれませんが、
前回、今回を通じて耳にすることは一度もありませんでした。
もしかしたら気がつかないだけだったのかもしれません。
出港後、第1掃海隊司令である宇都宮2佐が、取材・見学者に
船内の食堂で説明を行うので降りてくださいと促しました。
機雷戦訓練の概要においては、前回「えのしま」で受けたレクとほぼ同じですが、
今回説明に当たった宇都宮2佐も、実に軽妙に自分の言葉で語る方でした。
一般的に話のうまい人が多いイメージのある海自ですが、特にこの方は
ツボを得た喋りで、説明を受ける側の集中を途切れさせませんでした。
まずは今回の伊勢湾訓練が行われる訓練海面を地図上で示します。
訓練海域は3マイル ×6マイルなので大体5km×10kmの範囲でしょうか。
松阪港からは8マイル、つまり12キロで行動海面に達するので、
巡航速度が14ノットの「すがしま」型だと40分で到達することになります。
レクチャーは現行の掃海艇・掃海艦についての説明も行われましたが、
その中で面白いなと思ったのは、
「(えのしま型は)もはや大きさからいっても掃海”艇”というより”艦”ですが、
まあいろいろと事情がありまして”艇”を名乗っております」
と言われたことでした。
ヤフーニュースの記事中、ペルシャ湾掃海についてこんな記事がありました。
第1掃海隊司令二等海佐の宇都宮俊哉さんは
「ペルシャ湾では最も困難だと言われ、どこの国もやりたがらなく
最後まで残っていたMDA-7とMDA-10の海域を難なく掃海した時には、
『お前らすごいな』と各国から言われた。
私たちの実力が認められ、隊員の自信にもつながったいい経験をすることができた」
と明かす。
ここで書かれている「MDA-7とMDA-10」の海域、というのは
上のレクチャー中に示された海図で濃いピンク色で示された部分です。
このことについて記者が宇都宮司令に質問に来ていた時、
わたしはたまたま真ん前におり話に参加させていただきました。
わたし「難しい海域とおっしゃいますがどう難しかったんですか」
司令「潮流がこの部分は大変早かったんです」
わたし「日本は派出が遅れて最後に到着したわけですが、その時には
各国の掃海隊は簡単なところをさっさと済ませて帰ってしまっていたんですね」
お節介かとは思いましたが、せっかくペルシャ湾掃海について興味を持ち
聞きに来ていた記者に補足させていただくつもりの発言でした。
映し出すスクリーンが歪んでいたのでこんな画像になりましたが、
こ れ が 昨年の平成26年9月、広島湾で見つかった魚雷です。
航空用魚雷なので、呉空襲の時に米軍艦載機から放たれたものかもしれません。
こちらは同年5月に行われた機雷処理。
山口県の山陽小野田市市埴生漁港沖で米国製機雷を処理した時の水柱です。
左下のバッテンは取り付けられた爆薬です。
今回の取材陣には女性が一人もいなかったせいか(笑)前回のような
空気読まない質問が出ることはなく、最前列で聞いていたわたしにも
宇都宮司令の言葉のたびに軽く「ほお!」とか感嘆詞があがるなどの様子で
取材していた人々が実に熱心な態度で臨んでいるのがよくわかりました。
記者の一人が、未だに機雷や魚雷が見つかっている原因を聞いていましたが、
ほとんどの機雷、魚雷は投下されてから長い間泥中に埋もれているのだけど、
時間が経って何かの原因で表面に現れてくることがあり、それで今でも
定期的に見つかって、このように掃海隊によって処理されているのです。
そして、こういう掃海活動を今日も行っている海上自衛隊掃海隊というのは
平和な日本で唯一現実に「戦い続けている」部隊でもあるのです。
続く。