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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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ロナルド・レーガンルーム〜空母「ロナルド・レーガン」見学

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艦内の売店で買い物をする時間を設けたら、たいへんな時間がかかってしまい、
先導の防衛団体事務局の方が、次の予定(第2術科学校資料室)に
遅れるぅ〜!と焦っておられるのを横で見ていたわたしです。

ほとんど全員が何かしら買い物したのと、日頃キャッシュを扱い慣れない
売店「フライング・ダッチマン」の従業員の手際が悪く、
なかなか列を捌ききれなかったのが敗因だったと言えましょう。

ようやく全員が揃ってハンガーデッキ階に上がり、最初に集合した
「ロナルドご本尊の間」に帰ってきました。
一行は艦内を見学するのに半分ずつに分かれ、最初の広報官が
第1グループを案内していたのですが、わたしたちがここに帰ってきたとき、
第1グループと交代して、「レーガンルーム」を見学しました。



さすが空母、ハンガーデッキ階の一室に、メモリアルルームがあります。

「わたし個人の考えですが、ここの記念館は、全米で最も良いものだと思います」

解説のために同行していたアジア系の乗組員がこう言いました。
それが「レーガン大統領のものとしては」なのか、「軍艦の展示としては」
なのか、うっかり聞きそこなってしまいましたが、いずれにしても
それだけ充実しているということが言いたかったようです。



第40代大統領、ロナルド・レーガンは1911年、イリノイ州タンピコに生まれました。
若い頃からスポーツマンであったレーガンは、大統領選のときも
常にフェアな戦いを貫いた、と書かれています。

彼はライフガードを7年間していましたが、救助した人数は77人だったそうです。

「そのうち9人はお礼を言わなかった」

と大統領になってからジョークのつもりかそれとも根に持っていたのか、
こう言っていたそうですが、身に覚えのある人はひやっとしたかもしれません。

若い日、彼はシカゴ・カブス専属のアナウンサーとして野球の実況ををしていました。
写真左はWHOラジオで実況中のレーガン。(1934-37)
この頃の実況放送というのは、試合を見ながらではなく、紙テープに印字された
自動受信機に刻々と送られてくる試合の輪郭をもとに、アナウンサーが
自らの想像としゃべくりの才能だけで実況放送を行っていたそうですが、
アドリブの利くレーガンのスピーチのうまさはここで培われたようです。


レーガンの父は普通のサラリーマンでした。
かれは後年両親についてこう言っています。

「父からは勤労の尊さと、希望を持つこと、母からは祈ることの大事さ、
夢をいかに持つかと、それが叶うと信じることを教えてもらった」



小学校3年生のとき。
クラスの中でも美少女っぽいのに囲まれて、アゴにこぶしを当てているのがレーガン。



1914年ごろ撮られた家族の写真。
この資料館の説明には、左から二番目がロナルド、とありましたが、
レーガンは次男だったので右側がロナルドの間違いです。

だいたい、この写真を見ても小さい方がロナルドの顔してますよね?



そして映画スター時代のレーガンについてのコーナー。
白黒映画が放映されていました。



やっぱり映画俳優になるだけのことはあって男前である。




レーガン主演の映画のポスター各種。
しかし、見事なくらい知っている映画がないし(笑)

映画俳優としてレーガンは19本の映画に出演しました。
「風とともに去りぬ」のオーディションを受けて落ちたこともあるそうです。
(もちろんアシュレ役・・・・ですよね?まさかレット・バトラー?)

俳優としては超一流というほどではなく、出演した映画も
彼がここで言っているように、ちゃっちゃと仕上げて週末に
放映するようなお手軽な娯楽作品が多かったようです。

むしろ彼はその弁舌をふるって俳優協会の組合活動を仕切ることに夢中になり、
この辺りから「政治家レーガン」の一歩が始まります。



俳優になる前に陸軍予備役将校になっていたレーガン、
1941年の開戦後、召集されたのですが、視力が弱かったため
航空群の映画部隊に配属(適材適所?)され、プロバガンダ映画を製作し
ナレーションを担当、終戦時にはハリウッドにいながら大尉にまでなっています。



政治家としてのレーガンは一貫して反共で保守でした。
当時映画界に吹き荒れたレッドパージ(マッカーシズム)にも手を貸しています。
自分は映画界の労組?だったというのにちょっと不思議ですが、
政治家としての信念をここで定め方向転換をしたということでしょうか(適当)

テレビでの司会の仕事が多く、顔が売れていたレーガンは
選挙運動をする必要もなくあっさりとフロリダ州知事に就任。

知事としては結構フリーダムというか、自由主義を貫き、

「バイクに乗る時には危険なのはわかっているのだから、
別にヘルメットをかぶれなどという法律は必要ない」

としてこれをやめさせたりしています。
これを自由というのならそうなんでしょうけど(笑)

写真にもありますが、レーガンはカリフォルニア州知事も務めました。



そしてその後皆様もご存知の通り、ロナルド・レーガンは
第40代合衆国大統領に就任。
現職だったジミー・カーター大統領を破っての当選でした。



みなさん、この左の人ご存知ですか?
「頭にシミのある施政者を戴くとソ連は崩壊する」とある預言者がいったという、
ミハエル・ゴルバチョフ書記長です。
これは、反ゴルビー派から出た、警告のつもりの言葉でもあったわけですが、
今考えればこの預言者の言ったことは怖いくらいに当たっていたことになります。

この写真の二人は、米ソの冷戦終結を意味する、中距離核戦力
(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃条約に署名しています。



ソ連が崩壊する前にまずベルリンの壁が崩壊しました。
東欧諸国の革命の流れはもはやとどまるところを知らず、
チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアが民主化を果たします。

これらの動きには「レーガン・ドクトリン」が起動力となっていたことは
歴史が証明するところです。



このときのレーガン曰く「ゴルバチョフさん、壁を壊してください」。
「壁を壊せ」というレーガンの言葉は、のちに実現します。



ベルリンの壁崩壊後、レーガンがブランデンブルグ門で行った
歴史的演説の原稿(レプリカ)。



スピーチトレーナーによる書き込みが残ったままです。



”わたしは子供達のために、我々がこの最悪な軍拡戦争を回避する
何らかの方法を見出すことを希望しています。
我々がやらなければ、アメリカがそれを放棄することはないと保証します”

ベルリンの壁が崩壊してから2年後、ソ連は崩壊し、事実上冷戦は終了しました。



レーガンの外交政策は彼の気さくな性格を表したものでした。
歴代大統領と(大統領選を戦ったカーターとも)仲よさそうなレーガン、
マーガレット・サッチャー英首相、ローマ法王、マザーテレサ。

西側諸国の首脳との関係はとても良く、実家の農場に彼らを招待し、
ファーストネームで呼び合うなど、レーガンの本領発揮でした。
そして・・・、



我が先帝陛下と並んだロナルド・レーガン夫妻。
これはレーガン最初の訪日のときの写真です。

このとき明治神宮で流鏑馬を見たレーガンは、映画俳優としての血が
騒いだのか、「自分もやりたい」と言い出して周りを困らせたそうです。



「ディア・セクレタリー・ミヒャエル・ゴルバチョフ」

で始まるゴルバチョフ大統領への手紙。



先日レーガンが自分のことを「ダッチマン」と呼ばれたい人であった、という話で
「それならロン・ヤス外交はどうなる」と書いたばかりですが、その中曽根さんと。

「ロナルド・レーガンルーム」のこの「ロン・ヤス外交」コーナーは、
日本に「ロナルド・レーガン」が着任することが
決まってから、改めて内容を充実させてくれたのだそうです。

ただしこれを見ることができた日本人が今までどれくらいいるのかは謎です。
観艦式のとき、もちろん安倍首相は見たんだろうと思います。



中曽根首相の頃、アメリカとの間に「貿易摩擦」がありました。
アメリカは日本に対して大変厳しい経済政策を取っていましたが、
(車会社のトップスリーがみんなでやってきて車買えといったりとか)
西側で安定した民主主義国家である日本が、反共の重要な拠点であることを
レーガンは重く見、安全保障を充実させていきます。



いうなれば、ソ連を崩壊させたのは他ならぬレーガンでした。
最初に「アクシス・オブ・イーブル」(悪の枢軸)呼ばわりして、その後ソ連と
「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略で、真っ向から戦う道を選んだレーガンは、
一貫して、アメリカが「強い国」であることを強調しました。
この国に手を出せるなら出してみるがいい、と言ったところです。

(あれ?安倍さんの”積極的平和主義”って、つまりこれの穏健版?)

「スターウォーズ計画」で軍拡ならぬ宇宙計画による競争を仕掛け、
ソ連を疲弊させる、というのもレーガン政権が発案した作戦でした。


人種差別政策にも積極的で、1988年には戦後長らく懸案の課題だった
第2次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容に対して、謝罪と、
1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っています。



ナンシー夫人は、女優だった最初の夫人と離婚後再婚した2度目の妻です。
女優出身ということで最初は叩かれたそうですが、あえてボロをまとって
「セカンドハンド・ローズ」(リサイクルショップに生まれた女の子の嘆き歌)
を歌ったりして、堅実さをアピールし、それは成功したようです。

レーガンが病に倒れてからは彼女が代理として儀式などに出席しています。
2016年現在、94歳でまだご存命です。


このパネル右下に、1981年に起きた大統領襲撃事件の説明があります。
このときレーガンは大統領に就任してまだ2ヶ月目でした。
心臓すれすれの肺に被弾したのに意識は確かで、手術前には医師に

「君たちが共和党員であることを祈るよ」

と冗談をかました(医者は民主党員だったが”今日は共和党員です”と返した)そうです。



そして、2001年、ニミッツ級空母の第9番艦に、「ロナルド・レーガン」という
名前が付けられました。
本人が生存中に付けられた海軍軍艦としては、合衆国で三番目の空母となります。

レーガンは引退後アルツハイマーを発症していましたが、この頃自宅で転び、
寝たきり状態だったので、命名もナンシー夫人が行い、その2年後の就役にも
本人が立ち会うことはありませんでした。

空母「ロナルド・レーガン」が就役するのと入れ替わるように、
レーガンは家族に見守られながら自宅で世を去っています。



ここには本日お話ししてきたレーガンの功績が書かれています。
レーガンがアルツハイマーを国民に告白したとき、その手紙の

I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.

わたしは今、わたしの人生の黄昏に至る旅に出かけます。

という部分は多くの人々に感銘を与えたそうです。


続く。
 


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